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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第45話 くのいちの家庭事情。



 亀丸屋を去った楓が向かった先は、江戸城の北北東にある浅草寺の門前町だった。

 歴史あるこの寺社を囲むように展開する町並みは、未だ発展途上にある。


 明暦の大火によって、人口密集地に住むことを嫌うようになった人々。

 参拝客を相手取って商売をしようとする人々。

 生きるために各地を放浪し、流れ着いてきた人々。


 そういった、様々なバックグラウンドを有する者たちが集まる坩堝(るつぼ)

 治安維持上の問題から、急増した住民への住居供給の問題に町衆と浅草寺が協議を重ねている町。

 その外れにあるみすぼらしい掘っ立て小屋が、楓のねぐらだった。


「……追手は上手く()けたようね」


 背後を確認した後、楓はすぐさま戸を閉める。

 小屋の中はまっくらだが、楓にとっては問題ではない。


 やがて彼女の目は一点に集中した。

 剥きだしの地面の上に置かれたボロボロの(たたみ)

 その上に()かれた茣蓙(ござ)で寝ている実弟の安否を確認することが、帰宅した楓がすぐに取る行動だった。


「……姉ちゃん?」

「あら、起きていたのね」


 生きている。

 その事実にほっと安堵の吐息をもらした後、楓は弟の側で膝をついた。

 少年のおでこにかかっている前髪をかきわける。

 鼻と鼻がくっつくほどの至近距離で血色を確認すると、女はようやく微笑んだ。


「肌の色が悪いわ、ちゃんと寝ていたのかしら」

「うん」

「嘘を言わないの」


 楓は弟の首筋に指を当て、脈を取ってから言った。


「少し待っていなさい、食事の準備をするから」


 そう言って弟から目を反らす。

 すると今朝方、彼のために作っておいた粥が、手つかずのまま残っていることに気付いた。


「あなた、食べなかったの?」

「ごめんなさい、姉ちゃん」


 姉の柔らかい叱責に、弟は空関混じりに応じる。


「どうしても食べられなくて。お腹も痛くて、それで……」


 少年の言葉に、楓は暗鬱とした表情をみせた。

 だが、それが露出したのもつかの間のこと。

 すぐに明るい声を出して、数少ない薪と藁を燃やしはじめる。


「そう……でも、安心なさい。今日は薬も貰ったし、お豆腐も買ってきたから。きっと良くなるはずよ」

「ごめんね、姉ちゃん。ぼくのために……」

「謝らなくたっていいわ」


 灯が点されたことで、幾らか明るくなった室内。

 すきま風が入り込んできていることもあり、灯はゆらゆらと揺れている。

 そんな情景のなかで、楓はゆるぎない声で言った。


「お父さんもお母さんもいなくなって……私にとってあなたは、たったひとりの家族なんだから」


 楓はそう言いながら、火の上に鍋を架けた。

 そこに水を張り、麦を入れていく。


「だから、ちゃんと元気になってくれないと……お姉ちゃんは悲しいわ」

「……うん、姉ちゃん」

「いいのよ」


 楓は鍋で麦を煮込みながら、軽い調子で言った。

 ぐつぐつと煮えはじめた麦は、やがてどろどろになっていく。


 江戸では白米が多く消費されていたが、それを口にできるのは『庶民』のレベルまでである。

 されど、この庶民という定義は実に曖昧なものだ。

 なにしろ貧困層は、二束三文で手に入る雑穀を日常的に消費していたのだから。


「私は、大丈夫だから」


 どろどろになった麦粥。

 そこに、店じまい間際で安くなった豆腐を混ぜ込んでいく。

 豆腐を粥のなかでつぶし、固形物でなくなるまで掻き混ぜると、そこに味噌と漬物を入れてひと煮立ち。


 そして出来上がった麦粥の量は多くない。

 多く見積もってもひとり分しかなかった。


 それをお椀のなかに注いで、弟の側に腰を下ろす。

 彼の上半身を起こすと、楓は麦粥を(さじ)ですくった。

 ほかほかと湯気を上げるそれは、味噌の香りをほわほわと放っている。


「……ねぇ、姉ちゃんのは?」

「私は大丈夫だから」


 楓は苦笑しつつ、匙の上のどろどろな粥に息をふーふーと吹きかける。

 そしてそれを、弟の口元に運びながら言った。


「まずは、あなたの病気を治さなきゃ、ね?」





 弟に食事を与え、金衛門から貰った薬を(せん)じて飲ませ、寝かしつける。

 呼吸が辛いのだろう。

 不規則になりがちな寝息を聞きながら、楓はぼそりとつぶやいていた。


「私は、どうすればいい?」


 その問いは、不意を突いて口から飛び出てくる言葉でもある。


 どうしてこんなことを言ってしまうのか。


 それは楓からすれば考えるまでもなく、自明のことだった。

 大都市のなか、将来の見通しも立たないままで、病気の弟と貧困にあえいでいること。

 それ以上でも以下でもないのだから。


 現状をなんとか打破したくて、それでも方法が分からない現実。

 その状況に直面して焦りを覚え、それでもなんとか心の安定を取ろうとする意識が――不意に口を割って飛び出してくるのだろう。


(報酬のほとんどが弟の薬代に消えて、残るのは(すずめ)の涙だけ……)


