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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第1話 興味津々なお姫様。

『女心と秋の空』ということわざ(・・・・)がある。女性の気持ちは移り気で、秋の空も用のように変わりやすいというものだ。

 だがしかし、変わりやすい空は秋限定ではない。夏の空も、得てして安定しないものである。


 桜ヶ池で溺れていた身元不詳のお姫様。

 彼女を背負った平次が、日本橋近くの本舩町にある自宅兼診療所へと駆け込んだ頃には――ぽつぽつと小雨が降りはじめていた。

 そしていまや、東南アジアのスコールを思わせるほどの凄まじい土砂降りとなってしまっている。


「うーん、これは酷い……」


 爆音と共に、復興の最中(さなか)にある江戸の町並みを打ち据える大粒の雨。

 長屋が立ち並ぶ江戸の街路は、現代とは違ってコンクリート舗装がされていない。

 そのため、大雨が降ればたちまちのうちに泥沼と化してしまう。


 街路からはもうすでに、濃密な泥の臭いがむわりと漂ってきていた。

 平次は炊事場での作業の手を止め、その自然の香りを()ぐ。

 そして窓越しに外を眺め、先ほど診療所を飛び出していった父親のことを案じていた。


「大丈夫かな……父さんは――」


 彼は日本橋界隈では並ぶ者なしとされる名医である。

 御家人のみならず旗本の家にも招致されるほどの男だった。


 それもあって、平次が運んできた女性を見るや否や――経験的に、貴人だということを見抜いたらしい。

 何かあってからでは遅い。そう悟った父親は、平次から事件の詳細を聞き取った後、すぐさま北町奉行所へと向かったのである。


「――まさか、こんな土砂降りになるとは思ってなかっただろうし」


 父親が出発した頃にはまだ小雨だったのに、いまや激烈な雨脚となっている。

 街路が泥化し液状化している現状、どこかで雨宿りをしないと奉行所まで辿り着くことは困難だろう。

 そんなことを考えていた平次に、お姫様の容態を観察していた女性が近付いてきた。


「平次さん、少しよろしいかしら」

「ああ、母さん……どう、あの方は」


 既婚者の証、島田髷(しまだまげ)

 それを優美に結い上げたのは、今年で38歳になる母親・お(みつ)だった。


 彼女は医師である夫や息子の平次と共に、医療に従事している。

 現代で例えるならば、看護師だろうか。往診にも同行し、急患とあれば夫と共にすっ飛んでいく度胸もある女性だ。


 ちなみに、若い頃には江戸の美女番付で大関にもランクインしたほどの器量よしである。

 そして恐ろしいことに、その美貌は平次を産んだ19歳のころから一切変わっていない。


「身体に大きな外傷はないみたいね。ただ、池の水をたくさん飲んでしまっているみたい。それだけが気がかりだわ……」

「水の飲み過ぎか……」

「でも、先ほど(かわや)で目いっぱい吐かせたから大分スッキリしたはずよ。そう言った意味では、問題ないわね」

そういった意味では(・・・・・・・・・)?」

「ええ。問題は別のところにあるわ。というのもね……」


 平次の耳元に口を寄せ、お満はひそひそと囁いた。


「あの方、明らかに大藩かいいところの旗本の御子女じゃないの……」

「やっぱり、母さんもそう思う?」

「ええ。なにしろあの方、自分で厠に立てなかったのよ。それで明白だわ」

「厠に……そうか」


 平次は思わず唸った。

 江戸時代のお姫様たちは、基本的になんでもかんでも他人にやってもらうのが常だ。

 食事の際に魚の骨を取ってもらうのは普通だし、トイレに行って用を足した後にその部分(・・・・)を侍女たちに拭いてもらうのも普通――そんな浮世離れした生活を送っているのである。


