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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第41話 母親から見た亀丸屋。



 年不相応の若々しい外見をした、平次の母親であるお満。

 診療所の前を掃除していた彼女は、唐突な息子の帰宅に驚きの表情を見せた。

 しかし平次の腕にお綱が絡みついているのを見て、たちまち不審そうな目を見せる。


 お満は医療従事者だ。重軽傷、老若男女の肉体を見てきた経験がある。

 そのため、お綱が男装をしている女性だとすぐに見抜いてしまったのだった。


「あまり、人目に付かない方が良いかもしれないわね」


 何かやらかしたのではないかと、親として心配になったのだろう。

 彼女はすぐにふたりを診療所のなかに招き入れ、扉を閉めた。


 なかに患者は誰もいない。

 二日前、産褥熱で担ぎ込まれた通り三軒目のお船さんが亡くなったからだと、そのようにお満は説明した。

 診療所では人が亡くなると穢れを恐れ、一歩も動けない重症患者を除き十日ほどの忌み日を置くことになっている。


「さぁさ、お入りなさいませ」


 お満は箒を土間に立て掛けてから、平次とお綱を診療所の奥へと案内した。

 そこは平次の父親の私室だった。

 診療所兼自宅のこの物件では、通りから見て最も奥まったところに位置する。

 とどのつまり、外の喧噪(けんそう)から最も遠ざかっている部屋だということでもあった。


 この部屋には数多くの書籍が平積みにされており、さながら書店のような(おもむき)がある。


 ちなみに平次は、この部屋には数えるほどしか入ったことがない。

 入ると怒られるからだったが、それ以上にこの部屋は両親の『愛の巣』でもある。

 父親がいるときは母親も大概一緒で、いつも絡み合っていた。さながら交尾中のなめくじのように。


 そんな生々しい部屋なので、平次は自ら望んで入ったことがなかったのだ。


「安心なさい。あの人はいま、診察に行っているわ。だから帰りは遅いはずよ」


 挙動不審な息子にお満は苦笑した。

 平次は父親に怒られることを恐れている――そう思ったのだろう。

 彼女にとって、子供はいつまで経っても子供なのだ。


「それにしても平次さん、ずいぶんとお久しぶりだこと。(ふみ)も寄越さないから心配していたんですよ」

「あー、いや、忙しくてなかなか……」


 お綱の前で母親から小言を受けるのはなんとも気恥ずかしい。

 これはきっと、何歳になっても同じなのだろう。そんな予感があった。


「まぁいいですけど。それで、お勤めはしっかりとしているのかしら?」

「それはもう。ただ、至らないところも多いと自覚しています。日々勉強といった感じで」

「そうでしょうね」


 お満は頷いて、それから諭すように言う。


「平次さんはあの公方様にお仕えしているのです。力と技を磨き続けなければ、すぐにお役目を解かれてしまうでしょう。しっかりと励むのですよ」


 ところで、と母親は平次に尋ねる。


「そちらの女性は、いったいどなたなのかしら?」


 やはり笠を被ったままだと、女性だと分かっても個人まで特定することは難しいようだ。

 平次はそれを明確に悟り、苦笑しながら応じた。


「母さんも知っている方です」

「あらあら。私が知っている方? それも変装しなければならないほどの?」


 そうなると、いつかのお姫様かしら。

 お満はそう言って、息子からの返答を待つ。


「はい、ご無沙汰しております。以前はお世話になりました」


 だが、応答したのは平次ではなくお綱本人だった。

 笠を外し、その顔を露わにする。腰を折り、頭を下げる。

 そんな少女にお満も同じく礼の姿勢を取った。 


「お姫様、お久しぶりでございます。その後、お体の調子はいかがでしょうか?」

「良くなっています、明らかに」


 姫将軍は頭を上げて微笑んだ。


「平次様は本当に腕が良くて、それに真心を込めて毎日よくして下さっています。体調が良くなるのも当然でした」

「……毎日、ですか?」


 お満はその綺麗な瞳をぱちくりさせて、困惑気味に尋ねる。


「ですが、平次さんは公方様のお側仕えをしていると聞いています。それなのに他の方の診察を行っているというのは……」

「あー、母さん」


 そうだ、そうなのだ。

 彼女は以前の平次と同じで、徳川将軍が女性だとは露ほども思っていなかったし――知らないのである。

