第58話 くのいちに温かい料理を。
江戸の秩序維持を所管する北町奉行所。
その炊事場は江戸城の御膳所とは比べるまでもなく、こぢんまりとしている。
しかし独身の同心たちへの『まかない』が慣習的に行われていることもあり、調理の設備自体は最低限以上のものが揃っていた。
それら調理器具を平次は検めていたが、問題ないと判断すると調理台の前に戻った。
そこにはいくらかの籠がある。先ほど、奉行所の同心たちが市場で確保してきてくれた食材が入っているのだ。
いずれも売れ残りで、鮮度もそこまで高くない。
だがそれ故に、腕の振るい甲斐があると平次は思っている。
(しかし、奉行所の誰もが都合よく解釈してくれるとは思わなかったな)
というのは他でもない。
捕縛したくのいちに食事を振る舞いたいと平次が願った時、奉行を含めて誰もが仰天した。
罪人に対して拷問を加えるならまだしも、もてなすようなことをしてどうするのだ――というわけである。
しかし、江戸の秩序維持の再建に努める奉行は頭の回転が速い。
平次の申し出を『暴力でも情報を漏らさないくのいちを、食事で懐柔してみたい』という提案だと解釈したのだった。
それは平次の考えとはもちろん異なっているのだが、上手く行くなら黙っているにこしたことはない。
「説明しなさい、これはどういうことなのかしら」
やがて半蔵たちに連れられて、縛られた状態の楓が入室してくる。
彼女は反抗的な顔で男たちをにらみつけていた。
遅れて入室してきた奉行を見ると、狂犬の如き殺意をふりまきはじめる。
徳川家の上級官僚は、このくのいちにとって何よりも憎ましい相手なのだろう。
「殺してやる、あんたたち全員殺してやる……っ!」
「ずいぶんと物騒なことを言う」
平次は苦笑した。そして調理台の前に引っ立てられたくのいちに声をかける。
「炊事場に荒事は持ち込むべきじゃない。それに今からはじめる料理は、君のためだけに作るものだ。そして君は俺の手順を見ておく必要がある。先ほど警戒した、毒やらなんやらを混ぜられないように」
「はぁ……?」
気丈な女だ、と平次は内心で思う。
いや、気が強くなければ女ひとりで荒事の世界に身を投じるようなことはすまい。
あるいは、そうならなければ生き残ることなどできなかったのだろう。
「まぁ、とりあえず見ていてくれ。君が食べるものなのだから」
「私は、食べるだなんて一言も……」
「好意は素直に受け取って欲しい。見返りは求めないから」
何か言いたげなくのいちを見て、平次は先回りをするように付言する。
「裏はない。ただ今日は、腹をしっかり満たして欲しいんだ。はっきり言って、君はあまりろくなものを食べていないようだから」
そう告げてから、平次は机の上にあるものを示した。
豆腐やイワシやネギがあり、卵が2個ほど転がっている。
そのほかには片栗粉や調味料、生の玄米もあった。くのいちは顔をしかめてそれらを見つめた。
「これが、君に振る舞う料理の食材になる。確認して欲しい、変なものは何もないはずだ」
くのいちは沈黙するだけで、何も答えない。
平次は構わず続けた。
「かつて何度か患者に作ったことがある料理を作ろうと思う。おおむね好評だったから、君も気に入ってくれると期待している」
そう言うと、わずかにくのいちの表情が動いた。
ああ、なるほど。平次は理解する。この女、俺が江戸で膳医として立ち振る舞っていた話をどこかで聞いているに違いない。
「身体は資本だ。健康でなければ何もできなくなる。そして健康でいるためには栄養を取らなければいけない。病気も、結局は栄養がなければ回復できないんだ。俺が食を重視する理由はそこにある」
「……ふん」
くのいちは平次から視線をそらした。
「将軍にしか調理をしなくなったあなたは、つまり民を見捨てたってことじゃない」
「そう思われても仕方がないかもしれない」
くのいちを殴り飛ばそうとした半蔵を目で押さえ、平次は言う。
「だが俺は、近いうちにまた市井へ戻るだろう。誰もが手軽に利用できる大衆食堂を作るために」
「大衆食堂……?」
「そう」
平次はうなずいた。
「誰もが手軽に利用できる食堂を作りたいんだ。そうすれば、江戸の栄養事情はきっと良くなるはずだから」