 故に、医療従事者たちが身元不詳の相手の素性を見極めるポイントのひとつが、トイレ事情なのだった。

 自分でトイレの世話ができれば町人か低禄の武士、できなければ公家か高禄の武士だと分かるのである。


「それに、何をしてもお上品だもの。平次さん、あなた……変なことに巻き込まれないと良いわね」

「滅多なことを言わないでくれよ、母さん」


 平次は思わずぶるりと身を震わせた。


「俺はただ、あの人を助けたかっただけで……それ以上の厄介は御免だぞ」


 平次が応答した、まさしくその時だった。不安げな表情を浮かべながら、寝かせていたはずの部屋からお姫様が抜け出してきたのは。


 襖の擦れる音を敏感に察知した平次は、直ちに母親との会話を中断。桜ヶ池で溺れていた女性に向き直った。


「おや、大丈夫ですか? 寝ていた方がよろしいのでは?」

「けほっ……あの、いえ……その、お医者様……」


 何かを聞きたくて仕方がないといった様子のお姫様だ。

 付き合う他にないだろう――そう覚悟を決めた平次は、改めて彼女の姿を(あらた)める。


 もう既に時刻は(とり)の刻(午後6時)を大幅に回っているため、周囲は真っ暗だ。

 従って、彼女の姿を浮かび上がらせているのは、室内の薄ぼんやりとした灯籠(とうろう)の光である。


 それは、幻想的な美しさだった。

 診察の都合もあって、濡れていた頭髪は(まげ)を解かれて下ろされている。

 その色は美しく(あで)やかな()(がらす)。透き通るような色白の肌に、良く似合う色合いだ。


 そして、はじめてまともに見た小顔は、目鼻立ちもよく整っている。

 現代社会で生きていた頃も含め、平次が見たこともないような薄幸系の美貌だった。

 目元には長い睫毛(まつげ)の影が差しており、ブラウンの瞳は不安げに潤い揺れていた。


「その、あの……けほっ、けほっ」

「大丈夫です、どうか落ち着いて下さい。何かございましたか?」

「申し訳ございません……実は、けほっ、お尋ねしたいことがございまして……」


 一体全体、何だろうか。平次は母親と顔を見合わせてから、これでもかと厚着させられているお姫様の傍に寄った。

 彼女を座らせて、咳込み苦しそうな背中を優しく撫でながら、リラックスさせることに努める。


貴方(あなた)の……お医者様のお名前を、けほっ……お伺い、したくて」

「俺の、名前ですか?」


 そう言えば、職業について教えたものの――名前まで名乗ってはいなかったことを思い出す。

 こくりと頷いたお姫様に、平次は言った。


「これは失礼いたしました。俺の名前は平次と申します。そしてここは本舩町の診療所、先にお話しました通り、私の職場となります」

「あ……っ、そういうことでございますのね」


 ようやく安心できたのだろう。彼女は空咳をしながらも、儚く美しい微笑を浮かべていた。

 それは散り行く桜のようで、直視してしまった平次はどきりと胸を高鳴らせる。


(命を救うために必要不可欠だったとはいえ、人工呼吸だったとはいえ――俺は、こんなにも美しい女性と唇を合わせていたのか……)


 そう思うと、なかなか気恥ずかしくなってしまう。

 平次は女性との経験がなかった。

 現代社会では料理一筋だったし、江戸(この)時代では医師としての修業に往診のみならず、剣の稽古と文字通り慌ただしく過ごしてきたからだ。


「では、こちらが……けほっ、平次様のお屋敷でございますか」

「正しくは父上の、ですけれども」


 そう答える平次に、お姫様が警戒心を解いているのが分かった。

 窮地を救ってくれた相手だからなのか、裸にした彼女を手籠めにしなかったという信頼があるからなのか……。

 いずれにせよ、天女を思わせる容貌をしたお姫様は、ブラウンの瞳いっぱいに平次を映し出し、咳込みながらも一生懸命に口を開いている。


「まぁ、そうなのですね……けほっ、けほっ。御父上様が御存命でいらっしゃるとは、何という僥倖(ぎょうこう)、あの大火事があった後ですから……神仏に感謝せねばなりませんね」


 いまや厚い着物に覆われている胸元。

 その上で(たお)やかに、お姫様は両手を合わせた。


「このような不躾(ぶしつけ)な質問をお許しください。御母上様も、御健在でございますか?」

「ええ、こちらにおりますのが俺の母です」

「あ……っ、けほっ、それは大変に……けほっけほっ、失礼なことを申しました。お許しください」


 口元に右手を当てて、目をまん丸にした彼女は、驚きもあってか咽込(むせこ)んでいる。

 その背中を撫でながら、平次は(なお)も話し続けようとする女性を(いた)わった。


「その、大変にお若く見えましたもので……けほっ、わたくしはてっきり、平次様の御姉妹のいずれかであろうと思い込んでおりましたから……」

「あら、あらあら、いやねぇもぉ……」


 貴人を前に、蓮っ葉な言葉を散らすお満。

 平均寿命が50歳、仕事からの引退と隠居生活は40歳から。そんな社会で生きる彼女は、「若い」というニュアンスのことを言われて相当に喜んでいるようだった。


「それにしても、本舩町でございますか……。ええ、存じ上げております。江戸に運ばれる魚介類を城に納め、そして市中での商いも担っている食の中心地でございますから」

「随分とお詳しいのですね」


 平次が感嘆の声を漏らす。お姫様は続けた。


「はい、()権現(ごんげん)様が江戸入府の際に、上方(かみがた)(もり) 孫右衛門(まごえもん)とその郎党に漁業を営むように命じた土地にございますね」


 上方とは京を中核とした近畿地方のことを指し、権現様とは――言うまでもなく、江戸幕府の初代征夷大将軍・徳川家康公のことである。

 家康はその死後に神格化されたこともあり、権現様と呼ばれているのだった。


「それに本舩町、そこにある診療所といえば……他でもありません。あの大火の際、多くの負傷者を一手に引き受けて、一歩も引くことがなかった名医とその家族が住まう場所。わたくしは江戸の民を代表し、貴方やそのご家族に感謝しなければならない身なのです、知らないはずがありません」


 お姫様はそう言って、静かに腰を折る。

 ここに至って、身元不詳であった彼女の立場はもはや明言されたも同然だった。

 おそらく、国政を担う幕閣に連なる者の娘なのだろう。あるいは徳川一門の縁者かもしれない。


 いずれにせよ、高禄旗本クラスの女性が「江戸の民を代表し」などという大それたことを言うはずがなかった。

 平次の背筋に冷たい物が流れる。目の前の女性は、想定を上回る、重要人物なのかもしれない。


「その、姫様……」

「はい、何でございましょう」


 平次の呼び掛けに、彼女は抵抗なく応じた。

 つまりそれは、目の前の女性が『姫』と呼称されるクラスに位置することが確定されたことを意味する。平次の母親の顔が、とうとう引きつったのが分かった。


「大変に不躾な質問で恐縮なのですが……」

「構いません、どうぞ仰って下さいませ」


 ふわりと微笑むお姫様。

 彼女に一瞬見とれながら――しかし平次は、喉奥で引っかかりかけた言葉をなんとか絞り出す。


「姫様のお名前と、ご出身をお教え頂けませんでしょうか」


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