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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第49話 すきっ腹にそばがき。


 楓が江戸城から抜け出したのは戌の刻(午後7時)頃のこと。

 すきっ腹を抱えた状態で朝晩と、平次の作る料理に目と鼻と耳と腹を侵され続けたのだ。

 城外に出た頃にはフラフラになっており、今にも倒れそうになっている。


「く……っ、まさかこんなとこになるだなんて……」


 これまで過酷な訓練を積んできた楓だったが、『美味しそうな料理を前に空腹を耐える』訓練をした経験はなかった。

 故郷を追われて放浪中の身であり、美食を用意するだけの資金がなかったせいだ。


「はやく、何かお腹に入れないと……」


 虫でも、ネズミでも、ミミズでも良い。

 ふらふらと浅草への帰路を歩く楓の目に、夜間営業をしている屋台の提灯(ちょうちん)が目に入った。


 明暦の大火以来、江戸の至るところで外食用の屋台が急増している。

 火事の記憶が残るこの大都市では、屋内で火を扱うことに忌避感を覚える者が少なくないのだ。

 そして外食は安上がりで、経済的だという利点もあった。


(でも、お金なんて持っていないし……)


 本能的に光を避けようとした楓だったが、それが良くなかったのだろう。

 江戸の道は舗装されていない。

 ぬかるみに足を取られ、そのまま前のめりに倒れてしまうのだった。


「あぁ――なんて、ぶざま」


 きっと、他の忍びに知られたら笑われるだろうなと楓は思う。

 くのいちが行き倒れているだなんで、最高の笑い話だ。


(早く、起き上がらないと……)