 平次はためらいながら言った。


「分かるだろう? 俺は公方様のお側に仕えている。お綱さんは俺の世話を毎日受けている。つまりは、そういうこと(・・・・・・)なんだ」

「……ほぇっ」


 その応答を聞き、意味を理解した瞬間――お満は気を失いかけたようだ。

 ぐらりと姿勢が崩れ、仰向けに倒れそうになる。


 だがしかし、彼女の精神は首の皮一枚でなんとか繋ぎ止められていた。

 医療従事者として鍛えてきた肝っ玉のおかげなのだろう。


「こっ、これは大変なご無礼を……!」


 激しく(まばた)きした後、慌てて平伏するお満。

 しかしその行動を、姫将軍は急ぎ止めさせた。


「どうか頭をお上げ下さい。今日、わたくしは忍びで参りました。将軍として扱われることは望みません」


 お綱はお満の側に寄ると、そっと彼女の背中に手を添える。

 そしておそるおそるといった態で顔を上げた平次の母親に、微笑みながら言った。


「なにしろ、平次様のお母様となれば……わたくしの将来のお母様でもあります。そのような御方に畏まられるようなことがあったら……」 

「将来の、母親……?」


 お満がその言葉を完全に理解するには、やはり、しばらくの時間が必要になる。

 そして彼女の頭が現実を受け止めた時――


「きゅう」


 ――とうとう卒倒してしまうのだった。





「平次さん、少しお話ししてもよろしいかしら?」


 意識を取り戻したお満は、杓子(しゃくし)で水を一口飲んだ。

 それから無感動の声で、息子に尋ねる。


「どういうことなのか、しっかりと説明してもらえると嬉しいのだけれど」

「説明も何も、これがすべてだよ……母さん」


 平次は疲れた顔で言った。否、事実として疲れている。

 交際相手を親に紹介するのは、かなり体力を使う行為だった。

 しかも付き合うまでの敬意を語るとなれば、その精神的負担はなかなか酷いものがある。


 紹介する相手が、単なる町女であれば何も問題が無かったのだろう。

 だが、平次の相手は実権がないとはいえ徳川将軍だ。

 下手なことを言う訳にも行かず、しかし詳しすぎることを言う訳にも行かず、慎重に言葉を選ばなければならない。


「俺たちが助けたお姫様は、実は公方様だったんだ。俺はその引き立てて城に登って、いままで仕事をしてきた訳」

「……」


 お満は盛大にため息をついた。

 そしてお綱を見て尋ねる。先ほどのかしこまった雰囲気が、まるで嘘のように。


「貴女様に平次さんをお任せして、本当に大丈夫なのですか?」

「それは……」


 お綱はその問い掛けに、虚を突かれたようだった。


「平次さんにただ身を委ねようとして、楽に生きようとして、よりかかっているだけではないのですか?」


 それは口調からして、武家の最高権力者に対する言葉としては――いささか慇懃無礼(いんぎんぶれい)に過ぎる。

 平次は慌てて「母さん」と制止の声を入れたが、お満は息子を一喝した。


「平次さん、引っ込んでなさい! 私はね、公方様とお話ししてるんだよっ!」


 それは江戸城では絶対に見たり聞いたりすることができない、気迫に満ちた女性の声だ。

 控えめで自分の意思を出し過ぎないことが、武家や公家などの上流階級女性のモラルとされている。

 しかし江戸の町民たちは、男のみならず女も――相手が目上であろうがなんであろうが、自分が信じたことを直言することを美徳としていた。

 良くも悪くも真っ正直であり、納得できなければ批判も辞さない傾向にある。


「公方様。平次さんはね、私がお腹を痛めて産んだ……それはそれは、大切な息子なんですよ」

「……はい」

「幸いにして、息子はどこに出しても恥ずかしくない立派な男に育ってくれました。だから言わせて貰いますけど」


 お満は背筋を伸ばし、腹の底から響く力のある声で訊いた。


「本当に平次さんをお預けしていいのか、私にはわからなくなってきました。私はね、公方様はそれはもう頼りがいのある殿方だと思っていたのですよ。ですが現実は、池で溺れて死にかけるようなか弱いおなごじゃないですか」

「……」

「公方様となれば、色んな面倒事があるんでしょう。ですけれど、そういった面倒事からちゃんと平次を守ってくれますか? 私のかわいいひとり息子が、無駄な政争に巻き込まれて命を落とすなんてことがあったら目も当てられませんからね」


 もう既に、巻き込まれてます――とは言えない雰囲気だ。

 おそるおそるお綱を見れば、彼女は沈痛の面持ちをしていた。

 うつむき気味で、胸元をぎゅっと握りしめている。

 

