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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
4/71

PROLOGUE 4/4

 当然のことながら周囲に人影はない。

 桜ヶ池の岸で曝け出されたお姫様の肌は、薄暗いなかでもはっきりと分かるレベルの色白具合だった。


 身長は五尺三寸(約161cm)ほどだろうか。

 背中に厚みがない痩せ型の体型にもかかわらず、胸部には真っ白で立派な双丘を実らせていた。

 かたちよく張っており、子供を産んだ(あかつき)には、きっとたくさんの乳を与えることができるだろう。


 その両腕は細く、力強さの欠片もない。手先はすらりとしており、すべすべとしていた。

 腰は掴めば折れそうなほどにくびれているが、臀部は安産型でむっちりと豊かに実っている。

 両足はすらりと長く、胴よりも長い。日本人にあるまじきモデル体型だ。

 ふとももは肉付きが薄く、肉々しさは皆無と言っていいだろう。


 同様に、お腹がほっそりとしているのも気にかかる。

 脇腹の肉付きも決して良くはなく、おそらく日の下で見ればあばら骨がうっすらと浮かんで見えるだろう。

 乳房と臀部の発育具合で誤魔化されてしまいそうだが、総じてこのお姫様は不健康なのだ。

 とてもアンバランスな身体つきをしていると言ってもいいかもしれない。


 ちなみに数多くの患者を診療してきた平次は、逢魔時の視界の悪さにおいても――そのシルエットから、瞬間的に相手の人体構造を判別することができる。

 無論、このような技を身に付けることができたのは剣術の影響があった。

 相手の気の流れを捉えるという基本的な作法に、医者として蓄積された経験が加わったことで実現し得たのだ。


 そして平次は、この溺死寸前だった相手に女性としての魅力を一切感じていなかった。

 救うべき対象としてみているからである。日常ならばともかく、いまは非常事態なのだ。

 医師が患者に対して欲情することなどあってはならず、現に戒められなければならない。

 その辺りの職業倫理について、平次は極めて厳格だった。

 要するに、悪徳とは完全に無縁な青年なのである。


「げほっ、けほっ……うぅ……けほっ、けほっ」


 平次の手によって、野外で生まれたままの姿にされたお姫様は――辛そうに咳込みながら、一生懸命に息を整えようとしている。

 彼女の結い上げられていた髪の毛は、当然だがすっかり乱れていた。

 その乱れ具合が情事の後の女性を連想させて、なんとも艶めかしい。


 ちなみに、大名家の姫君たちが髪の毛をこぞって結いはじめたのは、先年の明暦の大火以降のことだ。

 火事は江戸城にまで燃え広がり、城内にも甚大な被害を与えたが――その避難の際に、伝統的な垂髪(すいはつ)は極めて不利に働いたらしい。

 昔ながらの長髪スタイルでは、走る時に邪魔で仕方がなかったようだ。火事が女性のファッションを変えたのである。


「あっ、あなたは……げほっ、だっ……誰なの……です、かっ……けほっけほっ」


 ようやく言葉を発することができるようになったお姫様が、警戒と恐怖の声を上げた。

 彼女からすれば、平次は見も知らぬ男である。

 その相手にいきなり素っ裸にされたのだ。貞操の危険を覚えても仕方ないだろう。


 そして平次には、そんな女性の心理が手に取るように良く分かっていた。

 助けたことへの感謝の念よりも、暴行を受けることへの恐怖心が上回ってしまうのは仕方がないことである。

 助けた相手に何を言っているんだ――と責めるつもりは毛頭なかった。


 特に、武家の女性は町人の女性と比べ、裸というものに対する価値観がまるで違う。

 後者は基本的に開けっ広げで、乳房などを見られても何も感じない。

 対して前者は、裸を見られること自体、苦痛や屈辱の類として感じてしまうのだ。

 身体に対する習俗が、両者は文化レベルで断絶しているのである。

 武家の人妻たちを往診で相手にすることがある平次は、そのことをよく知っていた。


(怖がって、警戒するのは当然だよな……まだ俺と同い年くらいだもんな)


