第47話 眼下に広がる驚きの光景。
忍びにとって時間間隔の維持は、任務継続のための生命線だと言える。
10日近く、屋根裏部屋でずっと張り込みを続けることもあるからだ。
そのため忍者の多くは、体内時計を維持するための専門の訓練を積んでいることが多い。
楓も同様で、1ヵ月未満であれば、洞窟のなかでもほぼ正確に時間間隔を維持することができた。
(あのこ、ちゃんと朝ご飯を食べることができているかしら)
今の時刻は寅の刻から卯の刻(午前5時)へと切り替わった頃だろう。
屋根裏部屋に潜みながら、楓は家に残してきた弟のことを考えていた。
(近所の人に面倒を見てくれるように頼んだけど、心配だわ……)
だが、いつまでも任務外のことを考えている訳にはいかない。
御膳所の外をぐるりと包囲するように展開しはじめた気配を、鋭敏に察知したからだ。
(来たわね……)
感覚的に分かる。幕府に買われている忍びたちだ。
彼らが御膳所の周囲を警戒しはじめたということは、標的である御膳医がここへやってくることを暗示している。
(でも、マズいわね……完全に包囲されているわ)
それはつまり、スキがないということである。
御膳医を殺せても、楓自身が命を落としかねないのだ。
一対複数で生き残れると考えるほど、楓は自分の技能を過大評価していない。
それに、弟の看病をしなければならない事情もある。
人の善意は無限ではない。弟の世話を頼んだ人も、いつまでも楓が戻らなかったら手を引いてしまうだろう。
それを思えば、絶対に死ぬわけにはいかないのだ。
(ここは、我慢のしどころね……。でも、御膳所で殺すことはできそうにないということが分かっただけ、良しとしましょう)
そんなことを考えつつ、楓は天井の隙間から下を覗き込む。
やがて戸が開き、平次が室内に入ってきた。
だが彼だけではない。もう一人、彼の後ろに付いてきた者がいる。
(えっ、おなご……?)
そう、明らかに御膳医の情人としか思えない、未芽麗しい女の姿があったのだ。
(なんてこと……将軍の食事をこしらえる場所に、おなごを連れ込むだなんて……)
絶対にろくな男ではない。殺した方が世のためになるに違いない。
そう断じた楓の口からは、わずかにため息が漏れ出ていた。
(私が想像した以上に、風紀が乱れてるみたいね)
そんなことを楓が考えているうちに、党の御膳医は連れ込んだ情人の腰に手を回してエスコート。
戸を閉めて、すぐさま親密げな雰囲気を醸し出している。
そして女の側もまんざらではなさそうだ。
むしろ、男の身体的接触を嬉しがっている節さえあった。
(なんて破廉恥な……)
楓が顔をしかめた途端、ふたりがぼそぼそと会話をはじめている。
「平次様、やはりお外は冷えますね」
「春とはいえ、朝ですから。ああ、火を焚いておきましょうか。米も炊かないといけないですし」
平次なる御膳医はそう言いながら『へっつい』に火を点しはじめた。
やはり江戸城の御膳所、薪などの燃料には事欠かないらしい。
火を熾しはじめた男の背中を見下ろしながら、楓はすきま風の吹く我が家のことを思い出していた。
「あの、平次様」
「どうしました、お綱さ――」
されど、心痛気味になった楓のすぐ真下で、信じられない光景が展開しはじめる。
なんということだろう。
御膳医の袖を引いた女が、後ろを振り返った彼の唇を奪ったのだ。
(はっ、はぁ……っ!?)
現実に引き戻され、楓は思わず目を見張った。
眼下では長い長い口付けが続いている。
お綱なる女はやがて身を離し、恥じらいながらも言葉を紡いだ。
「おっ、お礼です……先ほど、とても素敵な夢を見させていただきましたから」
自分から接吻するだなんて、なんて破廉恥なおなごなのかしら。淫売でもあるまいに。
楓はそんなことを思いつつ、冷めた目でふたりのやりとりを眺めている。
「平次様、とっても素敵で……男らしくて……わたくし、惚れ直してしまいました」
「お綱さん……」
「でっ、ですけれど……! あのようないじわるは、もうなさらないでくださいね?」
お綱はしゃがみこむと、顔を伏せながら平次を指先でつんつんと突きはじめる。
「あなたから与えていただけるものは、すべてわたくしの喜びです。ですけれど、恥ずかしいことは……もう……」
どうやら、昨夜のうちに御膳医が彼女になにかやらかしたらしいことが分かる。
されどこの男はまるで反省していないらしい。
ふてぶてしくも、お綱の羞恥心をあおる蛮行に打って出たのだ。
「でも、ああいうの……好きなんでしょう?」
「え……っ」
「でなければ、あんなに乱れませんよね? 最後は可愛らしくおねだり――」
「もっ、もぉっ! もぉおぉっ!!」
お綱は瞬間的に顔を染め上げ、ぽこぽこと御膳医を叩きはじめる。
男は非力な攻勢を、微笑と共に受け止める余裕っぷりだ。
(なによ、なんなのよ、むかっ腹が立つこの茶番は……! 今すぐにでも地獄に叩き落としてやりたいわ……!!)
どうして暗殺対象の異性関係を見せつけられねばならないのか。
殺害衝動を危ういところで押さえ込みつつ、楓は眼下で広がる桃色空間をにらんだ。
(どうせ男なんて、おなごは情欲を発散する道具としか思っていないくせに……!)
それは楓の経験に由来する男性観だった。
だからこそ、なおさら、眼下の光景は正視するにはつらいものがあった。
女が男にだまされているとしか見えないのである。
「わたくし、平次様のそういうところ……嫌いですっ」
「あっ、そうですか」
「……えっ?」
だがしかし、楓に対する精神攻撃は終わる気配を見せなかった。
「あのっ、そのう……嫌い、です……よ?」
「ええ、聞こえています」
平次はあっけらかんとした調子で続ける。
「征夷大将軍であらせられるお綱様に嫌われた以上、俺ももう終わりです。御膳医の身分を返上し、実家に帰らせて頂きます」
「ちっ、違……っ!? あの、あのあの……あぁあぁ……違います、違うんです!!」
悠然としている御膳医に、お綱は錯乱気味にすがりつく。
「わたくし、大好きです! 愛しております! 平次様のこと、お慕い申しております……っ!!」
そんな恥も外聞もない大声は、きっと御膳所の外にまで聞こえていることだろう。
だが楓は、そんなことを考える余裕すらない。思考停止状態にあった。
お綱が征夷大将軍だと御膳医の平次が言い、それを彼女が否定しなかったのだから。
「わたくしはもう、身も心も平次様にお捧げしております! わたくしにはもう、平次様しかいないのです! そのわたくしが、あなたのことを、嫌いになるはずが――あっ」
涙目ですがりつく公方様を、町人上がりの御膳医が抱きしめている。
その信じがたい状況を前に、楓は思考を整理するので一杯一杯になっていた。
(この色ボケした頭の悪そうなおなごが……将軍……?)
楓は思わず、先ほど奪ったばかりの苦無を握り締めている。




