第53話 ふたりの朝の別れ。
旧豊臣方の忍びによる襲撃が発生し、はやくも15日が過ぎた。
平次は正之らの計画に沿って、公儀隠密に守られながら江戸城街に繰り出しては帰還するという行動をずっと繰り返している。
幕府の抱えている忍びたちは、戦乱から長らく遠ざかっているとはいえ、決して無能の集まりではない。
特に今回は、公儀隠密のなかでも最精鋭が集められている。
そのため襲撃者の存在には感付いており、その動向の変化を4日目ごろから報告しはじめていた。
そして15日の夜、ついに『明らかに焦燥感が見える』との情報を上げてきたのである。
その報告をもって正之は作戦の決行を決断。
平次に付けていた公儀隠密を手薄にして、襲撃者を誘い出すというものだ。
敵が姿を現し次第、隠密たちを引き戻して包囲し捕縛してしまおうというのである。
もちろん平次は、彼らが戻ってくる間、ひとりで敵の忍者と対峙しなければならなかった。
そしてこの時、必ずしも平次の命は保障されることはない。
自分自身の力量と運で生き延びるしかないのだ。
平次はそれを理解した上で決定を受け入れた。
そうでもしなければ、いつまでたっても自分の命が危険にさらされることになるからだ。
仮に江戸城を離れたとしても、襲撃のターゲットから外れるとは限らないのである。
そして、何らかの抵抗を示すとみられたお綱も、特に口を挟むことなく承認していた。
正之はそんな姫将軍の態度を好意的に見ているらしい。
ここ最近の少女が活発に動いていることを知っていてもなお、保護者としての姿勢を崩そうとしないのだから。
「平次様、少し、いま少しお待ちくださいませ」
「ええ、待ちます。待ちますのでどうか落ち着いて……」
「わっ、わたくしは落ち着いております……! ですから心安くお待ち頂いてーー」
「ああっ、その包丁の持ち方では手を切ります!」
そしていよいよ平次が『生き餌』になる朝。
御膳所では男女2人の声が交錯し、賑やかと言って差し支えない様相を呈している。
今日、調理台の前に立っているのは平次ではなくお綱だ。
彼女の周りにはぐしゃぐしゃになっている卵の残骸が散乱していた。
それらはもはや料理で使い物になるような代物ではなく、あとで何かしらのかたちで再利用しなければならないだろう。
そして、そんな惨劇を引き起こした主人であるお綱はーーいままさしく、おぼつかないてつきで魚を下ろそうとしていた。
「大丈夫です、大丈夫ですから……! 出陣前の殿方に振る舞う卵粥すら作れないわたくしが、魚すら切れぬとなったらおなごとしての面目が立ちますか!?」
「いやあの、卵を割るよりも魚を三枚下ろしにする方がはるかに難易度が高いんですがそれは……」
ぶるぶると震える手つきで魚に包丁を当てている姫将軍を見ながら、平次は大いに嘆息した。
その呆れ混じりの吐息を背に感じながら、しかしこれは当然の帰結なのだと痛感させられている。
はっきりと分かったこと。
それは、料理を見ているだけでは一向に上達しない、ということだ。
一流と言っていいお手本を見てきたのに、お綱の手つきはまるで生まれたばかりの小鹿の足のよう。
(やはり、実践あるのみなのですね……)
それ以外に上達の道は、きっとない。
その事実に打ちのめされながらも、お綱は慣れない手つきで必死に包丁を振るった。
(それにしても、わたくしは本当にどうしてこんな……)
愛する男がいよいよ危険のただなかに飛び込もうというのに、その景気付けの朝食すら作れない自分。
その事実は少女の心を突き刺して、劣等感をえぐり出していた。
◆
抉り出される劣等感と共に、お綱の心を苛むものがある。
それは、平次が異常な状況下にあるにかかわらず、彼の側にいる自分の安全は確実に確保されているということだった。
襲撃者の心をかき乱すために、毎日のように城外へ出て行く平次。
公儀隠密に守られているとはいえ、危険に身をさらしているのだ。
愛する男を想うあまり、表面上はいくら取りつくろえたとしても、心の奥底がざわついてしまうのは防ぎようもない。
そんな強烈なストレスもあって、お綱の生活は公私の差が凄まじいものになりつつあった。
公的には、侍女を引き連れて城内を監査して回り、少しでも警備に緩みがあると幕閣の老人たちに叱責を飛ばす将軍として。
そしてそれが終われば、ひとりで寝室に入り、濃密な男女の香りが移った寝具に顔を押し付けて激しく下肢を悶えさせる日々。
