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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第50話 心のゆらぐ時。


「ほら、お嬢ちゃん。しっかりおし」


 闇夜に響くすすり泣き。

 それを奏でる楓の背中を、お留が優しく撫でさすっている。


 誰かに背中を優しく撫でてもらった経験は、母親が生きていた幼少期にしかない。

 両親がいた頃の思い出がよみがえり、どうしようもなく懐かしくて、悲しくて、楓はますます感情を昂らせてしまう。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 楓はしゃくりあげながらそんなことを思う。


 きっと汁に入っていたお酒のせいだ、という思考が頭をよぎった。

 久しぶりに摂取したお酒のせいで、感情のコントロールができなくなっているのだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」

「あれま、一体どうして謝っているんだか」


 お留は苦笑しながらぽんぽんと楓の肩を叩いてくる。

 そうされているうちに感情のたかぶりもゆっくり引いてきて、楓は鼻をすすりながら頭を下げた。


「すみません、でした……ご迷惑をおかけして……お代は、ちゃんとお支払いを……」

「んん? 言ったじゃないか、タダで良いって」


 お留は微笑を浮かべながらそんなことを言う。

 楓は豆狸のような婦人の言葉で一気に冷静になった。

 くのいち稼業、あるいは楓の人生においてタダほど後で高くつくものはないからだ。


「そんな、ちゃんと支払いますから……!」


 顔を青ざめさせながら言う楓に、権蔵とお留は顔を見合わせる。

 そしてお留は微笑を浮かべながら言うのだった。


「はいはい、そうかい。でもね、『返さなきゃ』と思うあまり無理をしちゃいけないよ」

「は、はぁ……」


 腫れぼったい目をこすりながら、楓は妙に居心地の悪さを感じていた。

 お留や権蔵の言葉の裏に、まるで悪意を感じないのだ。


 楓の生きてきた世界では、新設の裏には必ず裏がある。

 そしてその裏の部分に気付かず、食い散らかされた苦い思い出もあった。


 だからこそ、居心地の悪さを覚えるのだろう。

 楓は思わず、思わず視線を脇にそらす。

 すると屋台の姿がちらほら目についた。

 夜に関わらず、人通りもそれなりにある。


「その、ここは……」

「ああ、霊験(れいけん)あらたかな鳥越神社の界隈だ。一応、鳥越様の土地ってことになてる」


 楓の食器の後始末をしながら権蔵は続けた。


「寺社様の土地となりゃ、江戸町奉行所の連中は入ってこれねぇ。寺社奉行様の許可がいるからな」

「そうそう、商売するにはもってこいなんだよ」


 お満がうなずいて夫の言葉に相槌(あいづち)を打つ。

 その声を聞いて視線を彼らに戻しながら、楓は尋ねた。


「タダで食事をさせたら、商売にならないんじゃ……」

「そらそうよ、大損ってやつだ」


 しかし権蔵は笑い飛ばすように言った。


「だがよ、商売にはカネ以上に大切なことがある。それが心意気ってやつだ」

「心意気……?」


 楓はうさんくさそうな目で豆狸な店主を見る。


「でもそれじゃ、懐もお腹も満ち足りない」

「だがよ、嬢ちゃんの腹はいっぱいになったろう?」


 権蔵は続けて言った。


「カネは天下の回り物。だが、それを回すのは俺たち人間だ。カネにヒトが振り回されるようなことがあっちゃなんねぇ」


 その言葉に、楓は胃が痛んだのを覚える。

 お金の話は嫌いだ。自分がいかに経済的に弱いのかを知らしめられるから。

 なにしろ楓は、カネに振り回されている立場なのである。


「……よく、分かりません」

「ああ、悪いわねお嬢ちゃん」


 お留が権蔵を肘で突きながら言う。


「この人、お嬢ちゃんの前で賢しいところを見せたいだけなのよ」


 婦人の言葉を受け、権蔵は頭を掻いた。

 その仕草がどうにもコミカルで、楓は思わずくすりと微笑んでしまう。


「まぁ、あれだ。とにかくカネがなかったら無理矢理にでも笑ってみるといい。そうすると存外、よどんでいた気持ちがスッキリしたりするからな」


 楓はふと思う。

 最後に心の底から笑ったのは、いったいいつだっただろうかと。


「そう、なのかもしれないですね」

「しれない、んじゃないぜ嬢ちゃん。そうなんだよ。まぁ、これでも飲んで頭をシャッキリさせな」


 本来は酒を飲むための(ます)に、権蔵は白湯を冷ましたものを入れる。

 完全に酔いを()ませ、ということなのだろう。

 それで楓は完全にこの店主を信頼することにした。

 酔った女を無理矢理に襲うような手合いの者ではないと、はっきり分かったからだ。


「ん……っ、はぁ……っ」


 升を手に取り、ぐいっと一気にあおる。

 どこか柔らかい口当たりの水が喉を通ると、良いが完全に抜けていくのがわかった。


「ありがとうございます、ご馳走様でした」


 升を返して頭を下げた楓に、お留は言う。


「あれま、もう酔っぱらいさんは止めるのかい?」

「はい、酔うのも抜けるのも早いので」

「ははぁ、そうなのかい」


 微笑を浮かべる権蔵とお留に、楓はまた頭を下げる。


「このご恩は必ずお返ししますから」


 だからなんとしてでもあの御膳医を殺して、しっかり報酬を得なければいけない。

