第48話 眼下で広がる異世界の図。
他者の目がない場合、人は大胆かつ自由奔放に振る舞う生き物だという。
その例にもれず、平次とお綱は熱烈に抱擁を交わしていた。
第三者が聞けば赤面物の会話が取り交わされ、実際に行為に及んでいるのだが――それを真顔で見下ろしながら、楓はずっと考え続けている。
(それにしても、これはいったいどういうことなのかしら)
というのは他でもない。
征夷大将軍が女性であることについての疑念である。
(金衛門様はこの事実を知らなかったのかしら? いや、そんなことはありえない。あの方が将軍家のことを把握していないはずがないもの)
金衛門が旗本であう大久保内膳を酒と薬と女で篭絡していることを、楓も知っていた。
彼を通じて江戸城の様々な情報がリークされていることもまたしかり、である。
(となれば、どうして金衛門様は私に将軍がおなごであると教えて下さらなかったのかしら)
眼下で絡まり合いひとつになっている人影を見ながら、楓は思った。
(つまり、『将軍を殺して欲しくない』ってことよね)
忍者は雇い主の手先となることに徹するべきであり、それが職業倫理だ。
しかし、考えてしまう。
何しろ調理台の上で魚のように跳ねている女に苦無を投げつけるだけで、大阪の陣以来の怨念を晴らすことができるのだから。
(でも、金衛門様は生きていて欲しいんだわ……この浅ましいおなごに)
あの骸骨老人が何を考えているのかは分からない。
されど、この場でどれだけ徳川将軍を殺したくても、殺せないのだ。
(ここで二人を殺すことはたやすい。豊臣家残党の宿願たる報復はなる。だけど私は、御膳所を取り巻く伊賀忍びに殺されてしまう)
楓は苦無をぶるぶると握り締める。
(それだけじゃない。仮に伊賀忍びの追跡を奇跡的に振り切れたとしても、何故か将軍を生かしたがっている金衛門様に殺されてしまうはず。任務外の働きをしたと、あるいは計画を台無しにされたと、そういった理由で)
楓の内面ではすさまじい葛藤が繰り広げられている。
されど、そんなことをつゆほども知らない平次とお綱は情熱的に抱き合っていた。
やがて男が身を震わせて身体を離し、調理台の上で、女の隣に寝ころんだ。
「平次様……すてきでした……」
そしてお綱は平次の手を握り締め、とろんとした笑みを見せる。
誰も見ていないと思っているからこそできる顔。
そして第三者である楓からすれば、見ているだけで胸焼けしそうな表情だった。
(ああ、もう……! なんなのかしら、本当になんなのかしら……!)
昨日、命を狙われたばかりだということを忘れているのだろうか。
殺そうと思えばいつでも殺せるのにできないもどかしさ。
それを覚える楓の眼下で身繕いをしながら、お綱は完全に心を許しきった声で言う。
「平次様と一緒にいると、身も心もぽかぽかしてきますね……」
運動していたら当然でしょうが――楓の毒づきは、当然だがふたりには聞こえない。
「そうしたら、あの……」
「どうしました?」
「えっと、はしたないのですけれど……」
「ええ」
「おなかが、減ってしまいました」
お綱が恥じらいながらそう告白する。
対する平次は「いま沢山食べたはずですけどね」と強烈な下ネタを繰り出した。
姫将軍はすぐさま顔を紅潮。仕返しとばかりに男の肩をかぷかぷと噛みはじめた。
(また、茶番劇……?)
お綱のほつれ髪を指で払いながら、平次がその艶やかな頬にそっと口付ける。
すると少女は幸せそうに微笑み、そっと唇を重ねて男を抱きしめた。
永遠に続きそうな甘ったるい光景に、全身を芋虫にはい回られているかのような怖気を感じ、楓は発狂手前になっていた。
ここまで楓は、色事を含めて過酷な訓練を積んできている。
しかし思えばそれは、楓個人に関するものに限ったことでしかない。
第三者の熱烈なイチャつきを見聞きし、続け耐える訓練などしたことがなかった。
耐え難い苦痛に苦しめられているさなか、ついに眼下で御膳医が動きはじめた。
「さて、そろそろ朝食を作らないと。お綱さんは……」
「平次様がお嫌でなければ、残らせて頂きます。あなたのことは、ずっと、傍で見て痛いから……」
「分かりました」
平次は胸から下を覆う前掛けを身に着ける。
それから手を洗い、米をとぎはじめた。
そして炊飯をはじめたところで、御膳所の戸が叩かれることになる。
「お綱さん、隠れて……はい、いま出ます」
姫将軍が調理台の下に隠れたことを確認し、御膳医は戸を開いて来訪者と対面した。
どうやら相手は賄方の役人のようで、御膳所のなかに食材の入った駕籠を搬入している。
「御膳医様、今日は良い魚が本舩町から運ばれてきました。揚げたてですから、鮮度の高いうちに是非」
「ありがとう、きっと上様も喜びましょう」
先ほどの乳繰り合いが嘘のように、さわやかで好青年然とした態度を見せる平次。
