第51話 大奥での睦言。
大奥で平次がお綱と寝所を共にするようになって久しい。
しかし平次が忍者たちから襲撃を受けたこともあり、状況は大いに変わっていた。
以前は人払いさえすれば『好き勝手』できたのだが、今度ばかりはそうもいかない。
襖でへだたれた向こう側には、薙刀で武装した侍女たちがずらりと詰めているのである。
下手に大声を上げれば、彼女たちは「異常アリ」と判断して打ち首覚悟で踏み込んでくることだろう。
されどお綱は求めてくる。それはもう、熱烈に。
その理由は察するに余りある。
感情はどこまでも押し殺すことができるが、拭い去ることなどできやしない。
要するにお綱は、平次が暗殺されてしまう不安を抑え込むことはできても、その感情自体を否定することはできないのだ。
きっと夜という寂しく暗い世界が、不安を増大させてしまうのだろう。
侍女たちに踏み込まれるリスクを思えば、彼女の求めを拒絶した方がいいに決まっている。
しかし平次にはそれができない。
お綱がそれだけの情愛を向けてくれている証でもあったし、彼女の熱に包まれている間は、平次自身が抱いている生存への不安を忘れることができたからだ。
ひまな人間はろくなことを考えない。
古来、強い不安を覚えた男女が互いに強く求め合う理由も、今の平次にはよく理解できた。
(それにしても、暗殺の危機か……俺もずいぶんと買いかぶられたもんだよな)
平次は褥の上に寝転がりながらそんなことを思う。
心地よい疲労感が全身を包んでいる。
至るところから滴る汗も、気だるさも、決して悪いものではない。
「平次様……すきです、すき……」
はぁはぁと顔を紅潮させて息を荒らげるお綱が、くったりと身を委ねながらささやいてくる。
一戦を終えたばかりの平次はしっとりと濡れた彼女の肩を抱いて、その体温と甘ったるい睦言を楽しんだ。
そしてしかるべき時間を置いて、平次は姫将軍に尋ねる。
「お綱さん」
「はい、平次様……」
「これから、どうしましょうか」
「これから、とは……?」
高く真っ暗な天井を見ながら、平次は応じる。
「今の状況を乗り切って、危険が去った後のことです」
「……はい」
お綱は平次の胸の上に頬を乗せながら言った。
「そう、ですね……これからのこと、考えないといけませんね……」
「ええ。もしかするとこれは、いい機会なんだと思います。退位のことや、本当にお綱さんが自由になれるのかを考えるには」
「……」
「実際のところ、いつ将軍を辞すことになる見込みなんですか?」
平次の問いに、姫将軍は「わかりません」とつぶやいた。
「こればかりは本当にわからないのです。すべては政局次第ですから」
「それはなかなかしんどいですね」
「はい……」
お綱は平次の胸に頬を擦り付けながら言う。
「わたくしのことですのに、わたくしの意思ではなにひとつままならないのです」
ムダ毛やくすみのひとつもない、滑らかな背中を撫でる。
手の感覚がくすぐったいのか、少女は平次の身体の上で華奢な肢体をくねらせた。
それに伴ってやわらかいものが胴の上でつぶれ、その絶妙な感覚に平次は頬をゆるめる。
「自分で退位の時期を……隠居の時期を決めることはできないんですか?」
表情を崩しながらそう問いかけると、お綱は目をまん丸に見開いた。
「……自分で、ですか?」
「そう、自分で」
「考えたこともありませんでした……」
お綱はびっくりした顔のまま続ける。
「自分で、隠居の時期を決める……」
「もしかして、制度的にできないんですか?」
「いえ、できます。できるはずです」
少女はそっと身を起こした。
何度も見ているが見飽きることのない、真っ白な裸体が視界に広がる。
「幕府の開祖であられる権現様は、将軍を拝命した後、二代様に将軍の座を譲られて大御所となられました」
「先例としてある、ということですね」
「はい」
お綱は上掛けを身体に巻きつけ、平次の視線に羞恥をあらわにして身を縮めながらうなずく。
どれだけ時間を共に過ごしても、少女は未だに恥じらいを忘れずにいた。
「ですが、そんなことをして大丈夫なのでしょうか」
お綱は不安を隠さずに言う。
「わたくしが将軍を辞して隠居するなどと言ったら、きっと皆が驚き慌てます。幕府の秩序もゆらぐかもしれません」
「……」
「長期的に安定した政権を維持し、かつ将軍として長く君臨し続ける。それが幕府にとっては必要なことで……」
「とはいえ、その幕府を牛耳る方々はお綱さんを隠居に追い込もうとしているんでしょう? お綱さんの心配していることは、問題にならないと思いますが」
そうなのでしょうか、お綱はうかがうように見た。
平次は安心させるようにうなずく。
「きっとそうだと思います。道理を考えてみてください。幕府が安定していて、次代へ橋渡しする見通しが立っていなければ、お綱さんを交代させる必要がないわけですし」
「……」
「そして、隠居の話が出ているということは……少なくとも、幕閣の側では将軍交代への備えができているか、準備がほぼ終わりかけていると見ていいんじゃないでしょうか」
下ごしらえが終わって、いよいよ調理に取り掛かろうとしている段階だと俺は考えます。
平次がそう告げると、お綱はジッと考え込んだ。
そして大きく息を吐き出すと、くすりと微苦笑を浮かべた。
「わたくしは、もう、まな板に載っているということですか」
「ええ。もうじきに、包丁が突き立てられる時期かと」
「それは困りました」
お綱は依然として微苦笑をたたえたまま言った。
「わたくし、お料理されるのは平次様だけがいいですのに」
「とはいえ、このままだと」
「わかっています」
大きく息を吸い込むと、お綱は長い長い時間を費やしてゆっくりと吐き出した。
「どうにかして、まな板の上から逃げ出さなければなりませんね」
「もっとも、上手く逃げなければ遺恨を残しますが」
「そうでしょうね」
自分の立場をよく認識している少女は、うなずきながら言う。
「考えます、しっかりと。そうでなければ、わたくしは二度とお日様を拝めなくなってしまう」
「死なれたら困ります。お綱さんには、是非、俺の夢を手伝って欲しいですし……」
「大衆食堂の開業、でしたよね」
「はい」
平次は深くうなずいて応じた。
「俺の夢なんです、ずっと。安くて美味しい料理を振る舞うこと。それができたら、きっと今の江戸にいる人たちも喜んでくれるはずですから」
そう言うと、お綱は上掛けを身体に巻きつけたままゆっくりと近づいてくる。
そして平次にそっと抱きつくと、ささやくような声色で訊いた。
「平次様の夢、もっと聞かせて下さいますか。どうか、わたくしのためにも」
お綱がそう言った。
安直に言葉を乗せたのではなく、こちらに寄り添ってさらに理解したいという思いが感じられた。
夢のことを話して欲しいと言われて、ここまで嬉しい気持ちになったのははじめてだった。




