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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第42話 桜田邸の夜。



 平次とお綱が桜田邸に戻ったのは、日も落ちかける申の刻(午後四時頃)だった。

 将軍が失踪したことで大騒ぎになっているのではないか。

 平次はそのように危惧していたのだが、驚いたことに、江戸城の誰もがお綱の脱走に気付いていなかった。


 桜田邸の会津藩士たちは、お綱が本丸へ帰還したと勘違いしている。

 そして本丸の侍女たちは、将軍が襲撃者の目をくらますために男装して桜田邸に戻ったのだと思っていた訳だ。


 その結果、どうなったのかは言うまでもない。

 平次が男装の将軍を連れて帰ったことで、そこでようやく、お綱の城外脱出が明らかになったのである。


(これって、もしかしたら本丸に行けば問題にすらならなかったんじゃ……)


 そう思ったものの、後の祭り。


 会津藩士たちはあわてて事態を正之に注進。

 彼らのなかには責任を感じて切腹を試みようとする者もおり、お綱はそれに対して全面的な禁止令を通達。

 一気に騒然としはじめた城の状況を前に、平次とお綱は、事態の推移をただただ見守るほかになくなってしまうのだった。 


「それにしても、いささか呆れ果てましたな。上様と平次の件はともかく、城内の伝達が行えていない実情が露呈したのですからな」


 酉の刻(午後六時頃)。

 夕餉の配膳を待つ間、正之は若者ふたりに対してため息をこぼす。


「此度の殺傷事件も、起きるべくして起きたのでしょう。上様の行動ひとつ、まともに把握できておらぬのだ……城に間者が入っても、対処することはままなるまい」


 そんな諦観を表情いっぱいに見せる会津中将を前にして、平次はすっかり恐縮していた。

 対し、お綱は完全に開き直っている。


「ですが、爺。問題が明らかになったのだから、良かったではありませんか」


 もはや彼女は『江戸城のシステム上の欠陥を明らかにした』という態度である。

 こうなると、正之は何も言い返せない。


「将軍の座を譲るわたくしですが、次代の政権では是非とも改善して頂きたいものです」


 明らかに、以前のような受け身一辺倒のお綱ではない。

 平次は一瞬、正之が気分を害するのではないかと不安を覚えた。

 しかしこの老人は、姪の態度を好意的に受け取っている気配がうかがえる。


「おそれいりましてございます」


 正之は頭を下げた。


「上様もずいぶんと(さか)しくなられて……平次の入れ知恵ですかな?」

「違います」


 男装したままのお綱ははっきりと言う。


「座して死ぬよりは、足掻いて死んだ方がましだと思ったのです」

「ほう……しかし随分な変わりようだと思いますが。何かありましたかな?」

「はい、叱って頂いたのが良かったのかもしれません」


 貴重な体験でした、と姫将軍は続けた。


「今まで頭のなかに漂っていた暗雲が、すっかり消え去ってしまったかのよう。お義母(かあ)……いえ、平次様のお母様には感謝しなくてはなりません」


 正之は髭を撫でながら言った。


「上様を叱った……ふむ、聞かなかったことに致しましょう」

「あっ」


 しまった、という表情を見せるお綱に彼は告げる。


(まつりごと)の世界においては、僅かな失言が命取りとなります。お気をつけなさいますように」


 そのように釘を刺してから、正之はゆったりとした口調で訊いた。


「しかし、平次の実家ともなれば本舩町。随分と歩かれましたな」

「ええ、足もそれなりに張っております」

「普段、さほど運動されませんからな」

「そうさせているのは――いえ、よします」


 誘導に気付いたのだろう、お綱は言葉を止める。

 このまま話を続けても口論になるだろう。


 そしてそういった誘導を、正之は意図的に行っていた。

 きっと教訓として、会話運びの危険性を――身をもって教えたかったのだろう。

 数多の政敵と政治戦を繰り広げてきた正之が、政治的実権のないお綱に対してそれを行ったことは、非常に大きな意味がある。


「して、いったい何を目的に本舩町まで?」

「……亀丸屋の話を、平次の両親に聞きに参ったのです」

「ほう」


 正之は重ねて問う。


「何故ですかな? 亀丸屋は奉行所も調べております。上様が行かぬとも良かったのではありませんか?」

「そうは思いません。まだ証拠らしい証拠が出ていないのですから」

「なるほど。そう言われれば、儂も押し黙るしかありませんな。この場合は『臣共からの報告が芳しくないゆえ、余が動かざるを得なかった』と言えばよろしいでしょう。幕臣に危機感を与えることができますゆえ」


