第52話 ふたりの夢語らい。
ぴっとりと肌を寄せてきたお綱。
濃厚な香りが鼻腔に広がり、彼女のまっしろなうなじが見た。
お綱が身に纏っていた上掛けを解いて、本来の使い方に戻す。
少女の体温をまた直に感じることになり、平次は大きく嘆息した。
「しかし、何から話せばいいのか」
夢を語りはじめれば、際限がなくなってしまう。
誰もがきっと、そうだろう。
しかし語りはじめるまでが大変だった。
語る内容が膨大すぎるせいだ。
どこから伝えるべきなのか、分からなくなってしまうのである。
「そうですね……平次様がどうしてお料理をなさるようになったのか、とか」
わたくし、それが気になります。お綱は微笑しながら言った。
「俺が料理をするようになった理由、ですか」
「はい」
本当に興味がありそうな顔を少女はしている。
やはり、お世辞でも何でもないのだ。彼女は純粋に、平次という人間そのものに関心を寄せているのである。
(でも、話していいものなのかな)
現代から江戸時代へ時代逆行的に転生していること。
そんなことを話せば、正気を疑われるかもしれない。
それに加えて、自分はいま江戸時代に生きているのだという意識もあった。
どうして料理をしているのか、本質的なことをしっかりと伝えることができれば、それでいいのかもしれない。
「そうですね……やっぱり、美味しい食事は人を笑顔にするって気付いたからじゃないでしょうか」
「料理が人を、笑顔に」
「そう、笑顔。美味しいものを食べた時に不機嫌な顔をする人なんて、よっぽどのひねくれ者でない限りいませんから」
平次がそう言うと、お綱はひどく納得したような表情を見せる。
それからにっこりと微笑むと、強く強く平次を抱きしめてくるのだった。
「ん、どうしました?」
「いいえ」
お綱は男の胴を抱きしめて、万感の思いと共に言った。
「たしかに、仰る通りだと思ったのです。美味しいものを食べたら笑顔になれる、ということについて」
「そういった料理を作れるようになりたいと思ってます」
「すてきですね。いまでもすごいですのに、まだまだ向上心をお持ちだなんて」
「ですが、そういった夢を見続けることができたのも、お綱さんのお陰なんです」
平次はお綱のしっとりとした肌を撫でる。
出会った時には病的に痩せていた少女だが、いまではそれなりに肉付きも良くなっている。
平次の下肢に絡みついているふとももも、だいぶむっちりとしはじめていた。
腰回りは未だに細いが、お尻の肉も健康的に増えてきた感がある。
「君が俺を引き上げてくれたからこそ、今こうして料理を作ることに集中することができるんですから」
「あら、いやです」
お綱は膨れてみせながら、いたずらっぽく拗ねた声をあげた。
「お料理ばかりで、わたくしのことを忘れてはこまります」
「忘れるはずがないでしょう。俺が料理を作る相手は、いまのところお綱さんだけなんですから。もちろん、それ以外の意味でも」
平次がそう言うと、お綱は満足そうな笑みを浮かべながら頬を胸板に摺り寄せる。
「本当に、あなたと出会えてよかった……」
「俺だってそう思います」
「でもあなたは、わたくし以外の人たちにも料理を振る舞うようになるわ」
不意に少女は悲しげな声を上げた。
感情の乱高下が激しいように感じられたが、事情が事情なので仕方がないことだろう。
「あなたはわたくし以外の多くの人たちを笑顔にすることになる。わたくしはいずれ、それらの笑顔のひとつになってしまう」
そこまで言って、お綱は「ごめんなさい」とささやいた。
「わたくし、狂っているのかもしれません」
「お綱さんは狂ってなんかいない」
平次は即座に少女の言葉を打ち消した。
「お綱さんが言っていることは、別におかしいことでもなんでもない」
「そうなのでしょうか?」
「そうだと思いますよ。ただ、覚えておいて欲しいことがありますが」
「覚えて欲しいこと、ですか?」
首を傾げるお綱に、平次は言った。
「俺は君のために料理を作り続けたい」
「わたくしの、ために?」
「ええ。君は自分の意思で選択し、幕府の官僚たちを妥協させ、俺を抱き寄せたんですから」
それはエールであり、意図的に発した言葉だった。
どのみちお綱は幕閣の老人たちによって強制的に引退させられることになる。
その際には、かつて内藤主膳が言ったように、移動の自由すら制限されて幽閉されることになるだろう。
そうならないためには少女自身の意思が必要だった。
受け身に回るのではなく、自分から動かなければならない。
自ら幕閣の側に先手を打って交渉し、これからの自分の地位を保全しなければならないのだから。
「だからお綱さんなら大丈夫。将軍を辞した後の自由も、きっと手に入れられるはずなんです」
「……はい」
お綱は小さな声で了解の言葉を発した。
「あの、平次様」
「どうしました?」
「少し、お話ししても良いでしょうか」
「ええ、もちろん。まだまだ時間はたっぷりありますから」
そう告げると、お綱は男の身体の上にのしかかり、顔を平次の胸板に埋める。
「安心します、こうすると……」
本当に安らいだ声を上げた少女は、静かに言葉を紡ぎはじめた。
「わたくしのこと、頭がおかしいおなごだと思いませんか?」
「そうは思わないですけれど」
「ねぇ、平次様」
「どうしましたか」
「平次様は、親というものをどのように思っていますか? あるいは、親はどうあるべきだとお考えですか?」
なかなか難しい質問だ、と思う。
されど言えることはあった。少なくとも、お綱が望んでいるような回答は。
そしてそれは、平次自身が『そうでありたい』と願うものでもある。
