第54話 死地へ赴く前に。
覚悟こそ決まっているとはいえ、襲われると分かっている場所へ赴くことは、決して気安いものではなかった。
皮肉なことに、今日の気候は安定していて実に暖かい。
だからといって、平次自身の気持ちがぽかぽか温まる訳ではなかった。
お綱の見送りはない。
彼女はもとより平次の帰還を信じ切っているように見えたし、あるいは信じようと努力しているらしかった。
情緒が安定しているようで不安定な彼女のメンタルを落ち着かせるには人肌が一番で、彼女が御膳所から出てこない理由はそれでしかない。
女性の身繕いには相応の時間がかかるものなのだ。
「それにしても、見境がなさすぎる感もしないでもないけれど」
姫将軍の残り香を漂わせながら、侍女たちと入れ替わるように御膳所を出ると、平次を呼び止める男の声がかかった。
「平次殿、拙者でござる」
大股でのっしのっしと歩み寄ってくるのは、鬼取役の内藤主膳。
ここ最近では毒味の仕事にも来なくなったが、だからといって仕事をしていない訳ではない。
事実上の膳奉行である彼は、江戸城における将軍の食膳を管轄する旗本として働き続けている。
むしろ毒味をしない分、余力を他の業務に割くことができているようだ。
「上様のご様子はいかがであろうか?」
「決して悪くはありません。泣き叫んだり、悲観したりはしていませんから」
「ならば良いのだが」
内藤は感情を押し殺したような声色である。
彼は平次とお綱が男女の関係にあることを、当然ながら知っていた。
そして姫将軍が精神的に安定しているのは、おおよそ、そういうことがあった後だと理解してもいる。
「拙者は、上様がただお幸せであればそれで良いと思っておる。しかし幕臣としては、やはり気になるところではあるのだ」
「ええ。時代が時代であれば、間違いなく佞臣と謗られるでしょうから」
ちなみに佞臣とは、主君に媚びへつらうどうしようもない臣下のことを指す。
平次がそのように応答すると、内藤は「分かっておるのであれば問題はない」と言った。
不意に、かつて彼がその屋敷で、平次に告げてきた話の内容を思い出す。
あの時の自分は、お綱と情を交わすことになるなど考えもしていなかった。
それなのに、今、こうなってしまっている。人生とは実に予測し得ないものだ、と思えてしまう。
「既にそのような誹謗中傷を行っている者もいる。そやつらは上様が貴様に『だまされている』と考えているようだ」
「それはまた」
平次はうかがうように応じた。
「なかなかに面倒臭いものです」
「もちろん、嫉妬もあるのだろう。町医者の息子が一気に直参旗本になったことをよく思わぬ者は多い。いつ背後から撃たれるか、分からぬものと心得た方がいいかもしれぬ」
そして内藤は表情をゆるめると、平次の肩に手を置いて言う。
「されど上様の御心を考えるなら、此度の件、けっして失敗は許されぬ。必ずや、不届き者を打ち倒し、あるいは捕縛してくるのだぞ」
「はい」
平次はうなずいた。
「相手は西山の仇でもありますから」
「ならばよし」
内藤は首肯した上で、言葉を続ける。
それは今の平次にとって、これ以上ないほど強制力を持った言霊でもあった。
「これより城外へ向かうつもりだろうが、その前に『表』まで顔を出すように。会津中将様がそのように望まれているのだ」
◆
「今日という日は、よもや後世にまで語られることはなかろうが……おそらく幕府の分水嶺となろう」
ふたり以外の誰もいない一室で、正之は平次に言った。
言葉のひとつひとつを噛みしめるかのような語調である。
「幕閣の者共は、此度の計画が成功しても失敗しても構わぬと考えている」
「それは、いったいどういった理由で?」
「おぬしも分かっているであろうに」
正之は用意してあった緑茶を口に含む。平次も彼に倣った。
香りがよく、苦味の強い茶葉だ。苦味だけではなく、渋みも強いかもしれない。
