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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第63話 立ち入りの前に。




 集合した者たちのうち、与力や内与力や同心を集めた会合が奉行所の中庭で行われた。

 彼らは中庭で正座をし、お綱に対して平伏している。

 平次と奉行は殿上で、彼女の左右にそれぞれ控えることになった。


(なんか、不思議な気分だな……)


 そんなことを思う。

 はじめて江戸城にやってきた時、自分は殿上ではなく土の上で平伏していたのだから。

 そして事実上の発言権がなかったお綱が、いまや自らの口で同心たちに呼びかけようとしている。

 目に見える直截的な身分制度。その上位にいつの間にか位置付けられていることを、否応にも意識させられた。


「面を上げなさい」


 全員に聞こえるような、それでいて鈴を転がすような声でお綱が言った。

 恐る恐る顔を上げた者たちの誰もが、一斉にうめき声にも似た吐息を漏らす。

 そこにいたのが絶世の美女であり、そして男だと無思考に考えていた将軍そのひとだと理解したからだった。


「報告によれば、江戸城で人斬りを行い、わたくしの臣である御膳医を害そうとした黒幕は亀丸屋と大久保内膳であったとのこと」


 眼下にいる全員に対し、綺麗な発音でお綱は続けた。


「つまり、わたくしたちは彼らを捕らえねばなりません。なぜか。幕府の資金を横領した挙句、自らの不正を維持するために犯行に及んだからです」


 お綱の声は実に良く通る声だったが、長い時を共有してきた平次は、少女の声のなかにある緊張感を鋭敏に嗅ぎ取っている。


 やはり衆目の前で話すことは慣れないし、緊張するのだろう。


 お飾りの将軍として人形になることに慣れていても、彼女の境遇を考えれば、実際に発言することになれているはずがないのだから。

 つまり相当な勇気を振り絞っているはずで、その勇気の根源が何かを察した平次は誇りと共に痛烈な気恥ずかしさを覚えることになった。


「ですが、ここにはわたくしよりも江戸の実情に詳しい者たちが揃っています。これより、本件の陣頭指揮を執る左近将監が今後の構想を述べます」


 奉行は礼の姿勢をお綱に取った後、よく通る張りのある声で言った。


「これより行う亀丸屋立ち入りの目的は、店主である金衛門と内通者である大久保内膳の身柄を確保することにある」


 奉行は作戦の内容を説明した。

 計画は実に常識的で平凡な、とはいえ実に堅実な内容だった。

 同心らが雇い入れている岡っ引きも動員し、亀丸屋の敷地を包囲。

 その上で突撃藩が表店より裏店屋敷まで突入し、金衛門と大久保を捕縛するというものだ。


「何か質問はあるか」


 お綱の前ということもあるのだろう、奉行は威厳を意図的に演出しながら与力たちを眺める。

 誰も質問する者はいなかった。実にシンプルな作戦だからだろう。

 あるいはお綱、もとい徳川家綱という最高権力者を前に変な質問をして赤っ恥を掻きたくなかったのかもしれない。


 いずれにせよ会合の終了が告げられた。

 奉行が告げた出発の時刻は四半刻後、すなわち現代的には30分後ということになる。

 お綱は奉行所の客間に通され、平次もまたそこに招かれた。

 もちろん平次自身の意思ではなく、お綱に促されたのだった。


「本当にご立派でした、お綱さん」


 万感の思いと共に平次は感想を伝えた。


「まさかあそこまで堂々とお話されるとは思いもしませんでした」

「ありがとうございます、平次様」


 お綱は緊張で強張っていた表情を緩める。

 そしておずおずと、いつしかいつものように遠慮なく寄り添ってきた。


「あなたのおかげです」

「いいえ。お綱さん自身が変わろうとしなければ、あそこまでは」

「ですけれど、切っ掛けを下さったのはあなただわ」


 姫将軍は微笑を浮かべながら、平次の頬を撫でる。


「このような情勢下です。あなたを手放さないためならば、何だって致します」

「大変な話です。(まつりごと)というのは、どうにも」

「はい。やはり幕閣の老人たちには敵いませんね……爺が味方でなければ、今頃どうなっていたことか」

「幕閣の会合にも行かれたのですか」

「ええ、ここに来る前に」


 お綱は大きく吐息を漏らした。

 体内に残っていた強烈なストレスを、根こそぎ吐き出そうとしているかのようだ。


「わたくしの退位の意思を伝えてきました。名目上は、このたびの不祥事の責任をすべて取るということにして」

「随分と大胆なことをしましたね、それは」


 実際のところ、平次は驚いていた。

 幕閣の者たちの責任であるとして退位の譲歩を引き出すのではなく、自らの責任として引責を申し出るということに。

