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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第39話 お綱の願い事。



 様々な意味で緊張感に満ちた桜田邸の会合。

 それはしばらくの話し合いの後、無事に閉会を迎えた。


 取り決められたことは、やがて襲撃をかけてくるであろう女忍の捕縛。

 要するに、平次をおとりにして黒幕の存在を吐かせるというものだ。


 だがその作戦内容は、お綱からすれば不満の極みらしい。

 すっかりむくれてしまった彼女の機嫌を取るのは、実に大変な作業だった。

 今では機嫌もなおっているが、なだめるのには相当な時間を要することになる。


 ちなみにその仕事は、言うまでもなく平次に回されていた。

 正之と内藤は会合後、桜田屋敷を早々に辞している。

 襲撃者の死体処理や、あるいは緘口令(かんこうれい)の徹底などを含めた事後処理を行わなければならないからだ。


 加えて、正之は幕閣の老人たちから協力を取り付ける必要がある。

 江戸城だけではなく、平次個人に対して幕府の人材を投下するとなれば――正之だけで決められるものではない。

 

(それにしても、これからどうするべきか……)


 まさか自分が暗殺対象になると思いもしなかった平次は、内心ではただただ呆然とするばかり。

 自分をおとりに女忍を捕まえる作戦も、正之が老人たちを説得できるかどうかにかかっている。

 もはや自分の手の届かないところで様々な事態が動いているのだ。

 

「平次様、少し仮眠をお取りになられた方がいいのではありませんか?」

「あ、いや……大丈夫です」

「大丈夫なはずがありません。命を狙われて、疲弊(ひへい)しないはずがないではありませんか」


 お綱はそう言いながら、平次の身体をさわさわとなで回している。

 非常にくすぐったい。

 だが彼女は本気で案じているようで、制止することはためらわれた。


「平次様に何かあったら、わたくし……」

「ああ、そんな顔をしないで下さい」


 平次は腕を伸ばし、お綱の頬に触れる。

 そして優しく撫でながら言った。


「俺はお綱さんに、悲しい顔をしてもらいたくない」

「平次様……」


 姫将軍は男の手を握りしめ、瞳を閉じてそっと頬ずりする。

 彼女はしばらくそうした後で、小さな声で告白した。


「わたくし、平次様が襲われたと聞いて……本当に、気が気ではありませんでした」

「うん」

「本当に、世界がひっくり返ってしまったのではないかと思ったほどです」


 徳川家の女当主はゆっくりと瞳を開く。


「わたくしは、愚かでした。あなたが襲われることなどあり得ない……あなたのお友達が害されたにも関わらず、いつの間にかそう思ってしまっていたようです。」


 そう言いながら、お綱はそっと平次の手を両手で握りしめた。

 そして、はっきりとした声で言う。


「わたくしはもう、あなたのいない世界など考えられません。あなたさえいればいい。他には何もいらないのです」


 重いセリフだった。

 しかし恋人から聞きたい言葉の筆頭格であることに違いはない。

 