もちろんそんなことは口には出さないが、ダイコンやキュウリの味噌漬けがあったら、さぞかし合うだろうなと思う。
「おぬしが死ねば上様も後を追って自害されるだろう。そうなれば将軍選定作業を進めなければならないが、こちらへの対応策もすでにできておる」
「つまりは、上様にはもう価値がないということでしょうか」
「これについても分かっておるだろうに」
眉をひそめながら正之は言う。
「上様が自死を選べば、幕府は甚大な損害を受けることになる。大きく権威を損なうことになるだろう。幕閣の老人共の対応策は、あくまでも幕府が絶命せずに済むように取りつくろうものでしかない」
「おそろしい話です」
「おぬしが死んでも、不届き者を確実に捕えることができるという自信があるのだ。むしろこれで捕らえることができねば、幕府にはもうお手上げだ。日本における最精鋭の忍びたちを動員しているゆえ」
「なるほど」
平次は苦くて渋い緑茶を飲みながら、けっして表情に出さないように思う。
ああ、くそったれ。やはり自分もお綱も組織の中の歯車でしかないのだ、代替可能な。
代替不可能な存在になるには、目の前の人物のような、代替不可能なレベルでの政治的能力を得るしかないのだろう。
「それはなかなか安心できますね」
「安心などできるものか。上様を失うことは、天下静謐の寿命を、100年は削り取ることに匹敵する」
正之は平次が死なずにいることが最善手であるということを表明した。
「だからおぬしには生きていてもらうしかない。そうしなければ困るのだ」
「生きるか死ぬかの二択しかないのが、なかなか」
「人間など、所詮は、生きて死ぬだけの生き物でしかないのだ。あるいは、死ぬために生きる存在だとも」
「死ぬまでに何が残せるかが大切、ということでしょうか」
正之はうなずく。
「つまりはそれが問題なのだ」
「ああ、なるほど」
平次は苦笑した。
となるとなかなか、このお方は政治的に苦労されているに違いない。
自分のことながら申し訳なく思ってしまう。
「俺がお綱さんと一緒に、市井へ奔ることを上の方々は恐れていると」
「うむ」
正之は嘆息した。
「つまりは町人上がりの無位の青年が、徳川将軍の意向そのものを操作し得ることについて。たしかに、普通に考えれば国難の温床となり得る危機的存在と皆さえても仕方ありません」
「だが、その見解には大きな問題がある」
会津中将ははっきりとした声で付言する。
「徳川将軍は進んで危機を迎え入れたのだ。そしてその原因が何であったかを考えれば、それはそのまま指導部が取ってきたこれまでの方針に帰着する。そのように考える旗本や親藩の長たちは数多いのだ」
平次は思わず乾いた笑いをもらした。
冗談ではない。親藩と総括されたということは、つまるところ、今回の件は徳川御三家も関心を示しているのだろう。
いつのまにか江戸城どころか全国規模での問題になっているではないか。
そんな面倒臭いことに巻き込まれるなど、真っ平御免だった。
「安心するがいい、しばらくの間は儂が守ってやろう。たとえどのような逆境であっても」
平次の心を察した正之がさらりと言った。
余りにも自然な発言だったので、平次は思わず問いかけている。
「どうして、そうまで肩入れしてくださるのですか? 見放した方が楽だと思いますが、政治的にも」
「言ったであろう、おぬしをこの城に迎える時に面倒を見ると」
「まさか、それだけなのですか?」
平次がびっくりしたように訊くと、正之は「そうだ」と微苦笑を浮かべながら言った。
「覚えておくがいい。筋を通すこと、それが政治家の誇りというものなのだ。それに加え、理由もある」
「理由ですか」
「そうだ。儂は上様の後見人である。いついかなる場合においても、その務めは変わらない。若人のために尽くすこと、それが老人の果たすべき責なのだよ」
そのように、彼は高潔な精神をわずかにのぞかせるのだった。