 そしてすぐに、お綱の行動が幕閣に強烈なプレッシャーを掛けたのだろうということも理解する。

 将軍が責を負って退位するようなことがあれば、行政を担ってきた幕閣の立場がなくなるからだ。


「それ以外に筋を通す論が思いつかなかったのです、お恥ずかしい限りですが」

「とはいえ、危険な橋だったのではないですか? ご自分で責任をしょい込むということは、それだけ攻撃される余地を残すことになるでしょうし」

「はい」


 お綱はうなずいた。しかし彼女の目は据わっている。

 もはや迷いもためらいもなく、目的の果実をつかみ取ることしか考えていないかのようだった。


「ですが、それはもはや些事でしかないのです……わたくしにとっては」


 些事と来たか、と平次は内心で衝撃を受ける。

 もはや通常の思考では辿り着けない境地にお綱の心はあるようだった。


「この身も心も平次様のもの。わたくしは平次様を従える立場でありながら、その実、あなたへの恋の信徒でもあります」


 お綱は平次の胸に、鉢巻を巻いた額を押し付けながら続ける。


「わたくしにとっては、平次様がすべてなのです。あなたの望まれること、必要とされること……それを叶えるためにわたくしは、地獄の猛火に身を焦がされることだって厭いません」

「随分と妄信的に聞こえたりもしますが」

「恋は盲目というではありませんか」


 お綱はそっと額を離し、恋い求めるような双眸(そうぼう)を平次に向けた。

 平次は腕を伸ばし、美しい小袖に身を包んだ美しい少女を抱きしめる。

 するとお綱は身を震わせ、彼女に似つかわしくないとさえ思えるほどの力で平次を抱きしめてくる――まるで、圧殺しようとするかのように。


(ああ、これはまずい)


 平次はお綱から漂う香りを鼻腔で味わいながら、もはやどうしようもないほどに心身が昂っていることを理解した。

 すぐにでも理性が崩壊しそうな気がしたが、すんでのところで踏みとどまる。

 なにしろ四半刻後には亀丸屋への立ち入りなのだ。

 荒事になる可能性も高く、無駄に体力を消費することはためらわれた。


 平次が危機感を覚えたその時、襖の向こうから声が掛かった。

 奉行の声だ。我に返ったらしいお綱が飛びのき、体裁を整える。


「上様、御膳医殿、お目見えを願う者が参っております」

「どなたですか」


 お綱がしっかりとした声で応じた。

 その表情には羞恥と恨めしさが混在している。


「鬼取役の内藤主膳殿にございます」

「お通しなさい」


 お綱はすぐに応じた。

 その簡潔な応答を聞きながら、平次は『どうして内藤様が?』と疑念を抱く。


 しかし考えるだけ無駄だとすぐに理解した。

 どうせすぐにでも聞かされることになるのだろうから。

 廊下から聞こえる足音を耳にしながら、そんなことを思う。


「内藤でございまする」


 あの四角四面な独特な口調が聞こえ、平次は思わず苦笑した。

 お綱も同様だった。されどすぐにその笑みも消える。内藤が完全武装していたからだ。


「いかがしましたか、主膳。そのような物々しい格好をして」


 お綱が顔をしかめながら完全武装の臣下を見る。

 それにすぐに気付いた鬼取役は、子供の用に歯を見せて微笑んで見せた。


「保科様より通達を受け、やはり毒見をせねばなるまいと思いましたゆえ」

「毒見」


 姫将軍は気の抜けたような声を発する。


「は、上様を蝕もうとする毒を取り除くのが拙者の務めにございまする」

「ですが、これはもう膳奉行の管轄ではないでしょう」

「そうかもしれませぬ」


 内藤はうなずいた。


「ですが、命を落とした西山、そして襲われた平次殿。黒幕である亀丸屋の金衛門に内膳も、すべて上様の膳に関わる者。となれば、責任者である拙者が、この事件の行く末を見守る道理もあるというものではありませぬか」

「見守る道理、ですか」


 お綱は苦笑しながら言う。


「そのような物々しい格好をして。見守るだけで済ませるつもりもないのでしょう?」

「御慧眼、おそれいりましてございまする」


 内藤は続けた。


「やはり、討ち入りとなれば駒は多ければ多いほど良いと思いますゆえ」

「討ち入りだなど物騒な。立ち入りです、あくまでも」

「同じことでございますぞ、上様」


 内藤は真顔で、そして至極真面目な調子で言った。


「保科様も、此度はまず確実に荒事になろうと判断しておりまする。なにしろ旧豊臣方の者共を援助しておるような手合いです」


 確実に、相当数の残党を屋敷に抱え込んでいるはず。

 内藤の言葉が、やけに真実味を帯びて平次には感じられた。

 と、同時に思う。あのくのいち、楓は今ごろどうなっているのだろうかと。

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