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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第59話 イワシのカツ丼とくのいちの心中




 実に理解し難い御膳医の申し出。

 これによって楓は平次とふたりきりになってしまっていた。


(なんなのよ……本当になんなのよ……こいつ……!)


 楓は思わず自分の真正面にいる男をにらんだ。

 身体の自由は上半身だけが利き、下半身はまるで利かなかった。


 というのは他でもない。

 両足は縛られている上に、木の(かせ)まではめられているのである。


(足さえ自由なら、この男の目を箸で潰して逃げだせるのに……!)


 そんな思いが脳裏によぎるが、しかし本当にそれが可能なのだろうかと自信がなくなってくることも確かだ。

 なにしろ彼との直接対決で敗れている身である。

 運が大きく絡んでいたとはいえ、流石に、簡単に殺せる相手ではないということを身体で理解させられている。


(それに……ああ、もう……)


 楓は歯を食いしばりながら、爽やかな微笑を浮かべている青年を睨みつけながら思う。


(こいつ……なんだかものすごく、やりづらいわ……)


 分かるのだ。この男の発言内容に嘘がないということが。

 楓の脳裏には、鳥越神社の近くで『そばがき』を振る舞ってくれた狸顔の夫妻の発言が蘇っている。

 つまりこの男は、本気で『大衆食堂』なるものを作ろうとしているのだろう。

 そのために徳川将軍に取り入っているのではないか、という気さえしてくる。


(でも、そんな器用なことができるのかしら……)


 楓は目線鋭く男を見ながら思った。

 徳川将軍を手籠めにして操っている奸臣かと思いきや、彼の口から出てくるのは真っ直ぐな言葉ばかり。

 しかも楓が得ている事前情報から『嘘ではない』ことしか言っておらず、要するに表裏がほとんどない男だということが理解できる。


(まさかこの男、本物の馬鹿なんじゃ……?)


 そんなことを思った矢先だった。

 平次が先ほどの卵とじをたっぷりの白米の上にのせた丼を示し、箸を差し出してきたのは。


「さ、食べるといい。イワシのカツ丼だ」

「はぁ……」


 いま差し出されたこの箸を口にねじ込んで、あんたの脳を掻き回してやりましょうか。

 そんなことを思うも、流石に口には出さなかった。

 あの狸顔の夫妻に助けられた時もそうだったが、どうやら自分は無償の善意に弱いらしい――そう自覚する。


「毒は入っていない。それに自白剤や変な薬も。だから安心して食べるといい、温かいうちに」


 平次はそう言って箸をお綱に握らせた。

 男に手を触れられて、身体が拒絶反応でびくりと震える。

 だがこの暗殺対象の青年は、お綱の手を引いて手籠めにしようとも、あるいは殺そうともしてくるわけでもない。

 ただ純粋に箸を渡してきただけなのだ。


 そしてそれが、殺伐とした世界で生きてきた楓には染みるように痛む。

 この男が、楓が絶対に戻れない日向の世界に生きる人間だと分かってしまうから。


「ああ、そうか。一応説明はしておいた方がいいかもしれないな。調理の手順は君が見た通りだけど」


 そして何を勘違いしたのか、御膳医は楓を見て料理の説明をしてくるのだった。


「これは先ほど説明したようにカツ丼だ。正しくはカツレツ丼。カツレツは南蛮料理のことで、パン屑を肉類にまぶして炒め焼きにしたり揚げたもののことを言う。それがご飯の上に載っているからカツ丼という名前になった訳だ」


 楓には何が何だかさっぱりだった。

 そもそもからして南蛮料理など、一度たりとも口にしたことがないのだから。

 そんな様子を嗅ぎ取ったのか、平次は更に言葉を重ねてくる。


「先ほど随分と腹部を殴られたんだろう? 内出血や炎症が心配だ。なるべく早く身体を回復させるには、たっぷりの休養とタンパク質が必要になる」

「たんぱく、しつ……?」

「ああ、豆や肉類で取れる栄養のことだ」


 楓にとって、御膳医の青年が吐き出す言葉はまるで呪文のようだ。

 しかし、どうやら身体に良いということだけはわかる。

 されど、どうしても解せなかった。理解不能だった。


「ほんと、馬っ鹿じゃないの……?」


 楓は男の勧めるカツ丼なる料理を見つめながら、ささやくように言った。


「私はあんたの仇のひとりなのに。その仇の身体を整えて、どうするつもりなのよ……。あんたのことを襲って、殺すかもしれないのに」

「その時はその時だ」

 

