第43話 桜田御膳とお綱の想い。
平次は改めて、目の前に並ぶ料理の品目を眺めていた。
保科家の家紋である『並九曜』が描かれた、漆塗りの堂々とした膳だ。
それが合計5つある。疑う余地もなく本格的だ。
日本料理の正式な膳立ては、本膳料理と呼ばれている。
そしてそこでは、料理の形式や食事そのものの作法も含めて、厳格な規則が存在していた。
たとえば、ご飯は一口食べたら汁を一口飲むという動作を繰り返さなければならない。
あるいは、ご飯は最後の一口を湯漬けにして、香の物と一緒に食べなくてはならない。
はたまた、食事中におしゃべりすることがあってはならない。
そういった様々なルールがあり、日本食を味わうことは――本来ならとても大変なことなのである。
だが、そういった堅苦しいことはなしにして欲しいとお綱は言っていた。
というのも、本膳料理のルールには服飾規定がある。
西洋的に言えば、ドレスコードというやつだ。
お綱は男装しているので、その規則に従っていないということになる。
無礼講ということにしておかないと、体裁的にもまずいのだった。
(お綱さんも、食事を楽しみたいって思ってるだろうしな……)
そんなことを平次が思っている最中、会津中将が配膳係と何事か言葉を交わしている。
そして彼は苦笑して姫将軍に言った。
「上様、お詫びしなければならないことが」
「あら、爺がそのようなことを言うだなんて……雨でも降りそうな」
お綱が苦笑で返すと正之は静かに吐息をもらす
「今ほど、料理長に膳の内容を我が料理人に紹介させようと思ったのですが、やはり厨房から出てこないようです」
「そうなのですね」
「は、肝の据わっている平次とは異なって、気の弱い性質ですからな。上様の前に出たら卒倒しかねないとのことで」
「まぁ……」
仕方がありますまい。今宵の膳については、儂が説明いたしましょう。
慣れた口調でそんなことを言う正之から察するに、どうやら桜田御膳は定番の饗応料理のようだ。
「本膳はタイのつみれ汁、これは味噌仕立て。菜はなますに香の物、そして壺物。この壺物としては、ニシンの山椒漬けとなりますのう」
「ニシンの山椒漬け?」
お綱は首をかしげて言った。
「お漬物なのですか? わたくしはてっきり、お漬物とは野菜の類だけかと思っていたのですが」
「そうお思いになるのも無理はありませんが、しかし漬物でございますな。会津では、先の蒲生家の治世下より盛んに作られはじめたものでございます」
正之は軽く説明してくれる。
「会津は山々に囲まれており、なかなか海産物が入手し辛い土地柄でしてな。故に、魚介類の乾物が重宝されたのです」
「乾物が……」
「左様。山椒の葉と各種調味料で乾物を漬け込むと、腐りづらくなりますのでな」
「そして作られたのがこれ、ということなのですね……」
お綱は箸を付けると「あら、意外と柔らかいのですね」と驚いたように言った。
「わたくし、てっきり……かちこちに硬いものだと思っておりました」
「上様、そのような下物を桜田邸でお出しするなどありえませんぞ」
正之は姪の発言に苦笑し、二の膳を指し示す。
「二の膳には貝の澄まし汁。平には鴨やワラビそしてゼンマイといった山菜に加え、長芋に川魚に初鰹、そしてシマエビの煮物を用意しております。猪口はタケノコとフキのごま和えとなっております」
「あの、爺」
お綱は二の膳の平を見ながら言った。
「煮物の色が、すべて異なっているのはどういうことでしょう」
「すべて別々に味付けされているからです、上様。すべての具材を別々に煮ることで、微細には異なる味を楽しむことができるというわけですな」
そう言ってから、会津中将は残りの膳を示す。
「三の膳にはタイのあら汁と刺身、アワビと白魚の素の物が。与の膳には、ご覧の通りキスの姿焼き。五の膳には砂糖餅となっております」
「これは、すごい……」
平次は思わず感嘆の吐息を漏らしていた。
普段、料理をしていない人間だって簡単に分かる。
ここまでバリエーション豊かな品目を作ることが、並大抵の苦労ではないということを。