 従って、まずは身元を明確にして相手を安心させなければならないだろう。

 そして、着物を剥いだ理由についても、しっかりと話しておかなければならなかった。

 平次は紳士的に、優しい声でお姫様に語り掛ける。


「名乗りもせず失礼いたしました。俺は本舩町で医師見習いとして働いている者です。この池で水浴びをしていたところ、偶然、貴女(あなた)様が溺れているところを見てしまいましたのでお助けした次第」

「……」

「濡れた着物はすぐに脱がねばなりません。着続けていれば、お風邪を召してしまいます。夏の風邪ほど辛いものはありません。どうかご理解を」

「……それは、どうもありがとうございます。心よりの感謝を……けほっ」


 どうやらあっさりと納得してくれたらしい。

 お姫様は(むせ)ながらも、しっかりとお礼を言ってくれた。

 高禄旗本の娘たちになると、町民相手だと見下して、助けられても(ろく)に礼を言わないことも多い。

 目の前の女性が、そういった手合いの者でなかったことは嬉しく思った。


(しかも、随分と物分かりがいいな……理解力がいいのか、それとも温室育ちで『YES』しか言わないように育てられたのか――まぁどっちでもいいか。俺はただ、彼女を助けたいだけなんだから)


 色白美肌にほつれ髪。胸はふっくらとしているのに細身。くびれた柳腰からすらりと伸びる美脚。

 そんな女性が全身を濡らし、肢体をくねらせながら恥じらっている――という光景を前にして、平次は引き寄せられるように歩み寄っていく。


「ご無礼を失礼致します」

「きゃ……っ!?」


 麗らかで触り心地も極上な女体。さながら上質なシルクのような肌を、平次は抱き寄せていた。

 次いで、お姫様抱っこで抱き上げて――桜ヶ池の岸を、カエルたちの大合唱をBGMに歩き出す。


 男が全裸の女性を抱き上げているのだ。

 誰かに見られればちょっとした騒ぎになりそうだが、しかし今、桜ヶ池にいる人間は平次とこのお姫様ぐらいだろう。

 他者の気配を探りながら、平次はそんなことを考えていた。


「あ……あっ……」


 そしてお姫様と言えば、余りに衝撃を受け過ぎて思考が追いつかないのだろう。

 平次に抱き上げられたまま、彼女は身を固くして無抵抗のままでいた。

 じたばたと暴れて抵抗されなかったことが救いだ。

 もし暴れられたら、彼女の肢体がまた池のなかに落ちて行ってしまう可能性もある。

 それだけではない。打ち所が悪くて傷を負い、破傷風になってしまう危険性もあったからだ。


 かくして自分の着物を掛けていた場所に向かうと、「男物で汗臭く申し訳ございませんが」と断りを入れた上でそれを着せた。

 平次自身は着るものがなくなったため、褌一丁という実に江戸的かつ紳士的なスタイルしかとることができない。


「あっ、あなたは……あの、その……」


 お姫様は、明らかに混乱して狼狽(ろうばい)しているようだ。

 さもありなん、彼女にとっては急転直下の状況である。

 事態についていくことができなくても仕方がない。


 しかし平次は、女性の困惑を意図的に無視した。

 彼女の立派な着物を茂みのなかに隠した後、その細身の身体をひょいっと背負い上げる。

 そして女らしい肢体の感覚と、むにゅりと柔らかいふたつのふくらみを背中に感じながら、されど無心で自宅へと早足で向かっていった。


 どうして高貴な女性が桜ヶ池で溺れていたのか、その理由を問う気はない。

 今、平次の頭のなかにあるのは、いかにしてお姫様が風邪を引かないようにするか――という思いだけだった。


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