「親は子供を育てる存在で、やっぱり……子供を大切に思っていた方がいいと思う」
「そうですか」
お綱は苦笑する。
「わたくしには実は、そのあたりのことがよくわかっていないのです。お父様はおなごであったわたくしには、お亡くなりになる直前までさほど関心を示していませんでしたから」
「政略結婚の駒としか見ていなかった、ということですか」
「ええ。そしてお母様については先にお話しした通りです」
彼女はそう言って、平次の胸に手を這わせた。
「わたくし、平次様とずっと共にありたいと思っております。ですけれど、あなたの妻になったら……そのう、子供ができるでしょうし、わたくし自身もあなたの子を産みたいと思うのです」
「ええ」
あなたの子を産みたいとは、なかなかストレートな求愛だよなと思いながら平次は続きを促す。
「そのことで、悩むことが?」
「はい……その、お笑いにならないでくださいませ」
お綱は言った。これ以上なく恥ずかしいことだと言わんばかりの声色で。
「不安なのです……あなたの子供を産んで、しっかりと愛せるのかが。わたくしは親の愛というものを知らずに生きてきましたから……知らないものを、果たして我が子に注げるのだろうかと」
「ああ、なるほど」
「こんなにもあなたの赤ちゃんが欲しいのに。それなのに……いざ懐妊したらどうなるのだろうかと、恐怖感すら覚えているのです。おかしいと思いませんか? この前あなたに、きっといい母親になると言ったのに」
少女はそう言って、「やはりわたくしはおかしいのでしょうね」と自嘲した。
平次は彼女の言葉をすぐに打ち消さなければならなかった。
「いいや、やっぱり君はおかしくなんてない。実に人間らしいじゃないか、矛盾があって」
「……ありがとうございます、平次様」
お綱はいくらか表情を和らげながら言った。
「あなたはわたくしのことを認めてくださるのね」
「もちろん、君が間違ったことをした場合はその限りではないけれど」
「ええ、わかっております」
姫将軍は平次の胸に口づけながらささやく。
「わたくし、平次様のことをお慕いしております。この想いだけは本当です、わたくしがたとえ狂っていたとしても。信じてくださる?」
「……もちろん」
平次は微苦笑を浮かべながらささやき返した。
お綱はどうやら自分が狂っていると信じて疑わないらしい。
たしかによく考えてみれば『恋は盲目』を地で実践されている気がしないでもない。
「それにわたくしは、もしかすると、あなたを愛することで自分の居場所を見つけようとしているのかもしれません。ひどい女だとは思いませんか?」
「まったく、君はもう少し自分に自信を持った方がいい」
平次はそう言って、お綱の後頭部をわしゃわしゃと指で掻きまわす。
汗を吸い込んでしっとりとした美髪が乱れ、周囲に女の匂いをふりまいた。
「誰だってお綱さんのような思いを持ってもおかしくない。結局のところ人間って生き物は、自分以外の誰かがいて、その人を通して自分自身の価値を鏡のように見出すしかないんだから」
そう告げると、お綱は目を閉じる。
そして平次の首に口を寄せると、強く噛み付いた。
流石に驚いたが、どうやら彼女なりのふんきりをつけるための行動だったようだ。
「……わたくしを愛してください、平次様」
お綱はそう言って、平次の首につけた歯型を舌でなぞる。
自分の行為をごまかすように。
まるで意味のないような行為だったが、平次には彼女の心のなかが手に取るようにわかった。
言い訳がほしいのだ。自分のすることを正当化するための。
他者に自己意識を突き付けた経験自体がさほどない姫将軍である。
自分のすることで他者を傷つけることを恐れながら、しかしそれをしなければどうしようもないことを理解した以上、免罪符が必要だったのだろう。
「どうか、お互いの気持ちが鏡で映されたように同じものだと教えてください。あなたがわたくしで、わたくしがあなたなら、絶対に心が割れたりはしないから」
目前に真っ白な首筋が捧げられた。
平次はそこに歯を立て、彼女がしたことをそのまま返す。
すると、お綱は潤んだ瞳を向けて、平次の頬に両手を添えた。
そして唇を男のそれに押し当てた後、瞳を覗き込んでくる。
「……あなたの望むように。それがわたくしの望みでもあります」
そう言った少女の貌には、酷く安堵した感情が浮かんでいた。
当然だろう。徳川家綱という幕府の人形が唯一人間に戻れる機会が、平次と共に過ごす時間なのだから。
だからこそ、平次もお綱の瞳を見て語り応じる。
「君も好きに振舞って欲しい。君の望むことは俺の望むことでもありますから」
実にリップサービスもいいところだ、と平次は内心で自嘲した。
だが、いや、これこそが男女に必要なことなのかもしれないと思い直す。
必要な言葉を必要な時に。それができるかできないかで、合わせ鏡の関係でいられるか否かが決まってしまうから。
この晩、お綱は宝玉の煌めきにすら思える汗をふりまきながら、たっぷりと平次を味わい尽くした。
翌日、平次は正之の計画に従って、公儀隠密の警護下で街に出て襲撃者を焦らしに焦らす行動に移る。
そしてお綱は、積極的に幕府の城内における警備体制に注文をつけはじめた。
それは布石でもある。自分の発言力を幕閣の老人たちに突きつけ、彼らの将軍退位計画を穿ち貫き修正を施させるための。
彼女にとり、もはや平次は絶対的に揺るぎなき対の存在にして、是が非でも終を共にすべき存在として確立されていた。
そのためならばどんなことでもしよう。
まるでコールタールのようなドロついた感情をたたえながら、生き人形に仕立て上げられた少女は反攻の機会をうかがいはじめたのだった。




