第40話 日本橋の人海にて。
午後の江戸は活気に満ちている。
無数の人々が奏でる足音、そして話し声のアンサンブル。
江戸の町では話し声が絶えることはない。
なにしろ江戸っ子は噂好きで、何よりお喋りだからだ。
しかし、噂話に敏感な彼らでも知らないことは多くある。
そのひとつが、今日発生した平次への襲撃事件だ。
のみならず、西山殺害事件すら知らないらしい。
幕府の権力者によって、情報が遮断されているせいだった。
緊張に満ちた城内。普段通りの城下町。
同じ世界でありながら、もはや異世界のように雰囲気が異なる両極。
その緊張した側であるところの、江戸城桜田門の下。
そこには例の長庖丁を引っ提げて、今朝方、襲撃を受けたばかりの平次が突っ立っている。
お綱を本丸へ送り届けた後、とんぼ返りで戻ってきてから――ずっと、そうしていた。
『それにしても、なんで公方様は本丸さ戻っていっちまったんだべか』
『んだんだ、今宵は桜田邸で夕食さ召し上がるって話だったんだがなぁ』
『そんこともよく分かんねぇけど、それ以上に分かんねぇのは御膳医様の図太ぇ精神よ』
『んだ。襲われたばっかだっつーのに、あんな庖丁ひとつ下げただけで無防備に突っ立ってんだもんな』
会津藩の藩士たちは、平時の行動に戸惑いつつも遠巻きで眺めているだけだ。
どう行動していいか分からないのかもしれない。
何しろ平次は会津藩の人間ではなく、徳川将軍直属である。
そのため『桜田邸で大人しくしてろ』という強制もできないのだった。
『おい、誰か来たぞ』
『男か?』
『やけに線の細ぇ男だべなぁ』
かくして彼らが戸惑っているうちに、ひとりの人物が近づいてくる。
笠を目深く被って顔を隠した、若武者風の装いだ。
男物の綺麗な着物を身にまとい、腰には大小の刀を帯びていた。
「……それでは、行きましょうか」
平次の呼びかけに若武者風の人物は頷く。
そして御膳医の半歩後ろを歩きはじめるのだった。
『おい、見ろ。御膳医様、いまさっき命狙われたばっかりだっつーのに、男の恋人さ連れて行っちまっただ』
『すっげーな、江戸っ子って奴ぁ。未来に生きてて、おらには何考えてっかまるで分かんねぇ』
『命が惜しくねぇんだろうか。まだひとり襲撃犯を取り逃がしとるんだべ?』
『きっと、襲われたばかりの今が実は一番安全だ……と考えてんじゃねぇかなぁ』
『相手が引いてる今が好機、ってことか?』
『んだんだ。いずれにせよ、おらにはよく分かんねぇなぁ』
会津藩士たちの言葉を背中で受けつつ、平次はさらに進んで場外へと出る。
門番たちの目が届かなくなったところにまで行くと、若武者風の人物がスッと手を前に出す。
そして平次の手に己の指を絡め、ぴっとりと寄り添ってくるのだった。
「お綱さん、やはり城に戻るべきです。いつ何が起こるか分かったものでは……」
「ごめんなさい、平次様。ですが、これは将軍としての『お願い』です。どうかお付き合いを願います」
その言葉を聞きながら、平次はどうしてこうなったのかを思い出している。
熱烈に唇を求められたものの、まさか桜田邸で事に至るわけにもいかない。
なんとかお綱を引き剥がして自重をお願いすると――その代替案として提示されたのが、江戸城外への散策だったというわけだ。
ちなみに散策とはあくまでも建前でしかなく、しっかりとした理由もある。
というのも、行き先が平次の家なのだ。
そこはすなわち本舩町であり、亀丸屋のある駿河町と同じく日本橋界隈に位置する。
そのため、平次の両親ならば――診療の都合上、亀丸屋の事情を持っていてもおかしくないだろう、というのがお綱の言だった。
だがそれ以上に、平次の両親に挨拶がしたいのだろう。
なにしろ彼女は、もう、平次のお嫁さんになるつもりでいるのだから。
「とはいえ、外で引っ付くのはあまり……」
「大丈夫です。城下町でも、殿方同士で恋人になったりしているのでしょう? 大騒ぎをしなければ目立つことはありませんし……」
それに、まさか征夷大将軍が外を出歩いているとは思わないでしょう。
お綱は傘の下で満面の笑みを浮かべて言った。
「ですが、今頃は城も大騒ぎでしょうね……わたくしがいなくなって」
「きっとそうでしょう」
平次は真顔で頷いた。
厳戒態勢にある江戸城では、将軍であるお綱は言うまでもなく重大な警護対象だ。
しかし今日、お綱は桜田邸に留まり続けて夕餉を取ることになっている。
そのため幕閣の面々も、将軍が桜田邸の会津藩士たちに守られていると思っていたことだろう。
要するにお綱は、そのスキを突いたわけだ。
夜になるまで戻って来るはずのない将軍。その帰還に驚きあわてる侍女たちを尻目に手早く男装。
平次に桜田門で待つように『お願い』した彼女は、まさに望みどおりに動いて現在へと至っている。
「ですからお戻りになられた方が……」
「嫌です」
お綱は喜色一杯に、平次の言葉を打ち消した。
「このまま戻ったところで、爺から大目玉を食らうだけです。それなら、何か重要な情報でも手土産にしなければ割に合いません」
「まぁ、そうかもしれませんが……」
「ええ、そうなのです。大久保内膳が疑わしいのであれば、亀丸屋も調べねばなりません。その時、広く江戸の方々と面識のある平次様のご両親であれば、平次様が知らない情報も握っている可能性があります」
それに、とお綱は幸福そうに笑う。
「義理とはいえ、わたくしのお義父様とお義母様になるお方なのですから、義娘としてしっかり挨拶しなければなりません」
そんなことを宣う姫将軍を見ていると、これ以上野暮なことは言えなくなってしまう。
なにしろそこにあるのは、憑き物が落ちたような笑顔なのだから。
(襲撃者は、今日はもう襲ってくることができないはずだ。請負である以上、依頼者に失敗を報告した上で……次の襲撃計画を練らなくてはならないだろうし)
それでも、何かあればお綱の楯になれるのは自分しかいない。
平次は覚悟を決めながら、彼女を連れて日本橋へと進む。
「それにしても、人が大勢いますね」
雑踏の海。江戸最大の交通量を誇る日本橋界隈は、そう形容して然るべき混雑具合だった。
スリに気を付けながら、平次はお綱を離さないよう手に力を込める。
「平次様……」
お綱も強く男の手を握り締め、これ以上ない程に密着していく。
「絶対に、離さないで下さいね」
人海を進むさなか、そんな言葉が聞こえた気がする。
無意識のうちに、平次は応じていた。
「もう離せませんよ、色んな意味で」
平次がそうささやくと、姫将軍がさらに強く身体を密着させてくる。
そしてふたりは日本橋を抜け、平次の実家へと向かった。
その視界には、診療所の前を箒で掃き清めている母親の姿が見えていた。