「ひとりで調理を行うおぬしと、料理長の指揮の下、大人数で料理を作る桜田邸の違いということだ」
正之はそう言った。皮肉ではなく、事実として。
たしかに、彼の言うことは間違いない。
平次がひとりで厨房にたつよりも、複数人で料理を作った方が、はるかに時間の短縮になる。
品数も多く作ることができるのもまた、道理というものだろう。
「さて、上様。いずれの料理も味は儂が保証いたしましょう。必ずや、ご満足いただけるかと」
老人の言葉に、お綱はぷくーっと膨れた。
そして拗ねたように応じる。
「つまり、爺は保証ができるくらい……こういった食事を取っていた、ということですよね。わたくしが心の感じぬ、冷たい料理を食べている間、ずっと」
「立場が変われば食する者も代わるというものですぞ、上様」
儂は、ひとつぶひとつぶ厳選された美濃米を食べることなどできませんからな。
正之はそう言って、お綱を見る。
少女はふいっと顔を反らし、ささやくように言った。
「それは、そうかもしれませんけれども……」
舌鋒を封じ込められた姫将軍は、ぐぬぬと悔しそうな顔をしている。
やはり、日本史に名前が残るような怪物級の政治家には敵わないのだろう。
(あれ、そう言えば……)
そこでようやく、平次は気付くのだった。
思えば、これが、今日はじめての食事なのだ――ということに。
◆
正之との会食が終わったのは、亥の刻(午後9時)だった。
もちろん、延々と食事をしていたわけではない。
小言混じりではあったが、今後についての話し合いを行っていたのである。
かくして、平次とお綱はふたりでふらふらと座敷を辞すことになった。
本来であれば、一番広い部屋に止まるべきなのだろう。
しかし彼女は、自ら望んで狭い客室を選んでいた。
『敵が寄せてきた時、狭い部屋の方が守りやすいですから』
お綱はそう言ったが、本心がどこにあるかは言うまでもない。
平次の腕を抱きながら客間に入ると、彼女はすぐに人払いを行っている。
桜田邸の侍女たちが退出していくと、姫将軍は密着したまま腰を下ろすのだった。
「本当に、今日は平次様にとって大変な一日だったと思います」
お綱はそう言いながら、平次を労しげにさわさわと撫で回す。
「あなたがご無事であること……わたくしにとってはそれが、何よりも嬉しく、そして大切な事なのです」
彼女の手の動きにむずがゆさを覚えながら、改めて今日のことが平次の頭によみがえってくる。
(朝は暗殺者に襲われて、昼はお綱さんと実家に行って、夜はこうして会食……だもんなぁ)
濃密すぎた一日だったと言ってもいいだろう。
自分の行動が、どこか他人事のように思えてしまうのも仕方がないのかもしれない。
そんなことを考えていると、お綱にぐいっと腕を引かれてしまった。
「平次様、少しだけ失礼致しますね」
まさか引っ張られるとは夢にも思っていなかった平次だ。
姿勢を崩し、そのまま少女の細腕に抱き留められた。
男物の着物越しに、柔らかな母性のたわみを感じる。
ふわりと汗の香りが鼻をくすぐり、頭がクラクラした。
(それでも、落ち着く匂いなんだよな……)
彼女の身体からほのかに漂うそれは、不快なものではない。
むしろ、身体にすがりついて鼻腔いっぱいに嗅ぎたいと思うほどだ。
「平次様……」
お綱の腕の力が強まり、顔が強く胸に押し付けられる。
ついにこらえきれなくなった平次は、思わず大きく鼻呼吸を開始。
そんな青年の後頭部を優しく撫でながら、お綱はささやくように言った。
「ごめんなさい……」
「どうして、謝るんです?」
そう尋ねた平次に、お綱は悲しそうな声色で告げる。
「だって、きっと……わたくしが平次様を御膳医になどしなければ、忍びに命を狙われることなんて……なかった、はずですから」
姫将軍は悔恨をにじませながら続けた。
「わたくしはまた、人の命を奪いかけたのです。どうして恩人であるあなたを、大坂の陣以来の憎しみの渦に巻き込んでしまったのか……悔やんでも悔やみきれません」
