第61話 将軍のやりかた。
江戸城本丸の『表』には、夜の帳が下りてからも灯りが点され続けていた。
普段であれば、夜の帳が降りる前には公務のほとんどが打ち切られる。
しかし今日に限っては話が別だった。
平次を囮にした、江戸城に忍び込んだ襲撃者の釣り出し――その作戦の成否が通達されるはずだからだ。
「皆の衆」
江戸幕府の最高級閣僚が詰める場所に、正之の声が響いた。
幕閣に連なる権力者たちの誰もが振り向く。
「上様のお成りです」
途端、誰もが儀礼的に平伏した。
すべての者がひれ伏す空間を、儀礼的に着飾ったお綱が歩く。
そして上座に座ると「面を上げなさい」と礼式に則った言葉を放った。
姫将軍の側には正之が控えた。そこがいつものポジションなのだ。
「上様、ようこそおいでくださいました」
江戸幕府老中首座、酒井忠清が臣下の礼を捧げた。
老中とは幕政の中核を占める存在であり、将軍直轄の大臣格として政務全般を取り仕切るだけでなく、各藩に対する統治全般をも管轄する。
お綱は丁寧に答礼する。彼女にとって、老中筆頭の地位にある彼は無視できない相手だった。
「しかし上様には多大なる御苦労をおかけしております」
「まったくです」
お綱は忠清を見据えながら、はっきりとした声で言う。
「城内に不届き者を招いた挙句、わたくしの忠臣を餌に使わねば捕らえることができないなど、外様のあちらこちらからあなどられてもおかしくありません」
「お叱りについてはごもっともでございます」
「開き直られてもこまります」
「ははっ」
お綱は平伏する閣僚を見る。
そして平次の前で見せる表情とはまったく異なる顔で老中次席・松平信綱に訊いた。
「で、どうなりましたか」
「未だ報告は上がって来ておりません、上様」
信綱は丁寧に言った。
この老人はお綱の父親である先代将軍・家光の小姓を務めていたことがある。
そのため徳川宗家に対する忠誠心は篤いものがあった。
もちろんそれは徳川宗家に対するものであり、お綱という個人に対するものではない。
「されど、御膳医を務めるあの若者のことはよく伺っております。剣の腕も相当に立つと。ご心配される必要もありますまい」
「気遣いをありがとう、信綱」
お綱はうなずき、ぐるりと居並ぶ老中たちを見た。
誰もが一癖も二癖もある政治家たちである。言質を取られないように細心の注意を払って言葉を紡ぐ必要があった。
するとそのタイミングで、侍女たちがお茶やら菓子やらあれこれのせた盆を運んでくる。
この間合いも政治だった。
お綱は江戸城の主ではあったが、この場においては完全なアウェー。
それをよく自覚しながら、作法に則って茶を干していく。
「しかし上様、事が事なれば御気苦労もはなはだしいはずでございますれば、今しばらくお休みになられても」
お綱は「気遣いをありがとう」と応じた。
実際には気遣いをされているのではなく、この場から立ち去って欲しいだけだとわかっていた。
「上様が本件に強いご関心を抱かれているのは周知のとおりであろう」
姫将軍が答礼する前に正之が応じる。
たったそれだけで、この場における政治的立場が明瞭になった。
お綱は内心でホッと安堵の吐息を漏らす。
「なるほど」
信綱が目を光らせながらうなずいた。
「とはいえ、我らに出来ることも現状では少のうございますが」
「だから困り、憤っているのです。わたくしがこの件に出来ることはないのかと」
「いまはあの御膳医を信用し、任せる他にないのではないでしょうか」
お綱は首を振った。
「悠長にする訳には参りません。報告が来た時の対応策を考えなくては」
「それについては、まさしく」
「幕府の対面にも関わります。事態がこうまで発展したとなれば、誰かが責任を取らねばならないでしょう」
「仰ることはごもっとも」
「もちろん、老中の誰かの首を換えよというのではありません」
