第55話 襲撃者との邂逅。
会津中将、保科正之。
彼が見せた精神性に、平次は大きな感動を覚えていた。
それと同時に、否が応でも自分の責任というものを意識させられている。
この老人にそこまでの負担を負わせる自分とは一体なんなのか、改めて考えさせられる思いがしてならない。
「上様を悲しませるような結果を、儂は望んではおらぬ」
本丸の表を出るまで正之は見送ってくれた。
その別れ際に耳打ちされた内容が、頭の中でリフレインする。
城外へ出るまでは待ち構えていた内藤が送ってくれたが、それもどこか上の空だった。
お綱は城の外へ出るまで遂に姿を現さなかった。
いささか激しくしすぎたかもしれない。平次はそんなことを思いながら、橋の向こう側で待ち受けていた――急造の公儀隠密の棟梁と合流した。
「桑名藩より出向いたしました服部半蔵です」
彼はそのように、手短に名乗った。
へぇ、忍者の服部半蔵か。何代目の半蔵なのだろうか。平次は愉快な気持ちになった。
どうやら幕府が最精鋭の忍者を集めたという話は本当のことらしい。
「御膳医殿。本日はなにとぞ」
「頼りにしています」
平次はそう言って頭を下げた。
すると彼はびっくりしたような様子で言った。
お侍様、忍びに頭を易々と下げるものではありません。
その語調がやけに鬼気迫るものだったので、平次は「何か変な事でも?」と返した。
身分がどうとか言われた場合、「俺は気にしない」と応じるつもりだった。
しかし帰ってきた言葉は、随分と物騒なものでしかない。
「忍者の前で首を差し出すことはいけません。首を落としたくてたまらなくなります」
「首を」
「はい。どうすればこの首を効率よく切り取れるのか、頭がその思いでいっぱいになってしまうのです。忍びとはそういった生き物ですから」
流石にそんなことはないだろう、と平次は思った。
しかし口には出さなかった。もし仮に本当だと分かれば、市井で頭を下げることに恐怖を覚えてしまいそうだったからだ。
「ちなみに」
話題を変えるべく、平次はひとつ咳を入れた。
「もう敵方は動いていますか?」
「おそらくは」
忍者の棟梁はうなずく。
「きっとこのやりとりも見られていることでしょう」
「それは困った。さて、大丈夫でしょうか」
「問題はないと思います、御膳医殿。拙者もすぐに御膳医様のお側から離れますゆえ」
「段取りはどうなっていますか?」
平次は丁寧な口調で尋ねた。
自分の命が関わるのだ。傲慢な態度をとれるはずがない。
「ひとまず、城下で夕刻までお過ごしください。できれば室内で。その後、不忍池までお越しいただければ」
「不忍池……」
不忍池といえば、江戸でもっとも有名な池のひとつといってもいいだろう。
琵琶湖の竹生島を模した人工島・弁天島の浮かぶ池である。
この島には弁天堂があり、アクセスを容易にするために石橋を架ける計画があったが、明暦の大火とこれに伴う財政逼迫によって中断されていた。
「はい。夕刻ともなれば人の目もさほどありませんので」
「なるほど。それで、現地での手はずは?」
「ふたりほど『つなぎ』を不忍池の周囲に置いておきます。その者が、御膳医殿が不忍池の周囲にきたことを確認次第、我らに連絡。不忍池を包囲し、不届き者が逃げ出さぬよう迫ります」
「つまり」
平次は再確認するために訊く。
「その間、俺は襲撃者とふたりきりということですね」
「はい」
半蔵はふてぶてしくもうなずいた。
「失礼ですが、御膳医様には護衛も不要なのではないかと思えるのです。というのも、以前に御膳医様を襲撃して返り討ちになったあの男たち」
公儀隠密の棟梁は平次を見つめながら言った。
「あれらは、日陰の世界ではずいぶんと名の通った忍びの一座でした。数多くの藩が追討の忍びを送り、いたずらに犠牲をかさねていたほどの」
「しかし俺は、単なる……」
「誰ひとりとして、御膳医様の言うことなど信用しないでしょう。単なる医者、単なる料理人が札付きの忍びを斬り殺して死地を切り抜けるなど、ありえるはずがない」
思わず、天を仰いでため息を漏らす。
やや間をおいて「では」と礼の姿勢を取ると、半蔵はスッと離れて遠ざかっていく。
それを見ながら、ありとあらゆる人物が俺を過大評価しているのではないか――平次はそんな思いに駆られるのだった。
◆
作戦決行の地となった不忍池は、かつて東京湾の入江だったと考えられている。
平安時代の前後に東京湾が引き、取り残されて池になったのだとか。
池の周辺には篠が生い茂っており、これが不忍池の語源になったという説がある。
また、男女が逢引する場所として好まれ、忍ぶことも忘れて大いに乱れた者が多かったために「不忍池」と呼ばれるようになったのだという俗説もあった。
(あのくのいちが、忍ぶことなく堂々と襲いかかってくれたら対処は楽なんだが)
だが、もとよりそんなことは期待できないだろう。
夕日を見ながら平次は嘆息する。
おそらくは、不意打ちに等しいかたちで襲撃を受けることになるだろう。
某手裏剣か、あるいは他の飛び道具か。