 だが、そんな思いとは裏腹に、楓の身体はぴくりとも動かない。

 暗い闇夜のなかで、泥にまみれて倒れ伏しているままだ。


「……」


 楓はしばらくの間、圧倒的な孤独感と空腹による無思考状態で呆然としていた。

 風の音も木々のざわめきも後景に退(しりぞ)き、ただ飢えに支配されるだけ。


 そんな時だった。

 何者かが提灯を下げ、こちらへ歩いてきているのが見えたのは。


「あ……」


 まだ正常に動いている思考の一部分が、すぐに立ち上がって逃げろと警鐘を鳴らしている。

 江戸の治安は、お世辞にも良いとは言えない。

 歩いてきているのが食い詰め浪人だったらどうなるか――火を見るよりも明らかだろう。


「う……」


 しかし楓は動けなかった。

 犯されたり殺されたりしても、それは運命なのではないかと思えてしまう。

 心の中で破滅願望が膨れ上がっていくのが分かった。


「おやまぁ、こんなところで何してるんだい?」


 楓を提灯の明かりで照らしたのは恰幅の良い婦人だった。

 顔までまんまるぽっちゃりといった感じで、妙に愛嬌のある豆狸のような容貌をしている。


「ちょっとお前さん、大丈夫かい?」


 彼女は背中を撫でたり叩いたりしてくるが、楓にはまともに返事をする体力がない。

 やがて豆狸のような婦人は背後へ大きく叫んだ。


「権蔵さん! なんかうずくまってると思ったら若い未亡人だよっ!」


 楓のショートヘアーを見て判断したのだろう。

 婦人はゆさゆさと楓をゆすりはじめる。


「おんやまぁ、そりゃあ大変だな。お(とめ)さん。行き倒れかね?」


 そう言いながら近づいてきたのは中肉中背の男だった。

 お留の夫なのだろう。夫婦そろって同じような顔をしている。


「おそらくそうだろうね。さっきからお腹がグウグウなってるもの」

「こんなに若いのにかわいそうなこって」


 なぁ、お留さん。権蔵が小さな目をパチパチと瞬かせながら言った。


「分かってるよ権蔵さん。さぁ、さっさと担いで担いで」

「随分と人使いがあらいじゃねぇか」

「そんなことはどうでもいいから、さっさと運ぶんだよ!」


 お留の激が飛び、はいはいとうなずきながら権蔵が楓を抱き上げる。


「おお、軽いし細ぇなあ。お留さんとは大違いだ」

「つべこべ言ってないで、さっさとお運びよ!」


 へいへいと言いながら、権蔵は楓を抱えて屋台へと向かう。

 その足元を、お留の持つ提灯の明かりが照らしていた。


「ああ、ちょいとお待ちよ!」

「まったく、お留さんは注文が多いぜ!」

「アンタは余計な一言が多いねぇ!」


 どうやら提灯は屋台にぶら下げていたものだったらしい。

 屋台にたどりつくと、お留はそれを軒にぶらさげた。

 それから「よいしょっ」と台座を持ち出し、楓をその上に座らせる。


「ちょっと待ってな。美味いソバを食わせてやるからよ」


 権蔵はねじりはちまきを締めながら、意識朦朧(いしきもうろう)としている楓の前で調理を開始した。

 と言っても、料理自体は非常に簡単である。

 鍋のなかでお湯を沸かし、そのなかにそば粉を入れてすりこぎで掻き混ぜる。

 すると次第に粘りが出て、ゆっくり固まりはじめるのだ。


「んっ、ちょっと水を加えねぇとな」


 権蔵は固まりつつあるソバ生地に水を加えた。

 パン生地のようなかたまりがぐじゃっと緩み、しかしまた練り固まっていく。

 水を加えたことでつきたてのお餅のようになり、権蔵はそれを木ベラで掬いお椀のなかに入れた。

 

「へいお待ち! 江戸は鳥越名物、鳥越ソバだ!」


 権蔵の声と共に、ふわりと美味しそうな香りがたちのぼる。


「ん……っ」


 食物の気配で意識が鋭敏になり、視界がクリアになっていく。

 楓の目には、もちもちとして美味しそうな『そばがき』が映っている。

 椀のなかには汁がそそがれ、ネギの細切れと大根おろしが乗っていた。


「さぁ、さっさとお食べ! 若いのがシャンとしていないと、世の中終わりなんだからね!」


 でも、私はお金をもっていない。

 そう言いかけた楓をさえぎるようにお留が言った。


「お代はいらないよ! お互いさまって言うだろう? 早く食べてあたたまるんだね!」

「そうだな。『健康は食から』ってのが俺たちの先生の口癖なんだ。しっかり食わねぇとどうにもなんねぇ」


 その言葉に心を揺り動かされて、楓は権蔵を見上げる。

 丸顔で、全体的にパーツが中心よりな豆狸顔。

 しかしそこには、こちらを思いやる意思が表れていた。

 そして、同じような顔をしたお留が楓の背中をぽんぽんと叩く。


「ほら、冷めたら美味しいものも美味しくなくなるよ!」

「は、はい……」


 箸を持たされ、楓は椀のなかにゆっくりとそれを近付けた。

 ほかほかと湯気立つ鳥越ソバは、末粉と呼ばれる粗めのソバ粉で作られているらしい。


 されど目の前の料理は見た目はふわっふわで、表面はつるりとしている。

 汁のなかでぷかぷか浮かんでいるそれは、強めに箸を入れないとツルンと逃げてしまう。


「あ……」


 だが不思議なことで、一度でも箸でしっかり捕らえることができれば――さっくりと切り分けることができる。

 口に運べば、たちまちなめらかな食感が走った。

 ソバ独特の強い香りが口腔から鼻腔へと突き抜けていく。


「美味しい……っ」


 どうやらつけ汁にはお酒がはいっているらしい。

 聞けば、日本酒をベースに味噌や干しガツオを煮込んで塩で味を調えているのだとか。

 薬味のネギの香りに加え、ぴりっと辛いダイコン汁がたまらない。


 噛めばあっという間にふるんと消えてなくなってしまう不思議な感覚。

 それを口いっぱいに味わいながら、楓は夢中で鳥越ソバを食していく。


「美味しい、美味しい……本当に、美味しい……!」

「そうかいそうかい、そりゃあよかったよ!」

「おう! 替えも作るから食いたきゃ言いな!」


 くのいちである以上、酒に酔うことはまずい。

 しかしそれを理解していながら、楓は箸を止めることができなかった。


 江戸城で御膳医が作っていたものと比べれば、鳥越ソバは贅沢なものではない。

 だがしかし、誰かが自分のために作ってくれるということが――これほどまでに嬉しく、心温まるものだとは思わなかったのだ。

 長らく忘れていた熱い滴が目尻から零れ落ち、呼吸が乱れて感情が込み上げてくる。


「ほらほら、泣かないの! せっかくの綺麗な顔が台無しだよ!」

「そうだな! お留さんがいなかったら、コロッと手籠めにしちまいそうなぐらいに良い女なんだしな!」

「こらアンタ! 余計なこと言って怖がらせるんじゃないよ!!」


 じんわりと五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡る温かいスープ。

 それを飲み干してから、楓はしくしくと泣きはじめるのだった。


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