「……一文無しは追い返すくせに」
「そんなことはしない」
くのいちに平次は言った。
「料理を前にしたら、誰もが笑顔でなければいけないと俺は思う。追い返して泣かせるような真似だけは、絶対にしてはならない」
もっとも、他の客の迷惑になるような人については例外だが。
そう告げると、平次は視線を調理台の上に戻した。
「そんなわけで俺は、君に殺されるわけにはいかないんだ。まだまだやらなければならないことがあるから」
平次は豆腐を水切りにして、ネギをみじん切りにしていく。
以前、お綱の前で披露したようにイワシを三枚におろす。
そして骨を取り除いたうえで、「なめろう」を作るようにひたすら身を細かく叩いた。
「無理よ、そんなこと」
平次が豆腐とイワシの身を混ぜているのを見ながら、くのいちはつぶやくように言う。
「絶対に無理よ。だってそんなの、絶対に経営がなりたたなくなる」
「ああ、普通だったら無理だ」
平次は豆腐とイワシのタネに、カツオ出汁で溶いた片栗粉と塩を入れて混ぜながら応じた。
「だが俺は普通じゃない。上様に膳医として仕え、そして御膳医となってからずっと莫大な報酬を貰っている。それこそ、一生かかっても使い切れない程の」
玄米をすり鉢でゴリゴリと擦り、米粉を作りながら言葉を続ける。
「ならば、そのカネは有意義に使わなければ。使い切れない額をためこんだところでどうにもならないわけだし」
「まるで金持ちの道楽ね」
「たしかに」
平次は米粉をまんべんなくまぶしたタネを持ち、熱したごま油のなかにそっと落とす。
じゅわぁあぁっと油で揚がる小気味よい音が立ち、それを聞きながら言った。
「そう言われると、たしかにそうなのかもしれない。だが、だからこそ、初心を忘れてはいけないんだろうと思う」
「ふん……どうだって言えるわ」
「そうだな。だから行動で信じてもらう他にない」
平次はカラッと揚がったイワシのカツレツを懐紙の上に置き、油を切った。
そしてそれを包丁で切っていく。
サクッ、サクッと刃が通るたびに小気味よい音が立つ。
「……くっ」
ぐぅっ、とくのいちのお腹から音が鳴った。
彼女は心底屈辱的だと言わんばかりの表情を浮かべている。
「なにも恥ずかしがる必要はない。料理を前に腹の音が鳴るのは自然だし、なにより料理人としてはそれが嬉しいことだから」
平次はそう言いながら、油を入れた鍋のなかにネギを入れて軽く炒りつける。
そして水を入れ、醤油と水飴を加えた。
甘辛いネギ汁ができあがると、平次はそこに揚げたばかりのイワシのカツレツを投入。
溶き卵をその上から掛け入れ、ふたを落として蒸していく。
(本当は半熟が美味しいんだけど、流石に江戸時代の鶏卵じゃリスクが高すぎる)
そんなことを思いながら、平次はくのいちに向き直る。
「後は卵が蒸し上がるのを待つだけだ。きっと君も気に入ってくれると思う」
「……ふん」
「見ての通り、毒も入れていない。安心して食べてくれて構わない」
平次はそう言って、彼女の背後に控えている半蔵を見た。
「彼女の拘束を解いてくれ、これでは食べられないだろう」
「御膳医殿、正気ですか!?」
江戸町奉行が驚愕の声を上げる。
この前まで町民の息子だった平次に対して丁寧な言葉を使っているあたり、やはり将軍直属という看板は大きいのだろう。
そして驚いているのは奉行だけでなく、半蔵をはじめとした忍びたちも同様だった。
くのいちである楓もまた、その例外ではない。
「正気です、お奉行様」
平次はあくまでも奉行所の統率者を立てながら言った。
「ですが、あくまでも俺は料理人としてこの女性と向き合ってみたいと思います」
「殺されかねませんぞ! この部屋は刃物も多々あります」
「ならば他の部屋でも構いません」
平次はそう言って奉行に頭を下げる。
「少なくとも食事を取る時、両腕だけは自由にしてやれればと」
「うーむ……」
奉行は難しい顔をしていたが、やがてうなずいた。
彼が平次の意思に従う法的な理由はない。
しかしここで御膳医の不興を買い、その評価が大政参与である保科正之や将軍に伝わったらまずい――そんな政治的な意図が働いたのかもしれなかった。