 弟さえ元気になってくれればいい。

 そうすれば幾らか状況は好転するにちがいない。

 しかし彼が良くなる気配はなく、それが楓の不安を掻き立てていた。


「いただきます」


 弟のために朝作っていた『粥だった物』を食べる。

 すっかりと冷め切っている上、表面はパサパサしていた。

 かと思えば中はすっかりびしゃびしゃで、絶妙に不快な食感が走る。

 穀物の甘みもろくに感じることができず、とてもではないが『おいしい』とはいえそうにない。


(なにやってるんだろ、私……)


 不快な物を胃に押し込んでいると、自分がみじめでどうしようもなくなってしまう。

 白湯を飲みながら、楓はすっかり生気を削がれてしまっていた。

 しかしその時、自分を奮い立たせるべき過去がないこともまた、事実なのだった。


 楓が生まれた頃には既に江戸幕府が成立しており、徳川将軍家を頂点とした幕藩統治体制が確立されていた。

 両親は『豊臣家に協力していた』という理由で故郷を追放された甲賀忍者である。


 そんな両親の間に生まれた楓は、くのいちとして生きることをはじめから期待されていた。

 しかし両親が任務の最中で命を落とすと、11歳年下の幼い弟とふたりでとりのこされてしまうことになる。

 すると今度は、同じく追放されていた忍び仲間たちから、女としての働きも望まれるようになったのだった。


「……汚らわしい」


 楓は自分の過去を思い返すたび、全身をかきむしりたくてどうしようもなくなってしまう。

 弟には言えないことを、たくさんしてきたのだ。


 楓の母親は、端的に言って非常に美人だった。

 流れ者となれば、女自体が貴重な集団である。多くの仲間が自分の女にしたがっていた。

 両親が亡くなって悲観に暮れる楓の前で『父親(あいつ)だけが死ねばよかったのに』と暴言を吐かれた記憶があった。


 そんな状況であったため、仲間であるはずの者たちの意識が、親の保護を失った楓に向けられたのも訳ないことだった。

 男たちは鬱屈(うっくつ)した感情を楓にぶつけ、そして少女の側も、生きるためにそれに応えざるを得なかった。


 ひとりならば、逃げられたのかもしれない。

 しかし自分よりも弱い立場にある弟がいた。

 彼に危害を加えられないよう、自分が頑張るしかなかったのだ。


 そして下卑た男たちに昼夜問わず抱かれている時、楓は決まってこう訊いた。


『私は、どうすればいい?』


 男たちが望むままの人形。

 そうなるためのフレーズが、いまでも楓の意識を強く縛り付けている。


「ごちそうさまでした」


 まったく美味しさの欠片もなかった粥を食べた後、楓は手を合わせ、食事ができたことに感謝する。

 そして後片付けをしている間、楓は考えていた。

 自分がいつか復讐しようと思っていた男たちを殺した、あの御膳医のことを。


「普段、どんなものを食べているのかしら……」


 将軍のために、毎日ご馳走を作っているということは分かる。

 しかし『ご馳走』という単語を知ってはいても、楓はいまいちピンとこないのだ。

 なにしろ楓にとってのそれは、おかずをいっぱい詰め込んだ大きなおにぎりなのだから。


「でもきっと、そうじゃないんでしょうね……」


 大きな魚を食べたり、大盛の野菜を食べたり、山もりの白米を食べているのだろう――というのが、楓の想像力の限界だった。

 そして御膳医を殺すことの意味について、楓は考えたことがまったくない。


(さっさと殺して報酬を貰わないと……このままじゃ栄養あるものを食べさせてあげられないわ)


 楓はそんなことを思いながら、ぐっと背を伸ばす。

 相手は将軍直属の料理人であり、医師だ。

 将軍個人しか助けない者に正義なんてない。

 楓はそう思っていたし、殺すことにためらいはなかった。


「……ねぇ、姉ちゃん」

「あら、おきていたの?」


 この家の寝床はひとつしかない。

 病弱な弟の横に滑り込んだ楓は、弟を優しく抱き留めた。


「無理、しないでね」

「大丈夫よ」


 細くて薄い背中をぽん、ぽん、ぽんと一定のリズムでやさしく叩きながら、楓はそっとささやいた。


「私は無理なんてしていないから」

「……姉ちゃん」

「寝ましょう。身体が辛くなったら、私のことを強く抱き締めなさい」


 楓はそう言って、弟を抱いたまま瞳を閉じる。

 できるならこのまま、明日が来なければ良いなと思いながら。


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