第62話 政治の表舞台へ。
幕閣の老人たちは明らかに動揺している様子だった。
将軍の慰撫を是が非でも行わなければならないのに、喫緊の課題として、亀丸屋と大久保内膳の検挙に対応しなければならなくなったからだ。
正之はそのなかで淡々と職務を遂行している。
幕府による実力機構として江戸町奉行所を指定し、その指揮官として奉行を指定する。
彼は老中直轄の旗本であり、権力中枢にも近い人物だった。
「わたくしが指揮を執ると申したはずです」
だが、そこにお綱による横入れが入った。
正之は「承りました」と応じた後、「上様」と呼びかける。
「ひとつ、お願いしたいことがございますが」
「わたくしに可能なことであれば」
お綱は身構えるように応じた。
正之は自分に対して友好的だが、しかし最終的には、幕府の機構的存続を優先すると理解している。
「この度の検挙の指揮を執るということは、すなわち同心たちを統率するということになりますな」
「はい」
お綱は答えた。頭のなかで、正之の思考パターンをいくらか想定する。
しかしいまいち真意を測りかねた。
「もちろんわたくしは荒事の経験はありませんから、奉行に実務を任せざるを得ないと思いますが」
「それがよろしいでしょう」
正之は顎を撫でながら同意した。
「しかし指揮を執るとなると、相応の格好をして頂かなければ困りますな。将軍が他者を公然と従えるには格式というものがあります。最低限、鎧甲冑は必要となりましょう」
「それは承知しております」
お綱は首肯した。
「ですが、まげてお願い致します」
お綱は言った。鎧甲冑や兜の類は、装着者の身体に合わせて作られるものだ。
しかし女性であり権力とは無縁の場所にいた少女は、鎧甲冑を身に着けるための採寸など一度もしたことがない。
つまり自前の鎧兜がないということであり、正之の求めには応じることができないのだった。
「上様」
正之はお綱に言った。
これは冗談事で終わらせられることではないのですぞ、という表情である。
「上様がおなごであることは、未だ公言されていないこと。それを幕臣に知られることになります」
「何か問題が」
「名誉の問題に関わりますな、幕府の」
お綱は尋ねた。
「おなごを将軍として担ぎ上げていたことに対して?」
「実に勝手なことながら。幕府の御家人には、上様がおなごだと知らない者の方が多いでしょう」
他にも問題が、と正之は言う。
「そういった者たちは、自分がこれまでおなごに奉仕していたのだと知らされることになりましょう。平次を雇い入れたことにも色眼鏡で見られるようになることは必定」
「ですが、それが真実です」
「真実こそが正しいとは限らないのです、上様」
正之は微笑と共に応じた。
「しかし我らがお諫めしても御心は動かない様子。ならばこれ以上の言葉を弄したところで無駄でしょう。御心の赴くままにお振る舞いください」
「爺はそれでいいのかしら」
お綱は伺うように訊く。
理由を付けて更に引き留めるだろうと思ったのだ。
もちろんその場合、対立も辞さないつもりである。
「上様の御心が決まっている以上、儂に何が言えましょうや。平時における臣下の務めとは、主の尻拭いをすること。そしてこの正之が職務は、幕府のひずみを修復し続けることにあります」
正之は姿勢を伸ばし、はっきりとした声で言った。
「上様が行われることで生まれるゆがみも、必ずや押さえ込んでみせましょう」
その言葉に、お綱は信任の感を強くする。
少女は老中たちに「後始末を頼みます」とだけ告げると中奥へと戻った。
そこで打掛を脱ぎ、侍女たちの介添えで豪奢な小袖に着替える。
鉢巻を締め、捧げられた薙刀の柄を掴んだ。
病弱で、気弱で、すぐに体調を崩して落ち込んでいた少女の姿はどこにもない。
自ら望んで迎え入れた男によって身も心も変えられた、あるいは自ら変わることを望んだ姫将軍の凛とした美影だけがある。