火縄銃でなければいいのだが、と平次は思った。
手裏剣などの飛び道具であれば、奇跡的に反応することができる可能性がある。
だがしかし、流石に、高速で飛来する銃弾に対応するだけの反射能力を――自分が持っているとは思えなかったのだ。
「あっ」
とっさに、平次はフィギュアスケーターもかくやといった様子で跳躍した。
それとほぼ同時に、足元の土道が爆砕して飛び散る。
鎖の尾を引いた分銅が凄まじい勢いで、平次のくるぶしを粉砕すべく飛来したのだ。
破壊するべきものを破壊できなかった分銅は、あっという間に引き戻されていく。その先には雑木林があった。
「出てこい! お前なんだろう!?」
平次は柄に手をかけ、いつでも抜刀可能な状態にする。
そして、分銅が戻っていった場所を見つめた。
夕闇の中といえども、集中すれば物音が立っているか否かくらいは分かる。
それに、隠す気配もない――濃密でむき出しの殺気がそこにあるのだ。
捕捉し間違うということはないだろう。
(鎖付きの分銅ともなれば、相手は鎖鎌か……これは少し面倒だな)
鎖鎌とは、農業で用いられる鎌の柄に鎖を接着させ、その先に分銅を付けた武器である。
鎖ごと分銅を振り回し、勢いをつけて敵に投げつけることができる。
鎖分銅が顔にでも当たれば確実に頭蓋骨を砕いて絶命させることができるし、肩や腕に当てれば刀を握ることができなくなってしまう。
投げた分銅と鎖が刀に巻きつくことがあれば、武器として刀を機能不全にすることもできるのだ。
そしてじりじりと間合いを詰め、あるいはそのままたぐりよせて、鎌で致命傷を与えるというわけである。
(それに足を狙ってきたとなると、完全に玄人だよな……)
やはり相手は尋常の相手ではない。
平次の背中を冷たいものが流れた。
(鎖鎌は弓のように相手の間合いの外側から攻撃できる。弓なら矢を射られる前に距離を詰めればまだ生き残る可能性はあるが……)
道場で教えられた知識を思い返す。
それにしても、鎖鎌は厄介な武器だ。
投げる瞬間に投擲する鎖の量を調整することで、攻撃する間合いを調整することができるのだった。
つまり懐に飛び込んでも分銅で確実に迎撃されるので、刀で相手をするには非常に相性の悪い相手なのである。
(いや、下手に相手をしなくてもいいのか。時間さえ稼げれば、幕府お抱えの隠密たちがやってくるだろうし……)
そこまで考えて、平次は甘い考えを打ち捨てた。
正之も言っていたではないか、幕閣の老人たちは平次が死んでも構わないと思っているのだと。
ともすれば忍びたちは、平次が殺されてから襲撃者を捕らえよという指示を幕閣から出されている可能性もある。
極力、自力でなんとかするように努力したほうがいい。
最初から他人の力をあてにしても、ろくなことにはならないのだから。
「俺の命を奪ったところで、世の中は何も変わらないんだぞ!」
「そんなことはないわ」
やがてゆっくりと、雑木林のなかからくのいちが姿を現した。
前回と同じく、実に扇情的な姿をしている。
平次はその名を知らないが、まさしく楓そのひとだった。
「少なくとも、軍は嘆き悲しむでしょうね、情人が無残に殺されでもしたら。そして将軍がおかしくなれば、確実に世が乱れることになる」
「……」
「見ていたわ、ずっと、将軍とあなたのことを。男女の性だとは分かっているけれど、いささか理性を失いすぎじゃないかしら」
そこには嘲笑と嫌悪の色が見えた。
どうやらこの女は、俺とお綱さんが男女の関係にあることに忌避感を抱いているらしい――平次はそんなことを思う。
だがすぐに、「それも当然か」と思い直す。
平民上がりの男が日本の頂点に君臨する女性とねんごろな仲にあったら、事情を知らない誰もが後ろ指を指すだろうから。
「覗き見とは、ずいぶん悪趣味な」
「そうね。ただ、間抜けに腰を振っている時のあなたの顔ほど悪趣味ではないわ」
「散々な言い様だ」
平次は、楓の真っ白な手に握られたどす黒い凶器を見つめながら言った。
「戦わずに済む、という道はないのか? 殺し合いは、実に非生産的だと思わずにはいられないんだが」
「戦いは生産的よ、少なくとも私に報酬は入るから」
くのいちはそう言って、ゆっくりと鎖分銅を回しはじめる。
夕闇に残るわずかな陽光が、黒光りする分銅に反射してきらめいていた。
平次は刀の柄を握る力を強めながら訊く。
「カネか」
「そうよ、カネ」
楓は生身の感情をあらわにしながら言った。
「この世はしょせん、カネが全てなのよ。財がない者は財のある者に這いつくばって媚びを売るしかない、たとえ泥水をすすってでも」
「尊厳はどうなる、人として持つべき感情は」
「そんなもの、腹が膨れなければなんの意味も持たないわ」
彼女は苦々しげに言った。
「あなたは恵まれた立場にいる、だから見えないものが多すぎるのよ!」
その痛恨の叫びとともに、楓の手から鎖分銅が放たれる。
圧倒的な殺意を放つ粉砕具は、平次の胸の中心めがけて勢いよく突っ込んできていた。