「お綱さん……」

「ですが、そのようなことを望んではいけないのでしょうね」


 お綱は寂しそうに笑う。


「平次様の夢は、大衆食堂を開くこと。あなたの目はわたくしだけでなく、広く衆民に開かれています」


 わたくしだけを見て下さいと、大それたことは言えません。

 彼女はそう言って、言葉を続けた。


「そして、平次様の夢を叶えることは……わたくしの願いでもあります。そのためでしたら、わたくしはなんだって……」

「お綱さん、少し気になったんですが」

「はい、何でしょう」


 平次はお綱を正視して尋ねる。


「俺の夢は大衆食堂を開くこと、それはもうご存じだと思います」

「はい」

「だけど、俺はお綱さんのことを知らない。夢のことを知らないんです」


 途端、お綱の表情が変わった。

 真顔になり、次いでぽかんとした表情になる。


「わたくしの、夢……?」

「そうです。俺の夢の手伝いをしてくれるとお綱さんは言いましたけど、でも、俺はあなたの抱いている夢を聞いたことがないんです」


 平次がそう問い掛けると、彼女はたちどころに困惑した雰囲気を醸し出す。


「あ……別に言いづらいことであれば良いんです、興味単位の話だから」

「いえ、あの、その……」


 お綱は途端に言葉に詰まりはじめた。

 平次の心の中に、嫌な予感が走る。


「わかりません、わかりません……」


 お綱はうわごとのように、何十回もその言葉を繰り返す。

 そして最後に飛び出してきたのは、「ごめんなさい」という謝罪の言葉だった。

 まるで父親に叱られた女児のように、すっかり萎縮(いしゅく)してしまった少女。

 平次はそんな姫将軍を前に、はっきりと言い切った。


「あやまらないでいい」


 お綱は気後れした様子で平次を見た。


「お綱さんは別に悪いことをしたわけじゃないだろう? あやまる必要なんてないんだ」

「……」

「それにあやまるとしたらお綱さんじゃない。夢を見ることを忘れさせた、幕閣の人たちだ」


 姫将軍はその言葉を受け、なにやら一生懸命に考えはじめる。

 やがて彼女は、救いを求めるように訊いた。


「少し、心の整理をさせて頂いてもよろしいでしょうか」

「ええ、もちろん」


 平次がそう言うと、お綱は平次の膝の上にぽすんと頭を乗せてくる。


「平次様」

「……どうしました?」

「人払いをしたままで、良かったです。会津の者たちは事情を知りませんから」


 お綱の表情は次第に和らぎはじめ、それに伴ってぽつぽつと言葉が零れだしてくる。


「ねぇ、平次様」

「どうしました?」

「わたくしのこと、面倒臭い女だと思いますか?」


 平次は応答した。

 彼女があまりにも大まじめに言うものだから、苦笑気味に。


「いや、特にはそう思いませんが」

「うそつき」


 お綱は頬をぷくっと膨らませる。

 そしてころんと転がると、平次の腹に顔を押しつけて、一気に息を吐き出した。

 まるで子供のような仕草に、思わず表情が緩んでしまう。


「うそはついていません。面倒臭いと思ったら、こうして一緒にいることもないでしょうし」

「でも、平次様はお優しいから……」

「相手のことを面倒臭いと思ったら、優しさも何も出ませんよ。俺はそこまで聖人になれません」


 そう言うと、お綱は平次を見上げてくる。

 彼女の真っ白な首筋に目を奪われるが、今はそんな場面ではないだろう。


「だから俺は、俺の夢である大衆食堂の手伝いをしてくれるとお綱さんが言ってくれた時、本当に嬉しかったんです。だからこそ、怖くなったのは……」

「平次様の夢にわたくしが従事することで、わたくし自身の夢を失するのではないか……ということでしょうか」

「その通りです」


 平次は思わず苦笑していた。

 やはりこの女性は、なんだかんだで頭の回転が速い。


「だから、お綱さんの夢が聞きたかったんです。ただそれだけで、他意はありません」


 そう言うと、お綱はその表情から一切の緊張を捨て去った。

 やがて大きく息を吐き出すと、そっと瞳を閉じる。


 しばらくの間、無言が続いた。

 きっとお綱は、過去の自分を探しに行っているのだろう。

 彼女が目を開いて話し出したのは、体感的に四半刻(約15分)経った頃合いだった。


「……わたくしの夢、やはり分かりませんでした」

「そうですか」

「はい。幕府の(いしずえ)となることが決まってから、そういった願いを抱くことは……無意識のうちに避けてきたようです」


 お綱は寂しげに笑う。

 それを見た瞬間、『ああこの顔だ』と平次は思う。

 (はかな)く舞い散る桜のようなこの表情に、平次は心臓を(わし)づかみにされるような感覚に陥るのだ。


