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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第37話 江戸城桜田邸での一幕。



 江戸城の内堀にある桜田門。

 日本史では『桜田門外の変』の舞台としても有名だろう。

 現代には外側の高麗(こうらい)門と、内側の渡櫓(わたりやぐら)門の二重構造のものが伝わっている。


 とはいえ、それは現代の話でしかない。

 平次たちの生きている万治2年(1659年)において、桜田門は明暦の大火で甚大な被害を受けている。

 桜田門は仮組として、とりあえずの体裁を整えているに過ぎなかった。


「おっ、お綱さん……そろそろ離して下さいませんかね」

「嫌です、ダメです、絶対に離しませんっ!」


 そして桜田門の内側にあるのが、保科家の上屋敷である。

 寛永10年までは鍛冶橋の屋敷が上屋敷だったが、今では桜田邸が江戸の本拠地になっていた。


 要するに、会津藩の江戸中枢がこの屋敷なのである。

 主人である正之の気質を反映しているのだろう。


 桜田邸の外観は、じつにどっしりとした(たたず)まい。

 いつもであれば厳かな雰囲気を(かも)し出しているのだが、今日はずいぶん様子が異なっていた。


「しかし、俺が行きたいのは(かわや)で……このままじゃ漏れます、大小が」

「……!? だっ、ダメですダメです! なおさらダメです! 絶対に行かせませんっ!」

「はぁっ!?なんでですか!?」

「厠ほど人目に付きづらい場所はありませんっ! 戦国乱世では、しばしば暗殺が行われたと聞いております!」


 お綱と平次の声が飛び交う桜田邸は、ずいぶんと賑やかだ。

 先ほどからずっと、姫将軍はご乱心状態が続いている。

 平次が帯刀らの襲撃を受けてから、ずっとこの状態だった。


「いや、しかし……!厠に行かなければ、漏れます……!!」


 平次はなんとか穏便に抜け出そうとしているのだが、お綱は平次の腰に抱きついて一生懸命ホールド。

 か弱い女性ということもあり、力に訴えれば容易に引きはがせるだろう。

 だが、そんな真似などできないのが現実だった。

 