その変貌具合に舌を巻いているうちに、仕事を終えた役人は一礼の後に去っていく。
「もう大丈夫ですよ」
平次がそう言うとお綱が這い出てくるが、その姿は武家社会の頂点に君臨する征夷大将軍とは思えないものだった。
その姿を見下ろしながら、楓はふと思う。
(そういえば、魚介類を除いた食材はすべて亀丸屋が納入しているのよね)
つまりそれは、金衛門がその気になれば、いつでも毒を盛れたということでもある。
賄方吟味役が相当に優秀で厳しかったのか、あるいは毒を仕込む気など最初からなかったのか。
そんなことを考えているうちに、眼下では平次が調理を開始している。
庖丁を握った彼の顔は、実に生き生きとしていた。
「平次様、今日はいったい何を作って下さるのでしょうか?」
机の下に隠れろと『命令』されたにもかかわらず、そのことをまるで気にしていなさそうな姫将軍。
彼女はすっかり首ったけな様子で、平次に寄り添っている。
どうやら男の料理を心から楽しみにしているらしい。
「今日はアジをたっぷり使ってみようかと」
「アジ、ですか」
お綱はパンと手を打ち、嬉しそうに言う。
「平次様が城にいらっしゃる前は、『足が速い』という理由で食膳にはほとんどのぼりませんでした。出てきても酢締めくらいでしたし、とても楽しみです」
そういえば、魚なんてしばらく食べてないなと楓は思う。
もらった報酬はほとんど弟の薬代に消えることもあって、まともな食事を取っていないのだ。
このまま進めば、破滅しかないのかもしれない。もっとも、引き返せない所にまできている訳だが。
「では、さっそく捌いていきましょうか」
「アジですよ?」
「……」
「……じょっ、冗談です」
平次が立派な体格をしたアジをまな板の上に載せている間、姫将軍は「う”-」と身悶えている。
楓は内心で「馬っ鹿じゃないの?」と毒づく。
せいぜい幸せな世界に浸っていなさい。いずれ地獄に変えてやるから、と。
「サバをさばく」
「うぅ」
「サバを……」
「おっ、おやめくださいませっ」
何やらいちゃいちゃしはじめた二人を見下ろしながら、楓は歯ぎしりした。
また桃色の空間を見せつけられるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
もっとも男の側も、短時間でそう何回も射撃をしていたら砲身がもたないはずだ――楓はそんなことを思う。
「では、説明しながら捌いていきますよ」
今度こそ平次は調理を開始した。
「魚を捌く時に気を付けないといけないのがウロコです。これを取らないと、食べた時に混入してしまう可能性があります」
「そうなのですね……アジのウロコはどこに生えているのですか?」
「頭から尻尾に向かってです。だから、逆向きに包丁で削いであげればうまく取れます」
御膳医はそう言って、アジの体表を優しく撫でるように庖丁を滑らせる。
力をほとんど入れていないのが印象的だ。
刃を斜めにして、上手くウロコに引っ掛けているのが見て取れる。
「アジは尻尾からお腹にかけて『ゼイゴ』という堅いトゲ状のウロコがあるので、これも取っておかないといけません」
「あっ、これですね」
お綱が指先でそっと触れた。
「本当に、すごく……かたいです」
変に力を入れたら指が裂けてしまいそう。
そんなことを言いながら、姫将軍はツンツンとゼイゴを突いている。
「なので、しっかり取り除かないと。尻尾の方から皮ごと剥いでしまいましょう」
「そうなんですね……」
楓はこれまで、魚はウロコも取らずにそのまま茹でたり焼いたりするだけだった。
平次の言うことは異次元のそれに近く、思わず聞き入ってしまう。
「頭の落とし方にも、ちょっとしたコツがあります」
平次はアジの腹を上にしながら言った。
「どの魚にも腹ビレと呼ばれるものが胸ビレ近くに付いています」
「これですね……あっ、これもかたい……」
「そうなんです。腹ビレの根元にある骨は本当に硬くて、頭を落とす時も色々と大変なんです」
でも、と彼は胸ビレの根元に庖丁を当てながら続ける。
「こうして腹ビレを浮かすように切れ込みを入れ、胸ヒレの手前まで切ってから……」
平次は庖丁を一回外し、アジを横に寝かせた。
「胸ヒレから側頭部に向かって庖丁を押し込み、ひっくり返して同じようにすれば……」
「あっ! きれいに頭が落ちました!」
お綱が歓声を上げた通り、アジの頭が胴体からコロンと落ちたのが見える。
「そうしたら、すぐに頭を落としたところから肛門へ庖丁を通します。内臓を掻き出すと。骨部分に黒い血が凝り固まった部分が出てくるんですが……」
「あ、ここですか……? すごく、黒い……」
「でしょう? ここは『血合い』と呼ばれていて、このまま調理すると溶け出して料理が生臭くなってしまうんです」