そして用意された駕籠に乗り込み、目的地まで揺られながらお綱は思う。
正之に対してもそうだが、よくもあそこまで老中に啖呵を切れたものだと。
いや、だからこそなのだと思った。
あの場所、あの瞬間に老中たちにしっかりと自分の意思を伝えることができたからこそ、正之が最後を引き取ってくれたのだ。
と同時に気付く。それはつまり、わたくしにはまだまだ彼らを束ねるだけの能力もないということ以外のなにものでしかないのでしょうね。
ああ、やはりわたくしには謀議に関する能力がないのかもしれません。
「ですが、これで終わり。何もかもが」
そう、この面倒ごとを片付けて、将軍の位を後継となる弟にさっさとゆずってしまおう。
そして大御所という名ばかりの地位になって、愛する人の悲願である大衆食堂の設立に尽力すればいいのだ。
◆
江戸町奉行所による亀丸屋立ち入りの準備はすでに整っていた。
半蔵率いる公儀隠密の手によって、大久保内膳がすでに屋敷にいないことが明らかになっている。
彼は登城している訳でもないため、おそらくは亀丸屋の裏店屋敷にいるのだろうと奉行は言った。
「それにしても、父上が今の御膳医殿を見たら何と言うだろうか」
奉行はそう言って笑う。
彼は従五位下左近将監という官位持ちであり、格上だった。
とはいえ、それがなくとも、武士には丁寧に対応することに昔から慣れている平次は常に下手に出ている。
そして奉行の側も、将軍直轄でありながらも傲慢さを見せない平次に対して好意的だった。
かつてお綱を診療所へ迎えに来た時は威厳しか感じなかったものの、どうやらこの男は有能云々というよりも親切な気性を有しているらしい。
「君のことは噂になっている。街中でもそうだし、この奉行所に限ってもそうだ」
「その、どのように?」
「町民から上様に取り立てられて旗本にまでなったのだ。やっかみから羨望まで、まるで話題に事欠かない」
「やはりですか」
苦笑する平次に奉行は言った。
「いっそのこと、幕政に打って出てもいいのではないか」
奉行は至極真面目に助言した。
「上様は君を信任されている。その御威光があれば、側用人としてお仕えできるだろう。あわよくば、若年寄や老中の座をも狙えるかもしれない」
「残念ですが、政治の世界にはさほど関心がありません。俺は町医者の息子ですし、料理を作り、食から健康を整えることの方が楽しいですから」
「なるほど、実に無害な男なのだな君は」
奉行は深くうなずいた。
無害というのはおそらく、『政治的に』という意味だろう。
あまり意識してこなかったが、やはり御膳医というポジションは、捉え方次第ではどのような方向にも向かうことができるらしい。
平次は苦笑しながら応じる。
「とはいえ、俺はまた市井に戻ります。料理人として」
「料理人」
「ええ、必要とあらば旗本の地位も返上して」
「驚いたな。いや、そのような心構えだからこそ保科様も動かなかったのだろう」
「どういう意味でしょうか」
奉行はしれっと言った。
「君が危険な存在であると分かれば、保科様はすぐに排除の決断をされただろう。あの御方はそういったところでまるで躊躇がない」
「おそろしいことです」
「つまり、君は眼鏡にかなったということでもある。我らからすれば実に羨ましいことだが」
彼がそう言った時、にわかに外が騒がしくなった。
奉行はすぐに目を険しくして、半蔵に「確認を」と促した。
本来、江戸町奉行に公儀隠密への指揮権はない。
彼の要請には何の拘束力もないのだが、組織とは得てしてそういうもので、実際には無視できるようなものではなかった。
半蔵は一礼して退出したが、すぐに部屋へ戻って来る。
「上様です」
信じがたい状況に直面している――そんなことを言いたげな表情で、半蔵は続けた。
「上様がおなりになっております。この度の亀丸屋の立ち入り、御自ら指揮を執られるとのことで」
江戸町奉行の口が、間抜けにすら思えるほど、あんぐりと開いた。