安堵の気配が室内にどことなく漂う。
彼らは政治的生き物であり、権力を喪失することを過度に怖れる。
「それにしても上様、ここ最近は政に御関心を召されたようでなによりでございます」
表情をまるで変えずに信綱が言った。
表層の言葉ではなく、裏の意味でお綱は受け取る。
つまるところ『あなたが政治の場に関心を持つとは厄介だ』という意味で。
「迷惑ですか」
すぐさまお綱は答礼する。
「天下安寧天下静謐を願うは幕府開府以来の徳川宗家が家長の務めですが」
「迷惑なはずがありません。我ら一同、喜ばしく思っております」
信綱はそう答えるしかないのだろう。迷惑だと言えば逆臣となってしまうから。
そのあたりの政治の論理は、ここしばらく正之から手ほどきを受けていたところだった。
爺は時々分からなくなる、とお綱は思う。
幕府を優先しているのかわたくしを優先しているのか、どちらなのかしらと。
「そうでしょうとも」
お綱は政治的優性を取るための言を紡ぐ。
「いささか眠り過ぎたのかもしれません、わたくしは」
「上様がお眠りあそばされていても、幕府を回すのが我らの仕事なれば」
そしてその答礼で、信綱は鮮やかに政治的劣勢を挽回した。
お綱よりも一枚も二枚も上手であることは明白だった。
つまるところ彼の言葉は、『あなたがいなくても幕政は運営できるし、事実、これまでそうしてきたのだ』という表明に他ならない。
それは政治的キャリアのないお綱の前に立ちふさがる、実績と言う名の高い壁である。
侍女たちが新たな盆に茶と茶菓子を乗せて運んできた。
実に計算された間の取り方だとお綱は思った。
自分の立場が追い込まれたところで小休止を入れて決定的な対立を未然に防ぐ。
それと同時に、お綱の政治的劣位を固定化させた状態から会話を仕切り直すことになるのだから。
「感謝しています、皆の者には」
「この上なく有り難きお言葉でござまする」
信綱を含めた誰もが平伏した。
あくまでも権威はお綱の側にあるということが示されている。
どうにかしてそれを利用しなければならなかった。
「だからこそ思います。わたくしはこれまで怠慢であったのだと。怠慢が故に城内に悪徳を招き入れたのではないかと」
「そのようなことは」
信綱が応じた。
家臣としての立場柄、絶対に否定しなければならない言説だからだ。
それを計算した上でお綱は言う。
「いいえ。わたくしは責任を取らねばならないでしょう」
お綱は一度言葉を切って、老中たちを見回した。
これ以上ない程に緊張していた。吐き気を催すほどの。
「この件、わたくしが指揮を執ります。その上でわたくしは、自ら責任を取って将軍の座を引こうと思うのです」
「上様!」
「何を仰るのですか!」
老中たちが詰め寄った。
姫将軍の言葉が、彼らの思い描いているプランに大幅な修正をもたらさざるを得ないものだからだ。
そして彼らが引き留めの言葉を紡ごうとした矢先、襖の向こうから声が掛かる。
悠然とした様子の正之がゆらりと立ち上がり、部屋を横断し、襖を開けた。
そこには幕閣が雇い入れた公儀隠密の者がいる。
正之はかがみ、忍びは耳打ちした。その光景をお綱と老中たちは見つめている。
正之が立ち上がった。彼の双眼には強い光が宿っている。
それは権勢者たる彼にとって、絶好の政治機会が到来していることを誰にも予期させた。
「上様、そして皆の衆」
口調は悠然と、しかし声質には傲然と他者を切り従える色を濃厚にしつつ正之は言う。
「御膳医が上手くやりおおせたようです。城内で悪事を働いた忍びは捕縛。そしてその者の口から、黒幕が亀丸屋と大久保内膳であることが割れたようですぞ」
まさしく政治の季節の到来だった。
正之が次にどのような言葉を投げかけるのか、
それ次第で自分と平次の将来が決まるのだと、お綱は身を固くするのだった。