少女の口から紡がれた言葉を、否定したい気持ちが先んじる。
だが次いで現れたのは、強い疑念だった。
「また……?」
それはどのような意味なのか。
平次の疑問に対する姫将軍の答えは、予想しない方向へと進んでいく。
「はい、わたくしのお母様のことで……あっ」
「お綱さんの……?」
平次はそこに至って気付く。
この少女の両親のことを、自分は何も知らないのだ――ということを。
「あの、その、つまり……」
戸惑いながらも声をかけると、お綱は途端に身を固くしながら言いよどむ。
身内の暗部をさらけ出していいものか、迷っているのだ。
「お綱さんが嫌だったら、話す必要はありませんから」
平次ははっきりと言った。
「誰にも詮索されたくないことは、あるはずですし。それを望んで聞き出そうとするのは下衆の所業でしかない」
そんな発言を前に、姫将軍はしばらく沈黙する。
やがて平次をそっと抱き直しながら、ぽつりと言った。
「……それでも、あなたには知っていてもらいたい……そう思うわたくしが、います」
お綱はゆっくりと時間をかけて、言葉をこぼしていく。
「あなたは、わたくしのお母様が故人であることにお気付きだったでしょうか」
「ええ、なんとなくは」
姫将軍の細腕に抱かれながら、平次は穏やかな声で応じた。
「これだけずっと傍にいて、一度も接触がなかったわけですし」
「そうですか……そう、ですよね」
お綱は平次の後頭部を撫でながら、かすかな声で、ささやくように言った。
「実はわたくしのお母様の祖父は、下手人なのです」
「……えっ?」
想像もしていなかった言葉を受け、平次は困惑するばかりだ。
下手人とは、江戸時代では斬首刑に処された者のことを意味する。
「あら、信じられませんか? 本当ですよ?」
お綱は昏い笑みを浮かべながら言った。
「わたくしには、罪人の血が流れているのです。ええ、今となっては公言されることもありませんが」
彼女は語る。
祖父が農民であり、縁あって、旗本である朝倉家に仕えることになったことを。
そして朝倉家の財産に手を付けて追放され、謹慎先でも問題を起こし――挙句、狩猟禁止の鶴を鉄砲で撃ち殺して遂に死刑となったのだと。
「とんだ悪人だと思いませんか? そんなどうしようもない大罪人が、わたくしの祖父なのです」
お綱は渇いた笑みを張りつけながら言った。
「幸運にも、祖父は江戸の古着商と再婚できました。しかしそれは、わたくしのお母様を既に産んでいたことから、『子供が産める女』だと理解されていたからでしかありません。子宮にしか価値がなかったのです」
「……」
「そしてお母様は13歳の時、何も知らない春日局殿に見出され……大奥へ引き取られ、わたくしを産んだのです」
春日局とは、お綱の父親である先の将軍・家光公の乳母のことだ。
女性の好き嫌いが激しかった家光のために、武士階級から町民層に至るまで、広く女性を大奥へリクルートしたことでも知られている。
(しかし、まさかそんな事情があっただなんて……)
現代社会であれば、心無いゴシップ誌が『将軍の祖父は下手人』などと大騒ぎしそうなネタだ。
平次は静かにお綱の話の続きを待った。
「わたくしが言うのもおかしな話ですが、お母様は本当に普通の人間だったのですよ?」
姫将軍は渇いた笑いをこぼす。
「ただ、歌はお上手だったそうですね。お父様は随分とお気に入りだったそうです」
「上手だったそう……?」
「ええ」
平次の疑念にお綱はすぐに応じる。
「お母様は、わたくしに対しては……一度として歌って下さいませんでしたから。女児ですもの、本来でしたら跡継ぎ足り得ません。価値のない子供だと思ったのではないでしょうか」
彼女のそんな言葉に、平次は胸が擦り潰されるような思いがする。
「男の子を授かろうとやっきになって、わたくしを蔑ろにしたお母様。その人が期せずして、政治の都合から『将軍の母』となったのです。見向きもしなかった子供が将軍になって、いったいどのような気持ちになったのでしょうね」
ただ、とお綱ははっきりとした声で言った。
