第36話 現れた影。
「仕事をしくじった上、最後は情報を漏らして命乞い……ほんっと、馬鹿みたいだわ」
帯刀の首をねじ切って放り投げながら、女はそんなことを言う。
平次はその言葉を、すぐに理解することはできなかった。
言葉以前の問題として、目の前にいるくのいちが――あまりにも壮絶すぎたせいだ。
「ねぇ……どう思います、お医者様?」
彼女はそう言って、平次に微笑んでくる。
その容貌は整っていて、実に美しく綺麗だった。
庇護欲をかき立てられるお綱とは対極的と言ってもいいかもしれない。
亜麻色の髪はショートボブにまとめられている。
鎖帷子を肌の上に身につけ、着崩した切り詰めの着物を着ていた。
白い肌に鎖が食い込み、丈の短い着物からは――むっちりと脂の乗ったふとももが露出している。
そんな女忍びが、血塗れの短刀を持って平次と相対していた。
彼女の姿は煽情的だが、絵画的ですらある。
このシーンひとつを写真でも絵でも切り取ることができれば、ひとつの芸術品として鑑賞に足るぐらいには。
「その腕前、お料理ばかりしていたというわけじゃないんでしょ?」
まぁ、どっちでもいいんですけど――亜麻色の髪の女は、上方なまりの発音で言った。
そして笑いはじめる彼女を前に、平次は警戒を続けながら訊く。
「お前は、幕府が抱えている忍びじゃないな?」
「もう分かっているでしょう? そんなことぐらいは」
平次は大庖丁を抜刀し、霞構えの姿勢を取る。
その上で、短刀に付着している血脂を舐めあげている彼女に尋ねた。
「お前が殺した男は、仲間だったんじゃないのか?」
「そうだけど? でも、あたしのことを責めたりだなんてしないわよね?」
胸元を広げ、地肌を締め上げている鎖帷子に血を塗り込みながら女は言う。
「御膳医サマだって、平気な顔で人を斬り殺しているもんねぇ?」
「……」
「恐ろしいおとこ」
ねっとりとした笑みを見せながら彼女は口をゆがめる。
「その血にまみれた手で、調理場にいるのでしょう?」
そこには嘲りというよりも、純粋な好奇心が含まれていた。
本当に徳川家では、人斬りに料理医を作らせているのか――そう言いたげですらある。
「よくも認められるものね、人殺しが殿様の口に入る物を作るだなんて」
楓と呼ばれていたくのいちは、そのまま短刀を投げ捨てる。
刃先がサクッと地面に突き刺さり、刀身の血液が土に吸い取られていく。
そしてその刃物が帯刀の所有物であり、先ほど平次が蹴り飛ばしたものだと気付くのには――さほど時間を要さなかった。
「それは、君が無知なだけだ。料理人はいつだって、動植物の命を奪うのが仕事なんだ」
平次ははっきりとした声で言う。
「卑賤な仕事ね、私たちと変わらないわ」
「殺すだけが脳の忍者たちと一緒にするな」
怒声を込めながら楓に続けた。
「少なくとも料理は人を笑顔にできる。殺すだけじゃ、人が泣くだけだ」
くのいちは心底おかしそうに笑いはじめる。
その仕草は実に癇に障る物だった。
思わず言い募ってしまう。
「何がおかしい、お前も俺を殺すつもりなんだろう?」
「あら、そう思ってたの? そんなつもりはないわ、それは……この人たちの、し・ご・と」
そこまで言ってから、楓は苦笑した。
「でも、もう死んじゃったから|この人たちの仕事だった(・・・・・・・・・・・)って言うのが適切かもねぇ」
血を浴びて固まりつつある亜麻色の髪。
それを指先でいじりながら彼女は言う。
「あたしは監視役。この人たちが、ちゃぁんと任務を果たせるか……それを見届けるのがお仕事よ」
「まるで他人事じゃないか」
「そうねぇ、とはいえ事実だもの」
やがて楓は、指に付着し固形化しはじめた血液を舐め取りはじめる。
指の根元から指先にむけて、ゆっくりねっとりと――まるで見せつけるように。
「それに、あたしは監視役としてのお金しか貰ってないしねぇ」
「……なんだと?」
「そのままの意味よ」
くのいちは自分の指先を、舌先でくるくると煽情的に舐め回した。