「約束してくれますか? 平次さんを守り、きちんととその夢の実現のために協力して下さると」


 お綱はその言葉に、ハッと我にかえされたようだ。

 息をのみ、静止し、やがてゆっくりと吐き出す。

 やがて平次を見て、それからお満を見て、はっきりとした声で言い切った。


「……約束いたします、わたくしが平次様と添い遂げるということを」

「それだけですか」


 やや不満げなお満の問い掛けに、お綱は頷く。


「平次様の夢はわたくしの夢なのです。添い遂げるという覚悟は、その夢に向かって歩む覚悟でもあります」

「……そうですか」


 お綱の言葉を聞いた後、しばらくの時間を置いて――お満は苦笑した。

 そしてお綱に対して、深々と頭を下げる。


「どうか平次さんのこと、よろしくお願いいたします」

「はい。わたくしも、改めて覚悟が決まった思いがいたします」


 そんなやりとりを横で見ている平次は、ただただ笑うしかない。

 こうやって人生の外堀は、着実に埋められていくのだ。さながら徳川家に攻略された、大坂城のように。


「時にお義母(かあ)様」

「なんでございましょう」

「本日参りました本題は他にあります。幾らか訊きたいことがあるのです」

「公方様が……ですか。なんでございましょう」


 お綱はもう、完全にお満を義母扱いしている。

 そして平次の母親である彼女も、それを平然と受け止めていた。

 女性同士なら了解の取り付けは早いはず――そう思う平次だったが、口を挟む機会を与えられないまま女同士の会話が続いていく。

 

「単刀直入に訊きます。お義母様は、駿河町にある亀丸屋のことを何かご存じではないですか? 些細(ささい)なことでもよいのです」

「駿河町の亀丸屋、ですか……」


 お満は首をかしげながら答えた。


「あの明暦の大火の後、いきなり進出してきた商家です。店主さんのことは良く存じ上げておりませんね。お忙しいのか、近所付き合いもさほどないようです」

「そうですか……」


 お綱ががっかりしたように肩を落とすが、お満はそのまま言葉を続ける。


「なにしろ、あの大火の被害を受けていない人でもありますから。新顔の事は皆、あまり分からないのです」

「亀丸屋が新顔、ですか?」

「ええ。火災の被害に遭った方は、旦那か平次さんが対応に当たりましたから。店主さんのことを存じ上げないということは、そういう意味でもあります」


 お満はそう言って、姫将軍を見た。


「いま亀丸屋のある土地は、もともと別のお店があったところです。関係者が亡くなった隙を狙って、いわば火事場泥棒的に居座っているわけですから、あまり地元の評判は良くありません」


 とはいえお城を相手にする卸売商ですから、地元の評判は業績にあまり関わりないようですが――そこまで口にして、お満は逆に訊いた。


「公方様はご存じないのですか?」

「母さん」


 ようやく会話に入り込む機会を得て、平次は発言する。


「江戸城にどれくらいの人がいると思ってるのさ。全部が全部を把握できるような規模じゃないんだぞ、江戸幕府って」

「あらそうなの」


 ごめんなさいね、お満は苦笑した。

 いえいえお義母様、お綱が応じる。


「本当でしたら言い訳せず、すべてを知っておくべきだったのです。ですがわたくしは、自分の殻に閉じこもってばかりで……周りをしっかり見ようとしませんでしたから」


 それは、これまでのお綱からすれば――考えられないような言葉だった。

 しかし彼女は踏み出しているのだ。

 平次の命の危機に触発(しょくはつ)されて、ふたりの夢を実現するための道を。


「そのためにも、亀丸屋のことを知らなければ」


 お綱の言葉で、お満は悟ったようだった。

 駿河町の商店が、なにやらきな臭い存在であるということを。

 あるいは自分の息子と姫将軍にとって、どうにかしないといけない相手だということを。


「……最近、奉行所の方々が亀丸屋を張っているって噂になったのは、そういうことだったのね」


 お満は納得したような顔で言う。


「あのお店、雨の日も冬の日も、裏店屋敷からもくもく煙を立ち昇らせているって噂よ。炊事の煙じゃなさそうだって訊きましたけど、何でしょうね。家の中で毎日たき火でもしているのかしら」

「たき火……?」


 その言葉を聞いた途端、平次の頭のなかで、ある発言がよみがえっている。

 楓と呼ばれていたあの襲撃者が去り際に放った、あの言葉だ。


『誰にでも、逆らえない相手っているの。あたしにとって、それがこの仕事の依頼主。拒絶したが最後、どこまでも追いかけられて、(ヤク)漬けにされて、ボロ雑巾になるまで犯されるのがオチね』


 そう、黒幕は薬物常習者か、あるいは薬物を強要するような男なのだ。


(いやいや、そんな馬鹿な……)


 平次は頭の中に浮かんだ突拍子もない発想を即座に打ち消した。

 江戸の中心部である日本橋。

 その界隈で、まさか十九世紀中国の阿片(アヘン)(くつ)のようなものができあがっているはずがないじゃないかと。


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