 平次はあっさりと答える。


「そうしたら、叩き切ってやる。それだけだ」

「いま、すればいいじゃない。私は縛られていて、無抵抗なんだから」

「さっきも同じ話をしたような気がするが」


 御膳医は真面目な顔付きで言う。


「君を殺したら、たしかに俺の心は晴れるだろう。だが、完全に晴れるわけじゃない。君の後ろにいる黒幕が分からずじまいで終わるから」

「……」

「君の背後にいる奴がどんな奴で、何を考えているのかは知らない。だが気にくわないんだ。自分は安全なところにいて、君のような人間を使って、薄暗い事を運ぼうとする奴が」


 楓はうつむく。

 どこまでも真っ直ぐな性根の男なのだと、はっきり理解させられる。

 すっかりひねてしまった自分とはまるで違うその気質に、わずかながら羨望を覚えてしまう自分がいた。


「だが、こんな話をしてばかりではせっかく作った料理が冷める」


 早く食べなさい、というような目で平次が見つめてくる。

 その双眼がやけにまぶしくて、楓は目を伏せた。

 そして箸を取り、丼に付ける。


 黄金色の卵黄に混ざった醤油の色が、十分な味付けを保証しているように見えた。

 なにしろ楓は塩と味噌以外の調味料の味をほとんど知らない。

 醤油だって、これまで2-3度舐めたことがあるかないかといった感じなのだから。


「……」


 しっとりとした卵は甘辛く、編み込まれたネギの食感が心地好い。

 卵に閉じられたカツはしっとりとして、それでいて魚肉と豆腐が元になったとは思えない風味を携えていた。

 口に運べば旨味が拡散し、楓は文字通り意識を失ってしまいそうなほどの衝撃を覚える。


「なに……なによ、これ……」


 今まで感じたことのない味覚を前に途方にくれながら、それでいて食欲をそそる香りを前にして、どうしていいか分からなくなってしまう。

 温かい。温かかった。料理自体も、そこに込められた想いも。

 だがそれを作ったのは、自分が殺さなければならない相手で、そして自分を仇のひとりだと認識している男なのだ。


「なによ、どうすればいいって言うのよ……」


 涙が盛り上がりはじめたのを自覚する。

 本当にどうしたらいいというのだろう。

 それに本来なら、こういった食べ物は弟に与えなければならないのに。


 そう、弟。

 守ってあげなければならない唯一の家族。

 今もきっと苦しんでいるだろうに、それなのに、姉である私は御膳医に負けて、掴まって、それでこんな情けを受けている。


「うっ……うぅ……っ」


 感情が複雑に絡まり合い、いよいよ感情が目と喉からあふれてしまう。

 そんな最中、御膳医の腕が伸びて肩に手を置いてきた。


 ああ、ダメだ――と思う。

 この男、意識しているのかどうか分からないが、相当なスケコマシだ。

 女の感情の機微に漬け込んできて、都合のいいように操作しようという男。

 本人にその意識があるかどうかは定かではないが、おそらくないのだろう。


 だが少なくとも、気の弱った女を引き倒し、抵抗されないように喉を絞めながら手籠めにするような人間ではないということはわかった。


「ひとまずは食べて欲しい。考えるのはそれからでも良いだろう。まずは君の体調を整えねば」


 ああ、とんだ邪悪の塊だと楓は思った。

 そして、その権化に心を揺さぶられていることを理解する。

 供された料理に箸をつけ、涙を零しながらそれを食べつつ――これはもう、ダメかもしれないと思われた。


 自分ひとりであれば、黙秘し続けて殺されるのもやぶさかではない。

 それで殺されても文句はない。

 しかし楓というくのいちは、自分が死ねば家族もまた死んでしまいかねない立場なのだ。

 世話を近所の人に頼んでいるとはいえ、それにも限界があるのだろうから。


 となればどうすればいいか。

 もはやこの料理人であり医師に膝を屈し、弟の面倒を見てもらえるように懇願するしかないのではなかろうか。


 最悪、自分は殺されてしまうだろう。

 だが弟は生き延びてくれるのでないか、という淡い期待があった。

 なにしろ、弟はこのままの状態を続ければきっと長くないだろうから。


(私はどうなってもいい、でもあの子だけは……)


 そんな葛藤を常に抱えているのが――楓というくのいちの、最大の弱点だった。

 感情の昂りを鎮め、十分に心の準備を整えてから、くのいちは御膳医にそっと尋ねた。


「ねぇ、取引の余地は残っているかしら」

「さて、どういった取引だろうか。俺だけの判断では決められないが……あぁ、えっと」

「楓です。それが私の名前」


 そこまで言って、深々と頭を下げる。

 そして敬語でかたりかけた。


「知っていることはすべてお話します。どんな罪でもお受けします。ですからどうぞ、弟を診ては下さいませんか」

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