第44話 くのいちと亀丸屋。
時は僅かに巻き戻る。
平次とお綱が本舩町の診療所を辞した頃合い。
日の落ちつつある江戸の日本橋を、ひとりの町娘風の女が歩いている。
着古した着物をまとい、笠も被っていない。されど容貌は実に整っていた。
そのためショートヘアが目立つことになる。
すれ違う人々は、『まだ若いのに後家か』と思うことだろう。
あるいは『あの火災で夫を喪ったのだろうな』と思うかもしれない。
いずれにせよ、気を引かれた町民が振り返ったところで、女の後姿しか見ることは叶わなかった。
そうなると不思議なもので、町民の頭のなかには『若いのに後家のおなごがいた』という情報しか残らない。
容貌については『綺麗だった』というおおざっぱな情報しか残らず、一時間も経てば、完全に記憶から排除されるだろう。
そして女は、そんな記憶のメカニズムをよく理解していた。
どんな大罪を犯していたところで、普通にしていればバレないのである。
大切なことはモブになりきることだ。
目立ち過ぎず、かといって目立たないということはない。
その絶妙なバランスを取っておけば、大都市である江戸ほど――裏家業の人間が生きやすい都市はなかった。
「楓です、お取次ぎを」
彼女は駿河町の亀丸屋へ入るやいなや、店番の男にそう伝えた。
彼は席を立ち、すぐに戻って来る。
そして店の奥へ入るよう促すのだった。
「どうも」
頭を下げて店の奥に進み、塀で囲まれた裏店屋敷との連絡通路へ入る。
阿片の香りがここまで漂ってきている気がして、女は顔をしかめる。
「よく来た、楓」
魔薬の煙が充満している亀丸屋の裏店屋敷。
阿片に意識を汚濁された男女の乱痴騒ぎが繰り広げられているであろう、その空間。
女が玄関をくぐろうとすると、その背後から、金衛門が声をかけてきた。
「……っ」
楓は二流の忍びではない。
江戸にいる豊臣派のくのいちでは、間違いなく最高峰の技量を有していた。
その背後を、金衛門は簡単に取ってしまうのである。
この骸骨老人の技量は化物級であり、楓が逆らえば、間違いなく瞬殺されてしまうことだろう。
「しっかり、始末できたのだな?」
金衛門はしわがれた声で訊いた。
平次を殺せたか否かを問うているのではない。
任務にしくじった男たちを始末できたのかどうかを尋ねているのだった。
御膳医の暗殺に成功していれば、彼らが報告に来ていたはずなのだから。
「はい。もっとも、私が手を下したのはひとりだけでしたが」
「他の者は討たれたのだな、あの御膳医に」
存外に腕が立つらしいな、金衛門は口角を歪めて言った。
彼の股間がそそり立っているのが見える。興奮しているのだ。
楓は知っている。
彼が性的興奮の対象とするのは男だけだということを。
「しかし失望したわい。差し向けた連中は、いずれも手練れであったはずだが」
「はい、普通に戦うことができれば御膳医の首を取れたはずです」
監査役として現場を子細に観察していた楓は応じた。
「襲撃を受けた御膳医は、空中に粉末を撒き散らしました。唐辛子か何かでしょう。風に乗って撒き散らされたそれを吸い込んだ者たちは、もれなく……」
「苦しみ、そのスキに斬られたと」
「はい」
楓は淡々とした様子でうなずいた。
それを見た金衛門はニタリと笑う。
「それにしては悲壮感がないのう。同郷の者たちであろう? もっとおなごらしく、泣き叫んでもよかろうに」
楓は無言のまま頭を下げる。
殺され、そして殺した男たちはたしかに同郷の人間だ。
しかし同時に、女として憎悪してもいる。
豊臣家が滅びて流民も同然となり、各地を転々とする集団だ。
そこで女が生き延びられる道があるとすれば、ひとつしかない。
「まぁ、構わんがなぁ」
金衛門は落ち窪んだ眼を爛々(らんらん)と光らせながら言った。
「御膳医の手口が分かっているのであれば、同じ手を食らうことはあるまい」
地獄の使いとしか思えない容貌をした彼は、邪悪な笑みを満面に浮かべる。
「次はおぬしが討ちに参れ。金はあやつらに渡す予定だったものに、更に色を付けよう」
「はっ」
金衛門の指示は明快で、楓はそれに従う他にない。
雇用者と被雇用者の関係は、いつの時代でも不変だった。
しかし女である楓にとって、忍び稼業は実にやりがいのある労働でもある。
努力して技術を磨けば磨くほど生き延びられるし、報酬だって増える。
男たちに媚びて身体を開き、虚無感と共にはした金や食料を得る仕事よりよっぽどよかった。
身体を明け渡した後で約束を破られ、金や食料を貰えないことも多いからだ。
それに忍びであれば、腕が上がれば上がるほど、男たちから一目置かれるようになる。
力ないくのいちは『色修行』という名の下で、男たちから屈辱を味わうことになるのが常だ。
しかし腕利きの忍びになれば、その屈辱を味わうこともなくなる。
望まぬ子供を孕み、妻子そろって捨てられることだってなくなるのだ。
「それと、これを持って行くがいい。薬と、それを差し引いた分の報酬じゃ」
金衛門は懐から巾着を取り出して、それを乱雑に放り投げた。
それまで姿勢を崩さなかった楓だが、あわてて飛びついた。
中身が地面にぶちまけられる前に掴んだ巾着には、銭とわずかな薬が入っている。
「覚えておくがいい。おぬしが死ねば、おぬしの大切なものも死ぬことになると」
「……はっ」
楓が頭を下げると、金衛門はその脇を抜けて裏店屋敷へ入って行く。
しばらく巾着を握り締めていた楓だったが、裏店屋敷の門番たちがいやらしい視線を向けてきているのに気付いた。
彼らは豊臣家臣の子孫であり、いまでは金衛門の手によって、薬と女と酒で徹底的に懐柔されている。
あまりここにはいない方がいい。
そう判断した楓は、足早に亀丸屋を去ることにした。
その口からは、急いたつぶやきがもれだしている。
「早く帰らないと……あの子が待っているわ」