「あたしは高い女なの。あなたをここで殺すのは簡単だけど、先走った結果、報酬を安く抑えられたらたまったもんじゃないしぃ?」
依頼主は守銭奴だからねぇ、と楓は笑う。
その上で「契約は大切だからねぇ」と付け足した。
平次は探るように訊く。
「忍びにしては、随分と多弁じゃないか」
とはいえ、内心は焦りでいっぱいだった。
なにしろ楓は隙だらけのようでいて、まるで隙がないのである。
手を出せば確実に、こちらが返り討ちにあってしまいそうだった。
「あら、おしゃべりなおなごはお嫌い?」
くのいちは妖艶な笑みを見せ、現代的なモデルさながらの重心移動で近寄ってくる。
付け入る隙は見当たらない。
そうしているうちに、彼女はあっという間に距離を詰め――すぐ目と鼻の先へ寄ってきた。
「あらぁ、すっかりガチガチになってるわねぇ……童貞さんかしらぁ?」
霞構えのままでいる平次に、楓はクスクスとからかうように言う。
「御膳医サマは、随分とお堅いのね。いいじゃない、あたしだって羽を伸ばしたいわ。言いたいこともろくに言えない世の中だからねぇ」
「……」
「それに、たとえ変なことを口走っちゃっても、その時はあなたを殺して口封じすればいいだけ。何の問題もないわね」
さて、命拾いしたわね――くのいちはそう言うと、後方へ跳躍。
あっという間に平次から距離を取った。
それもそのはず、こちらへ向かってくる大量の足音が聞こえてきたのだから。
(きっと、さっきの断末魔の声が……巡回している誰かの耳にでも入ったんだろう)
そんなことを思った矢先、楓が語りかけてくる。
「あなたとはまた会うことになるでしょうねぇ……きっと近いうちに」
「勘弁してくれ」
どこまでも粘つき絡みついてくる声を振り払うように、平次は言った。
「会わないでいることが、互いにとって最大の幸福だって場合もあるだろう」
「だけど、仕事だもの。依頼者はあなたに強くご執心よ」
ブラフかもしれない。
明らかに意図的な語調で、楓はねっとりと告げる。
「良いわね、人気者は。どこからも引く手あまた……もちろん地獄からも」
「なぁ」
平次は低い声で訊いた。
「このまま穏便に済ませて貰うことはできないのか? できれば手を引いて貰いたいんだが……カネならあるぞ、使わないからな」
「あら、それは大変魅力的。だけどあなた、世の中はそんな簡単に回らないものよ」
無数の足音が迫り来る。
その騒々しさのなかで、くのいちは諦めの色が濃い声で応答した。
「誰にでも、逆らえない相手っているの。あたしにとって、それがこの仕事の依頼主。拒絶したが最後、どこまでも追いかけられて、薬漬けにされて、ボロ雑巾になるまで犯されるのがオチね」
「……お前は相当な力量を持っているように思えるんだが」
「上には上がいるということよ。それじゃあね、御膳医サマ。ちゃぁんと首を洗って待ってなさいねぇ」
それだけ言い残すと、楓は走り出す。
明らかに、一般的な成年男性よりも速いスピードで。
まるでオリンピックの金メダリストのような速度で遠ざかっていく背中。
そこに江戸城の――今度こそ本物の役人の声が投げかけられた。
「ごっ、御膳医殿……! まさか、この者たちは……いやしかし、まずはご無事でなによりでございまする!」
大勢の見廻役が、あっという間に周りを取り囲む。
到着した男たちの1/3ほどが現場に留まり平次の警護。
残りの2/3は、くのいちの追跡と現場検証にあたりはじめる。
『御膳医殿、襲撃される!』
その衝撃的な情報は、たちまち城内に伝播していった。
まもなく幕閣の老人たちは緊急会合を開き、事態の収拾と対応のために平次を呼び出そうとする。
だがしかし、その話は立ち消えとなった。
血相を変えて飛び込んできたお綱に本丸で抱きすくめられ、動けなくなってしまったからだ。
何を言っても聞く耳を持たない姫将軍。
そのこともあって平次が身動きを取れるようになったのは――正午ごろまで待たねばならなかった。