「ですから、わたくしの見た夢は……幼い頃のものしかありません」

「なんだ、あるんじゃないですか」


 平次は胸の高鳴りを隠すように吐息をもらす。

 自分の心音を誤魔化すためなのか、表情筋が意図せず微笑を形作ったのが分かった。


「そうは言いますけれども、本当に幼い頃の、空疎(くうそ)な絵空事で……」

「夢はみんなそうですよ。俺の夢だって大概じゃないですか」

「うぅ……そうかもしれませんけれど……」


 お綱はそう言って言いよどむ。 

 どうやら彼女は、過去の想いを口に出して良いものか悪いものか、まじめに悩んでいるようだった。


「ですが、幼いときの夢は嘘偽りない純粋無垢なもの。それがお綱さんの願いだったというのなら、別に隠さなくてもいいのでは?」

「ですが、あー、うぅー」


 お綱は平次の膝の上で顔を覆い、(もだ)えはじめる。

 苦笑しながら手首を掴めば、特に抵抗もなくその覆いは外れた。

 じっとその美貌を見つめていると、恥ずかしくなったのか姫将軍の頬は朱に染まっていく。


「……あの、お笑いになりませんか?」

「笑うはずがないでしょう。人の夢を馬鹿にしてあざ笑うことは、絶対にしてはいけないことですから」


 平次の脳裏には、江戸時代に転生する前のことがよぎっている。

 勤め先の調理場で、大衆レストランを開きたいという夢を侮辱(ぶじょく)されたことを。

 だからこその発言でもあったが、お綱の応答はまさに予想外だった。

 

「その……さん、です」

「え? いまなんと?」

「ですから……あの、およめさん……です」


 お綱は恥じらい、平次の膝の上でじたばたしはじめる。

 そして男の腹に額を押しつけながら、もごもごと言葉を紡ぐ。


「素敵な殿方と巡り会って、その御方に迎えて頂いて、たくさん赤ちゃんを授かって……それで、いつまでも幸せに暮らすんです」

「……」

「えっ、あの、その、えっと……やはり変、でしょうか……」


 顔を埋めたまま、お綱は消え入るような声でささやく。

 ここは現代ではない。女性の選択肢など、そうは多くないのだ。

 江戸時代の女性の夢となれば、やはりそうなってしまうのだろう。


「いえ、変ではないかと」

「そう……ですか?」

「ええ、間違いなく。素敵な夢だと思います」

「本当ですか? よかったぁ……」


 相手の夢を否定してはならない。

 平次がお綱の発言をすべて肯定すると、彼女はむくりと身体を起こし――ぱっと飛びついてくる。


「平次様に否定されないかと、すこし……怖かったのです」


 姫将軍は自嘲するように言った


「わたくしは自分がいったい何者なのかも、よく分かっていないのかもしれません。自分の意思を表にほとんど出すことなく生きてきましたから」


 お綱は寂しげに笑う。


「満たして欲しくて仕方がなくて、そのくせ人生の夢や希望や目標など考えたことのない空っぽの女。それが、わたくしという人間なのです」

「それは、環境が環境だったからでしかない。これからはいくらでも隙間は埋めていけるはず。お綱さんの夢だって、きっとかないます」

「ほんとう、ですか?」


 お綱が途端、救われたような目で平次を見つめる。


「わたくしの夢が、本当に、叶うのですか? 平次様は、わたくしの夢を、認めてくださるのですか……?」

「ええ、お綱さんがしっかりと意志を持って、ご自分の考えを周囲に伝えるならば。お綱さんが俺を城に迎えた時のように」


 そこまで言ったところで、平次の視界は天井を向いていた。

 お綱に押し倒されたのだと分かった瞬間に、唇に熱い情熱を感じる。


「んん……っ!?」


 それが姫将軍による接吻だと気付くのと同時に、平次は理解した。

 自分の放った言葉の意味を。

 あるいはお綱の最初の夢を叶えるということが、現状において何を意味するのかについてを。


「平次様、平次様……! 嬉しい……あぁ、わたくしは本当に果報者でございます……!!」


 どうやら平次は、自らお綱との将来を――無意識のうちに決めに行ってしまったようだ。


「わたくしは平次様の妻となって、大衆食堂のお手伝いをして、たくさんあなたの子供を産み育てたい……! それがわたくしの夢、そうです、夢なのです……はっきりと理解できました……!!」


 歓喜の涙に顔を濡らされ、熱烈に唇を求められながら、平次はこのままでは不味いと直感していた。

 このままでは桜田邸の人々に、いろんな意味でばれてしまう。

 それだけはなんとしてでも避けたいところだった。


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