楓はこれまで、何も気にせず魚を食べてきた。
余すところなくすべて口に入れてきたので、内臓を取り除くという行為自体が驚きだ。
眼下では。平次が血合いの部分に庖丁の先端を立て、なぞるように刃を通している。
「こうしておくと、後で血合いを取り除きやすくなるんです」
ではこれから血合いを落としていきます。
平次はそう言って、水を張ったタライのなかにアジを浸した。
そしてササラと呼ばれる竹製ブラシで血合いを丹念に掃除すると、再びまな板の上に戻す。
「これから骨を除去しますが、骨のある部分さえ覚えておけば楽に処理できます」
平次はアジを三枚おろしにすると、切り身の中程から腹部へと薄く切り落とした。
そうすると腹の骨がまとめて切り離されることになるのだ。
「お腹以外で骨を抜かなければならないのが、身の真ん中です。指でなぞれば場所は分かるので、これを刺抜きで抜いていきます」
「これで、骨が全部……?」
「ええ、食べる分には不都合がなくなるはずです」
その言葉に楓は驚きを隠せなかった。
というのも、アジは骨が多いというイメージがあったからだ。
心のどこかで、骨をすべて取り除くことはできないだろうと思っていたのである。
「骨を取ったら、皮を剥ぎましょう」
そうして、股板の上には――皮を剥がれ骨を抜かれたアジの切り身だけが残った。
上から見ているだけで、美味しそうな魚だということが良く分かる。
旬真っ盛りのアジはよく脂が乗って、てらてらと光り輝いていた。
「で、これからこのアジをひたすら細切れにしていくわけです」
平次はそう言って、ひたすら庖丁で細かく細かく切り刻む。
途中でショウガやネギ、豆苗を入れて刻み続け――最後は味噌を混ぜて練り合わせるように庖丁で叩く、叩く。
やがてねっとりと練り固まったそれを皿に盛ると、お綱に告げた。
「これで1品目、『アジのなめろう』の完成です」
「わぁ……っ」
お綱がぱちぱちと拍手する。
脂たっぷりの健康的な魚肉に、所々見えるネギなどの緑が鮮やかだ。
「2品目も作りますが、基本的になめろうと一緒です」
「えっ? 同じなんですか?」
姫将軍はきょとんとした瞳で平次を見つめた。
楓は「具材でも変えるのかしら」と思ったが、どうやらそうではないらしい。
平次はなめろうを手早く作り、そこに小麦粉を加えて手で練りはじめる。
やがて、ねちねちと魚肉の粘る音が屋根裏まで聞こえてきた。
「そして、これをごま油で焼きます。南蛮ではハンバーグと呼ばれる料理ですね」
もっともあちらでは、獣肉を使うのが普通ですが。
御膳医はそう言ってタネを焼きはじめる。
ジュウッと魚の焼ける音と香ばしい匂いが立ち上り、たちどころに屋根裏にいる楓の鼻を直撃した。
(く……っ)
貧しい食生活を送る楓にとっては拷問でもある。
脂の焼ける匂いは、人間の空腹感をこれでもかとかき立てるのだ。
「綺麗な焼き色ですね、平次様」
「ああ、お綱さん! あまり近づくと油がはねますから!」
お腹の音が鳴り響きそうになり、楓は慌てて伊賀忍びから奪った丸薬型の糧食を口に放り込む。
強い塩気が空腹感をまぎらわせたが、すぐに惨めな敗北感に襲われた。
目の前に美味しそうな料理があるのに、自分は食べることができないのだから。
「後はアジの頭を使ってあら汁を作りましょう。なめろうは山芋をすり下ろして丼モノにするのも……」
「やりました! わたくし、どんぶりで頂きたいです! 表や大奥ではなんだかんだで侍女たちの目もありますし」
「ああ、御膳所で食べるんですね。じゃあそうしましょうか。盛り付け用にアジの刺身も作っておきましょう」
「はいっ」
御膳医は慣れた手つきであら汁の準備に取りかかり、姫将軍はその側で楽しそうに調理の様子を眺めている。
きっと、ふたりにとっては幸せな時間なのだろう。
男性に対して不信感しか抱けない楓からすれば、お綱の表情は信じられないほどに明るい。
(なんなのよ、こいつら……本当になんなのかしら)
ほかほかのご飯の上に流し込まれるとろろ汁。
その真ん中になめろうがデンと置かれ、それを囲むようにアジの刺身が配されていく。
主膳には、野菜の炒め物を付け合わせにしたハンバーグなる焼き物。
焼き物に箸を付け、どんぶりを夢中で掻き込んでいる将軍を見ると――なんだかすべてがどうでも良くなってしまう。
やがて平次とお綱が去ると、伊賀忍びたちの気配も消えていく。
楓はしばらく御膳所に留まり、再度暗殺の機会をうかがったが……
御膳所に平次が現れる時は決まってお綱の姿もあり、伊賀忍びたちの警戒も厳戒となる。
もはや城ではどうにもならない。暗殺は絶対に不可能だ。
そう判断した楓が屋根裏を抜け出して城を脱したのは、平次がお綱を前に夕餉の膳を作り、御膳所を退出した後だった。