「いずれにせよ、わたくしは拒絶しました。後ろ盾であったお父様を喪い、甘い声ですり寄ってきたお母様のことを」
「……」
「平次様、どうか蔑んで下さいませ。わたくしもまた、俗人でしかなかったのです」
でもそれは、仕方のないことじゃないか。
平次はそう口走ろうとしたが、できなかった。
お綱が当時のことを、強く後悔していると悟ったからだ。
「余裕がありませんでした。わたくしの人生が、幕府の礎として潰されることが分かったあの時には……」
少女は独白を続ける。
まるで教会で懺悔をするかのように。
「ですから、言ってしまったのです。『金なら都合をつけます。しかし絶対に、あなたが愛さなかったわたくしは、あなたを愛することなどない』と」
「それで……」
「はい」
お綱は平次を抱く力を弱めながら言う。
「わたくしはそれっきり、お母様と会うことはありませんでした。お父様を喪って、わたくしから拒絶されて、求めていた権力をすべて失った彼女は……まるで抜け殻になったかのように、一年ほどでこの世を去ったのです」
「そう、だったんですか……」
平次は姫将軍の胸元から離れ、ゆっくりと向き直った。
お綱の顔は、悔恨のせいか――くしゃりと歪んでいる。
そんな姫将軍を今度は逆に抱きしめながら、平次は敢えて聞いた。
「お綱さんは、そのことを後悔しているんですか?」
「……はい」
お綱は小さくうなずいた。
当然のことだよな、と平次は思う。
でなければ、『わたくしはまた、人の命を奪いかけたのです』というセリフが飛び出してくるはずがないのだから。
「そうですか」
ならば、平次のすることはただひとつ。
お綱が過去と向かい合い、現実を見据えて、未来へ歩み出すことを見守るだけ。
一度抱いた後悔は、一生付いて回る。打ち消すことはできない。
ならばそれをバネにして、これから先、同じような公開をしないようにすればいいだけなのだ。
「じゃあお綱さんが母親になった時、同じ思いを子供にさせなければいいだけだと思います」
「……えっ?」
平次の言葉に、お綱は驚きを露わにする。
そして目をまん丸に見開きながら、彼女は伺うように問い掛けるのだった。
「わたくしのことを、軽蔑……されないのですか?」
「どうして?」
「だって、わたくしは……」
お綱は言い淀み、悲しみと恐怖が混在する評定を浮かべる。
そんな彼女の後頭部を優しく撫でながら、平次は言った。
「安心して下さい、俺はお綱さんの側を離れたりはしませんから」
「……あっ」
途端、くたっと全身の強張りが抜けて弛緩する姫将軍。
そんな彼女の耳元でささやくように、平次は言った。
「お綱さんだけが悪いという話でもないですし……」
「……」
「もし俺が、お綱さんのような状況に置かれていたらどうだったんだろう……そうかんがえたら軽蔑なんて絶対にできない、するはずもないじゃないですか」
「平次様……」
姫将軍は平次の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き返す。
「ありがとうございます、そう仰っていただけると……救われます」
そして彼女は、しっとりとした――それでいて熱のこもった声で言うのだった。
「わたくし、絶対に、良い母親になってみせますから……」
「……えっ?」
予想だにしなかった返答に、平次は目をまん丸にして応じる。
しかしお綱は、もはや確定事項か何かのような調子でささやくのだった。
「ずっと、わたくしの側にいてくださいね……」
「え、あ、はい……」
思わず同様の声を上げた平次を強く強く抱き締めながら、姫将軍は言う。
「そのためにも、ご無事で……。わたくしは信じます、平次様が忍びなどに後れを取ることなどないと」
そしてお綱は、そのままぐっと身体を強く押しつけて――平次を畳の上に押し倒す。
もはや抗うスキも与えず、少女は男の首の両脇に手をついて、馬乗りになりながら言うのだった。
「わたくし、子供は6人ほど欲しいと思っているのですけれど……いかがでしょう?」