「わたくしは一向に構いませんっ」

「お綱さん、ですから……!」

「いいではありませんか! わたくしにお掛け下されば!」

「んなっ!?」

「どうぞ、ここでお小水()しになって! わたくしを平次様の色でお染めになって下さいませっ!!」

「何を言ってるんですかあなたは!?」


 そして先ほどから、問題発言のオンパレードである。

 幸運だったのは、既に人払いが済んでいたことだろう。

 会津藩の藩士や桜田邸の侍女たちに目視されることはなかった。

 もちろん声は筒抜けなので、非常に問題なのだけれども。


「名誉や体面など問題ではありませんっ! 平次様の安全が問題なのですっ! 少なくとも、わたくしにとっては!!」


 さぁ、お掛け下さいませ!!――お綱の声が一際大きく轟いた。

 (ふすま)に耳を押し当てていたのだろう。

 大声に驚いた大勢の人々が、廊下側で尻餅を突く音が聞こえてくる。


 まさしくそんな状況下だった。

 幕閣の老人たちとの協議を終えた正之が、内藤を連れて桜田屋敷に現れたのは。


「お殿様!」


 誰かが発した声に反応し、廊下で聞き耳を立てていた者たちが平伏する。

 相変わらず平次とお綱のいる座敷は騒がしかったが、襖を隔てた廊下は文字通り静まりかえった。

 正之は藩士や侍女たちをゆっくり見回した後、局地的な騒音に対して深々とため息をもらす。


「多田野」


 会津中将は疲労感を露わに、桜田邸の家令に尋ねた。


「上様はずっと、このような?」

「はい、お殿様」


 多田野は正之が幼いころ、小姓を務めていた男でもある。

 会津中将からすれば、恵まれない時期からずっと付き従ってくれた信頼の置ける男でもあった。


「御膳医殿は返り血で汚れておりましたので、まずはご入浴頂きましたが……」

「上様は、押し入ろうとされたか?」

「はっ」

「そうか……、で? どうなったのだ」

「侍女たちが打ち首覚悟で人の壁を作りましたので」


 正之は目をつぶり、盛大にため息をもらす。


「実に、大義であった……」

「そうは言いますが、お殿様。我らは結果として将軍様のご意向に背きましたので、大義に背いたのではありませんか?」

「気にしても仕方があるまい。上様については、体面こそが何よりも重要であろう」

「その重要な体面が、我らの前で崩れ去ったのですが」


 率直にぶちまける多田野に、正之は告げた。


「だが、それも我ら限られた者だけであろう? 箝口令さえ敷けばどうにでもなろう」

「それはもう、既に行っております」

「流石は多田野、仕事が早いな」

「上様が御膳医殿の身柄をここへ移さねば、そのような仕事をしないで済んだのですがな」

「そのようなことを言うでない」


 会津中将は大きくため息をつく。事実は、多田野が言った通りだ。

 朝方に発生した襲撃事件――その事後処理を行うために、平次の身柄をお綱ごと桜田屋敷へ移したのは正之である。


 というのは他でもない。

 事件に衝撃を受けた姫将軍が、何をしでかすか分からない精神状態に陥っていることを悟ったからだ。


「あのまま『表』に上様がいてみよ。すぐさま評定の間に乗り込んできて、幕閣の老人共を『諸事不手際』の責ですべて解任しかねんわ」

「それはそれは」


 多田野は正之の言葉に、ただ頷くだけだ。

 お綱は将軍とはいえ実権を持っていない。

 江戸城のことも、天下の行政も、すべて幕閣任せになっている。


 そして現状、能力的に卓越した老人たちによって万事上手く行っていた。


 徳川の世が長く続くための政治。

 これは翻って、日本が長く平和であり続けるための政治でもある。

 民が不満に思わないような体制を作り上げること、それこそが政治家の仕事だった。


 お綱がいま、『わたくしが江戸城のことを知ろうと努力していれば事件を未然に防げたのではないか』と考えていることは間違いない。


 主体性の欠片もなかった彼女に『意識』が、どんな切っ掛けで荒れ、芽生えはじめたことは……

 保科正之という老人個人からすれば実に喜ばしいことである。


 だがしかし、大政参与たる保科正之という政治家は――それを許すわけにはいかなかった。

 現在行われている天下泰平を日本へ敷く努力を注視させてはならない。

 そして、幕閣の老人たちを強制解任することで生じるであろう徳川家の家臣たちの不協和音、これを未然に防がなければならなかった。


 日本を戦乱の世に戻す訳にはいかなかったし……

 それによって生じるであろう(めい)の不幸を望むわけにはいかなかったからだ。


「しかし、随分とお騒ぎになりすぎてはおられませんか? ご乱心を疑ったほどです」

「……多田野、お前は正直に言い過ぎる」


 正之は思う。多田野は昔から、素直に物事を言い表す男だったと。

 そして正之自身、そういった気質の男を好んでいた。

 平次を庇護している理由も、そんな人間趣味が影響していたりもする。


「だが、その通りだ。ご乱心であることは否定できまい」

「恋は人のみならず、神をも狂わせます。故事にはいとまがありません」

「恋、か……。ずいぶんと浮かれた表現をするものだな」


 続けて、正之は断言した。


「あれはそのような生やさしいものではないぞ。強烈な執着心だ、あれは。生まれて初めて手にした己の宝物を傷つけまいとする、本能的な行動だ。若干、狂気染みているがな」

「……しかしお殿様、執着心こそが恋ともいいますぞ。意中の相手を我が物にしたいと望むのが恋ならば、それは執着と同義でございましょう」