 そう告げてから、会津中将は言った。


「亀丸屋の主は、なかなかもって用心深い様子。奉行所に尻尾を掴ませないようですな。いくらか内膳の方がくみしやすいやもしれませぬ」

「そうなのですね……。本舩町にいる平次のお母様も、ほとんど亀丸屋のことを知らない様でした。いくらか気になる情報はありましたが……」

「気になる情報?」


 正之が眉をひそめつつ訊く。

 お綱はこくりとうなずいてから、そっと言った。


「はい。亀丸屋の裏店屋敷からは、炊事の物とは思えない煙が、もくもくと上がり続けているのだとか」

「煙」

「そうです、煙」

「いったい何を作っているのやら。やはり、平次を襲うであろう忍びの者から情報を抜くしかありませんな」


 正之は真顔で告げる。


「本件については、幕府の全面的な協力を取り付けることができましてな。忍びを雇い入れ、改めて公儀隠密の備えを整えることと相成りました」

「では……」

「御察しの通りです」


 表情を明るくしたお綱に、会津中将はうなずいた。


「これより公儀隠密を使い、不届き者を捕縛いたしましょう。しかしそれには、やはり、平次の協力が必要不可欠です。これから平次には、江戸の町中にしばしば繰り出してもらいましょう」

「は……?」


 うなずきながらも疑念の声を上げた平次。

 そして不安げな顔をするお綱に対し、正之は淡々と言う。


「その際には、平次を襲わせないように無数の忍びで周りを守らせましょう。手を出そうにも出せない状態を意図的に演出し、6日目をめどに警備を緩める日を作る」

「手を出すにはそこしかないと、敵に思わせるわけですね」

「しかし、襲ってきた相手にどのように対処するのです?」


 お綱の問いに、正之は微苦笑を浮かべて返した。


「平次の腕を信用する他にありますまい。無論、隠密を数名は同行させますが、しばらくは敵方の忍びと対峙することになりましょう」

「はっ、反対です……! 平次様が、死んでしまうかもしれないではないですか……!」

「いえ、大丈夫です。わかりました、保科様」


 たちまち「平次様!」とお綱の非難の声が飛ぶ。

 だが平次は、その声に屈することなくはっきりとした声で言った。


「それしか、手はないでしょう。危険な道を通らなければ、事態はまるで変わらない。ずっと、命を狙われ続けるしかないんです」

「ですが、ですけれど、でも……」


 尚も不安そうなお綱に、平次は微笑んだ。


「どの道、上様のお側にこれから居続けるためにも避けられません。それとも、俺の言うことは信用できませんか?」

「……ずるい」


 姫将軍は寂しげに笑いながら、泣きそうな声で言った。


「そんなことを言われたら……わたし、認めるしか、ないじゃありませんか……」

「では、平次よ」


 正之は深みのある声で告げる。


「しばらくは、生餌(いきえ)となってもらうぞ」

「はい」


 平次がうなずくと、事前に打ち合わせていたかのように――(ふすま)越しに入室伺いの声が掛かる。

 どうやら夕餉が運ばれてきたらしい。

 正之は雰囲気をガラリと変えて、くつろいだ調子で平次とお綱に言った。


「では、夕餉といたしましょう。上様にとっては久方ぶりの、平次以外の者が作った食事となりましょうが」





 平次の目の前には、見ているだけで楽しくなる色とりどりの料理が並んでいる。

 桜田邸にいる料理人が作った、会津藩最高級の御膳だ。


 平次にしてみれば、江戸時代で生まれてはじめて食べる最高級の食事であり――同時代のトップシェフが将軍相手に供するディナーを、はじめて見たことになる。


「これは……すごいですね」

「わかるかね」


 次々と運ばれてくる膳。

 それを前に感嘆する平次に、正之は鷹揚(おうよう)に笑った。


「儂ももう老人、上様に奉公するにはしっかりしたものを食わねばならんのでな。藩で最も腕の立つ者をこの屋敷に留めておるのだ」


 おぬしも久々に、他人の作った物を食べてみるがいい。

 会津中将はそう言ってから、申し訳なさそうに付け加えた。


「本当であれば、我が料理人を引き合わせたいのだが……これがなかなか内気でな。厨房に引きこもって出てこないのだ」

「そうでしたか……」


 とはいえ、生きていればいずれお会いできるでしょう。

 平次がそう言うと、正之は満足そうに笑った。

 それからお綱に言った。


「上様も、今宵は平次の料理ではございませんが……我慢していただきますぞ」


 姫将軍は苦笑してうなずく。


「そのくらい、我慢できます。我慢できずにどうしますか」


 そして申し訳なさそうに、ひとことだけ付け加えた。


「平次様も、お休みがなければなりませんもの……」


 そういえば、と平次は思う。

 ここまでずっと、休みなくお綱のために料理をつくり、診察をしてきたのだ。

 休みらしい休みを、思えば取ったことがない。


(それに気付かないくらい、充実してたんだなぁ……)


 思わずそんなため息がもれる。


 現代日本であれば、労働時間的にはブラック企業も真っ青と言っていいのかもしれない。

 もしかすると『やりがい搾取』と言われるのかもしれない。


 だが、実務的にはそこまで大変なわけでもないし、おそらく家の仕事を全般的にこなす専業主婦の方が大変だろう。

 そういった意味において、やや特殊な労働のあり方なのかもしれなかった。


「それでは、上様、お召し上がりくださいますよう。会津藩の誇る『桜田御膳』でございますぞ」


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