 楓は改めてそう決意する。


「だから気にしちゃなんねぇって言ったろ?」


 されど、権蔵は楓の言葉を笑い飛ばす。

 そしてお留も陽気に笑いながら言った。


「困った時はお互いさま、これだけは覚えておきなよ! 自分ひとりで悩んだところでドツボにハマるだけだからね!」

「そうだな。人に押しつけるのも大切だって覚えておけよ」

「人に……」


 楓のつぶやきを受け、お留は両手に腰を当てて「ふぅ」と一息ついた。

 それからどんぐり(まなこ)で楓を見つめ、しみじみとした口調で言う。


「それにね、これは私らの自己満足でもあるからね。気にしないでおきよ」

「……自己満足?」


 尋ねると、お綱はあっさりと答えた。


「そうさね。実は、私たちの死んだ娘が……ちょうどお嬢ちゃんぐらいの歳だったのさ」

「あ……」


 楓は目をまん丸にして、うつむく。

 何となく、分かった気がしたのだ。

 そしてその予想は、的中することになる。


「前の大火事でね。私らは助かったんだけど、娘はねぇ……」

「……」

「あの日は『イイ人』と逢い引きしていたみたいなんだけど、火事の熱にやられたみたいでね。熱から逃げるために、泳げもしないのに川に飛び込んで――そのままお仏様さ」


 その大火事の首謀者が金衛門だと知っている楓は、何と声をかけて良いか分からなかった。

 楓の脳裏には、焼死者と灰で陸が、溺死者で川が埋め尽くされた江戸の光景が浮かんでいる。


「私たちもそこからやけになってねぇ。色んなことをしでかして、身体を壊したりしたものよ」

「ああ、夫婦ふたりして病気になった時はいよいよ年貢の納め時かと思ったもんだがな」

「そうそう、その時に若くて立派な先生と会ってねぇ」

「先生?」


 楓の問いに、お留は頷いた。


「あんた、聞いたことないかい? 本舩町の膳医様のことをさ」

「本舩町の、ゼンイ……?」

「そうさ。ああ、でもどうやら知らないようだね。お嬢ちゃん、どこに住んでるんだい?」

「……」


 一瞬ためらった後、楓はささやくように言う。


「浅草です」

「ああ、なるほど。距離があるから知らないのかもねぇ」


 お留は苦笑した。


「でも、将軍直属の御膳医様のことなら知ってるだろう? わたしたち衆民上がりのさ」

「……はい」

「あの人だよ、本舩町の膳医様ってのは」

「……えっ?」


 思わず真顔で問い掛けた楓に、権蔵夫妻は笑う。


「あの方はねぇ、若いけど立派なんだよ。食事を通した医術をやっててね。私ら金のない衆民相手には、ビタ一文払わせようとしないのさ」

「そうそう。俺たちに至っちゃ、朝夕と来てくだすって、診断ついでに飯作ってくれてたんだぜ」

「そっ、そんなことを……? あの男が……?」

「なんだい嬢ちゃん、まさか知り合いかい?」


 権蔵はうんうんとうなずきながら言った。


「あの方はいつでも俺たちの味方だ。今じゃ将軍付になっちまったが、いつか帰ってくるだろうさ」

「そうそう。それにあたしらも、いつまでももらってばかりじゃいられないからね! 周りを見てみなよ、お嬢ちゃん」


 お留はそう言って、周囲の屋台を示す。


「こいつらみんな、御膳医様に面倒を見て貰った連中なのさ。御膳医様はいなくなったけど……あの方が教えてくれた、手軽に栄養を付けられる料理で江戸を活気づけようって頑張ってるんだよ」

「そうそう。だから食うに困った奴には無料で食わせてやることにしてんだ。御膳医様の真似事みてぇだがよ」


 権蔵夫婦の言葉で、楓は頭のなかが真っ白になっていくのが分かった。

 要するに自分は、彼らの恩人を殺そうとしている訳だ。

 自分を助けてくれた夫婦の恩人を。


 そしてあの御膳医の青年は、自分が知らなかっただけで、楓のような貧者のために色々と活動していたらしい。


 途端に気分が悪くなってくる。

 よくない傾向だった。

 殺すべき相手のことを知れば知るほど、情が湧いてしまう。


 それだけではない。もしものことを考えてしまうのだ。

 もし仮に、あの男が、弟を()てくれるのであれば――と。


(何を馬鹿なことを……!)


 楓は激しく首を振って、浮かんできた思考を振り払う。

 私はくのいちだ。殺されざる者がいるならば、殺すしかない。

 いままでそうやって生きてきたし、生きていくのだから。


「ああ、そうそう。これをお持ちよ」


 お礼を言って屋台から離れようとした時、お留から袋一杯のソバ粉を手渡される。

 困惑して返そうとしても、彼女は受け取ろうとはしなかった。

 どうやら楓に家族がいると察していたらしい。


「嬢ちゃんみたいなぶっ倒れ方をするのは、家族で大変な目にあってる人に独特さね。分かるよ、今の江戸にはそんな人ばかりだからね」

「ああそうだ。何かあったら、本舩町の御膳医様の実家を尋ねるんだぞ。なんとかあの御膳医様に取り次いでくれるだろうからよ」


 そんな助言にうなずいてから、楓は浅草のねぐらに変えるために、明かりに背を向けた。

 そして暗闇のなかへと進んでいく。


「引き返せないわ、今さら……」


 蕎麦粉の詰まった袋を握りしめながら、楓は背を丸めた。


「……それに長居をしすぎたわ、しすぎたのよ」


 他人と長々と話したのは何年ぶりだろうか。

 そんなことを考えながら、楓は浅草へと向う。

 くのいちの関心はもう、病床の弟にのみ注がれていた。


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