「これはこれは、面白いことを言うな」


 正之は笑い、首を振る。


「……では、上様は狂気染みた恋をしているということか」

「あるいは」

「あるいは?」

「母性が暴走しているのやもしれません。御膳医殿は、今の上様にとって、是が非でも死守すべき対象なのですから」


 その言葉を聞いた途端、老人は真顔になった。

 うなり声を上げ、しばらく考え込む。

 やがてため息と共に言葉を吐き出した。


「いずれにせよ、上様は大切な者を奪われまいとしている。これは確かなこと……という訳だな」

「はい、お殿様」


 多田野は付け加えるように言う。


「飼い犬とてそうなのです。我が子を産んだばかりの母犬は、飼い主すら敵と見なす場合がありますゆえ」

「たとえは極めて不適切だ。だが、言わんとしていることは分かる……慎重に事を進めねばな」

「はい、お殿様。飼い犬に手を噛まれることがありませんように」


 正之は多田野の横を抜け、入室の伺いを立てた。

 返事は帰ってこない。

 座敷では依然として大騒ぎがつづいており、会津中将の声がかき消されてしまうのだ。


「飼い犬、でございまするか……中将様」


 正之の背後から、非難の色が籠もったささやきを内藤がもらした。

 対し、会津中将はため息交じりに小声で応答する。


「ああ、だが我らとて犬にしか過ぎんよ。幕府という首輪をはめられている以上はのう」

「では、その犬畜生どもに天下の万民が支配されているということですかな?」

「左様」


 正之は(ふすま)に手をかけながら言った。


「民とはそういうものだ。存外にろくでもない世界だぞ、この現世は」

「しかしながら、それでも、ろくでもないなりに……上様には幸せになって頂きたいものでござる」

「無論のことよ」


 一呼吸置いてから、会津中将ははっきりと告げる。


「上様はこの儂の、敬愛すべき兄上の娘であり……儂の姪ぞ」


 それから正之は襖を開け、平次とお綱が絡まり合っている座敷へと進む。

 もっともお綱が絡みついているだけなのだが、ふたりは会津中将と内藤の気配を感じ取っていなかったのだろう。

 文字通り『飛び上がらんばかりの驚き』を披露してくれた。


「ほっ、保科様……!」

「あっ、これは……! じっ、爺! 違います! これは違うのです!!」


 平次の(はかま)をずり下げようとしていたお綱が、途端に弁明へと転じる。

 だが顔と口は正之の方を向いていても、その身体は御膳医から離れようとしない。

 枯れて久しい正之からすれば、状況が状況でなければ『後は若い者に任せて』と退出したいところだ。


 されど、そうはできないのが世の中というものである。


「上様、いったい何が違うと申されるのですかな?」

「えっ、あっ、あ……それは、そのぅ……」

「儂の目には、町民どもの痴話喧嘩の真似事のように見えますがな」


 お綱はそこでようやく平次から身を離す。

 あくまでもしぶしぶと、ではあったが。


「あの、保科様、申し訳ございませんが……」

「ああ、厠であろう? 儂に気にせず行ってくるが良い」

「は……」

「しかし良かったな、上様に粗相をせずに済んで。斯様(かよう)な真似をしたら、おぬしの血が尿に混じるところだったぞ」


 今にも漏らしそうなのだろう。

 情けない顔をしている平次に、正之はひらひらと手を振る。

 青年はこれ幸いとばかりに座敷から飛び出していった。


「まったく、あの調子でどうやって襲撃者を退けたのであろうか」


 正之は嘆息と共に言葉を紡ぐ。


「一対多数ともなれば、常人であれば生き残ることすら困難であろうに」

「それだけ、平次殿の腕が卓抜しておるのです。彼の技量は拙者が保証しましょう」


 内藤のその言葉を受けて、『我が藩士として取り立てたいのう』と思った正之だったが、即座に思考を打ち消した。

 というのは他でもない。

 目を虚ろにしたお綱が「平次様……」とふらふら付いていこうとしているのが目に入ったからだ。


「やれやれ、『恋は盲目』とはよく言ったものじゃのう」


 会津中将は大仰にため息をつくと、座敷を出て行こうとする姫将軍を押しとどめた。

 不安を訴える彼女に対し、正之は内藤に『平次のいる厠へ向かうように』と指示を出す。

 これで平次は安全でしょう。そう言うと、お綱の両目からはじわりと涙が零れはじめる。


「いけませんぞ、上様」


 正之は心を鬼にして言った。

 可哀想だが、これも彼女のためである。

 寵臣を追って将軍が厠へ行った――そんな風聞が立てば、後世までずっと汚名が残り続けるだろうから。


「上様、爺と大人しく留守番をしておりましょう。なに、小便などすぐに終わりますでな……心安らかにお待ち頂ければ」


 嫌々と首を振るお綱を見ていると、正之はついつい昔を思い出してしまう。

 前将軍であり、正之の異母兄でもあった徳川家光。

 彼が存命中も、彼女は周囲の意向に従うだけの少女に過ぎなかった。

 あの日から随分と月日が経ち、いまではこうだ――そんな感慨に耽りながら、老人は姪を見る。


「……」


 目の前のお綱は、すっかりへそを曲げていた。

 正之の言葉に、彼女はもう応じようとはしない。

 若者には誰しも反抗期が来ると言われているが、彼女はどうやら遅れてそれを迎えたようだ。


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