『上様は、城内に不届き者が入り込んだことに大層お怒り遊ばされている』
当初、幕閣を構成する老臣たちはそう考えていたらしい。
だからお綱の叱責をまともに取り合いもしなかったのだが、毎日のようにお綱が城内警備体制の粗探しをはじめると流石に異常事態だと気づいたらしい。
なにせ、自分たちの操り人形であったはずの将軍が、政治性を帯びた自我に目覚めているのが分かったのだから。
『今の上様は危険だ』
幕閣の多数派は、そのようにお綱を危険視し始めている。
だが彼らは、それを態度に表すわけにはいかない。
あくまでも彼らは幕臣であり、将軍ではないからだ。
そのため彼らは、これまで独断専行で決めていた細かな事柄についても、お綱に諮るようになっていた。
明らかに意図的で、政治的な意味合いを持った行動と言ってもいいだろう。
彼らの提議に事細かく噛み付けば、老人たちはお綱を『完全に危険』なものとして排除する方向へ向かうだろう。
それゆえに、お綱の返事はいつも決まって『左様になさい』というものだった。
老人たちは諮りさえすればこれまで通りの仕事が行える訳で、首を傾げながらこうささやくのだ。
『上様は《左様せい様》になってしまわれた』ーーと。
自分の存在を意識させ、上位に立ち、それでいて幕閣から排除対象とならないスレスレの境界で立ち回ること。
それは言うまでもなく、お綱の知恵ではない。正之の内密な献策があってのことだ。
幕閣の老人が将軍に諮り、それを将軍として認可した上で裁定させること。
この構図は、本来であれば幕府で常に行われるべき権力の流れだ。
しかしこれはお綱の代で断絶しており、今回、長い休眠期間を経て復活しつつあることを示している。
とはいえ正之の献策が、お綱を助けようとする意図のみで行われた訳ではないことを、他ならぬ少女自身がよく理解していた。
もうすぐ、お綱の退位が迫っている。
その時に、『男の将軍』相手に『女の将軍』に対して行っていたような政治をするようなことがあってはマズイのだ。
要は、大政譲渡後を見据えた正之らしい大局的な献策であり、お綱はその大風呂敷に包まれた小事でしかない。
しかし幕閣の老人たちに対し、1回程度は強気に出ることが可能な立場に置かれたことも確かな事実。
複雑極まりない自分の境遇へのストレス。それに加えて微かな希望を抱え込み、お綱の頭と心は完全にいっぱいいっぱいになっていた。
「あ、あぁ……っ」
「お綱さん!?」
だが、だからといって料理ができない言い訳にはならない。
平次の心配通り、手元が狂い、指先を包丁でわずかに切ってしまう。
思わず包丁から手を離し、切ってしまった指の根元を掴んで傷口を見つめてしまっていた。
「ああ、だから言わんこっちゃない……!」
愛する男の声が聞こえてきて、お綱は思わず身をすくめた。
自分が情けなくて情けなくて、どうしようもなくなってしまう。
「ふぁ……っ!?」
だがそんな陰気な気持ちはすぐに霧散してしまった。
他でもない。平次のとった行動によってである。
あろうことか彼は、お綱が傷を負った指をぱくりと咥えこんできたのだ。
「あ、んん……っ」
じくじくとした痛みが走る指を、ねっとりと熱くぬめる舌が這い回る。
お綱はその感覚を、歓喜と共に甘受した。
自分のことを案じてくれている気持ちが痛いほどによく分かるからーーというのもあるが、それ以上に、自分の血が愛する男のなかに入り込んだという恍惚感によるものが大きかったのだ。
(平次様は、もう、わたくしの一部なのですよね……わたくしが彼のものであるように)
そんな思いが加速し、肥大化して、少女の思考を埋め尽くしていく。
この愛しい殿方はわたくしのもの、絶対、誰にも渡さない。
冥府魔道の使いにだって、閻魔大王にさえくれてやるつもりはない。
そして、わたくしの一部である彼は、寸分の狂いなくわたくしと同じことを思っているはず。
だから、大丈夫。彼が帰ってくるか否かだなんて、心配に思う必要なんてない。
わたくしも、彼を手放さずに済むように、最善を尽くさなくてはならないのでしょう。
不安に駆られているひまなど、ないのだ。
「平次様」
指を吸われる感覚にぞくぞくと総身をふるわせながら、お綱はささやくのだった。
「どうかお願いです。今宵は、わたくしに料理を教えてくださいね」




