第2話 秘密の多いお姫様。
平次の言葉を聞いた途端、お姫様は表情を曇らせた。
言っていいものか悪いものか、一生懸命に考えているのだろう。
その結果は、やや時間を置いてから発せられた。
「申し訳ございません、平次様……けほっ。わたくしの素性を明かすことは、できません。貴方にご迷惑をかけてしまうことになりますから」
「そう、ですか……」
それはつまり、身元不詳のまま――知らぬ存ぜぬで押し通せということだ。
身元を知らずに接していたならば許されることが、知った途端に許されなくなることがある。
江戸時代のみならず、現代社会でも間々起こりうることだった。
顔をしかめた平次に、お姫様は慌てて付言する。
「あの、ですが……! 呼び名すらないと御不便かと思います。ですからどうか、わたくしのことは『綱』とお呼び頂ければ……」
「お綱様、ですか」
「はいっ……そうお呼びくださいますよう」
天女のようなお姫様は、嬉しそうに応じた。
そして平次のことを、しっとりとした瞳で見詰めながら口を開く。
「その、いまは身元をお教えすることは叶いません。ですが、いつか……いつかきっと、平次様の御恩に――あっ」
途端、ぐらりと身を崩した彼女を抱きかかえる。
立ち眩み、あるいは貧血だろうか。とても顔色が悪い。
そんなことを思う平次の腕のなかで、お綱は申し訳なさそうに、咳込みながら言った。
「申し訳ございません……けほっけほっ。わたくし、すぐに血の気が失せてしまって……」
「いえ、お気になさらないでください」
平次はそう応じて、色白のお姫様の顔を覗き込んだ。
確かに、抜けるような白さを誇る美肌である。
だがその色は、貧血によって不健康な色彩を帯びてもいた。
身体つきを取ってみてもそうだが、この女性はどうやら――色々と体内的な問題を抱えていそうな気がしてならない。
腕中のお綱に「しばらく寝て安静にした方がよろしいかと」と言った平次だったが、お姫様はイヤイヤと首を振る。
助けを乞おうと母親に視線を送る平次だが、彼女からの応答は腕を交差させた「×」マーク。
どうやら相手の気が済むまでお相手して差し上げろとのことらしい。
お綱はどこぞの上位権力者の娘である。
ここで袖にした結果恨まれ、診療所を潰されるようなことがあればたまったものではないからだ。
(まぁ、お綱さんがそんなことをするようなタイプの女性じゃないってことだけは、感覚的に分かるけどな。表裏のない、犬みたいな性格をしてるみたいだし)
平次は諦めと役得感が綯い交ぜになった感情を胸中で持て余しつつ、思う。
(それにしても、体重が軽すぎるな……。お綱さんは貧血を起こしているようだが、もしかすると――食事をしっかり摂らせさえすれば、幾らかは改善するんじゃないだろうか)
現代日本においては普通であることが、江戸時代では普通ではない――ということは存外に多い。
そのひとつが、食肉文化である。
江戸時代においては獣肉を食べることが、表向きは禁止されていたのだ。
食肉の欠乏は鉄分の不足にも結び付く。故に江戸の町民たちは鉄不足で貧血を起こす者も多く、脚気と並んで彼らを苦しめる病のひとつでもあった。
とはいえ、彼らは貧血の改善に食肉が有効ということを知っている。
そのため獣肉は、『薬』という名目で流通していた。
とはいえ『薬』であるからして、常食することはできないという限界もあったのだけれども。
(いますぐ肉を準備することはできないが、その代替物ならなんとかなるな……)
そんなことを平次が思った矢先、お綱が身を起こそうとした。
だが、また力を失って平次の腕のなかに戻ってしまう。
可愛らしい呻き声を上げ、くったりとしている。
その状態が体感で10分ほど続いた。
今度こそ回復したお綱が、ゆっくりと平次の腕から離れていく。
彼女は心底申し訳なさそうに言った。
「思えば、お仕事をされている最中でしたね……。お手を止めさせることになり、申し訳ございませんでした」
彼女の顔を見ていると、本当に悔やんでいるのが分かる。平次は思わず否定していた。
「お気になさらないで下さい。仕事をしていた訳ではありませんから」
「そう、なのですか……?」
「ええ、料理の支度をしようとしていただけです」
「料理……」
長い睫毛を瞬かせるお姫様。そんな彼女に、平次は優しい声で語り掛けた。
「お綱様は池に落ちて、お身体もすっかり冷えておられましたから。風邪を引かないように、温かい料理をお出ししようかと思いまして」
「すごい……そんなことができるのですね、平次様は」
その科白は、普通に聞けば、ただ馬鹿にされているようにしか捉えることができない。
だがしかし、お綱の表情には煽りや嘲笑といった、悪感情の類は一切含まれていない。尊敬の念しか浮かんでいないのだ。
(きっと、生まれが生まれだからなんだろうなぁ……)
お綱はお姫様である。従って、これまで一度も、調理の現場を見ることなく育ってきたのだろう。
普段食べているものがどのようにして作られているのか、彼女は全く知らないに違いない。
だがそれは、身分によっては普通のことでもあるのだ。
大名家クラスともなれば、食事は専属の料理人たちが作ることになる。
要するに、お綱のなかで料理とは、専門家が作るものであり――そして彼女自身が普通では決して知り得ない、未知の領域にある営みなのだった。
体調不良である彼女を前に、平次は思わず口走ってしまっている。
「……見てみますか?」
「よっ、よろしいのですか……!?」
言わなければよかった――と思った途端、お綱の顔にぱぁっと笑顔が広がっていく。
「実はわたくし、お料理がどのように出来上がるのか……見たことがないのです。拝見させて頂けるのであれば、是非にお願い致しますっ」
「は、はい」
思いもよらぬ喰いつきっぷりである。
たじろぐ平次だったが、やがてお姫様の手を取って土間へと導いた。
土間と板の間の段差に腰掛けてもらおうと思ったのだが、彼女はやんわりと拒絶する。存外に芯が強い女性のようだ。
ちなみに、平次の暮らしている自宅兼診療所は――他の家屋と同じように、玄関を兼ねる土間が台所になっている。
流しも水瓶も、竃である『へっつい』も、総てそこにあるのだ。
お綱はそういった設備を興味深げに観察している。
お姫様は貧血によるふらつきで転倒することを予防するため、平次のすぐ横にぴったりとくっついていた。
ふわり、と彼女の匂いが平次の鼻腔をくすぐった。
「あらあら……あらあらあらあらあらあらあらぁ……」
そしてお満は、にまにまといやらしい笑みを浮かべて板の間に上がっている。
お姫様よりも上の部分に座ることは無礼千万なはずなのだが、そんなことはもはやお構いなしのようだ。
お綱本人もまったく気にしていないらしく、むしろ彼女は、料理なるものがどのような作業なのかについて関心を集中させているらしい。