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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第34話 訪れた謎の使者。


「それにしても、今日はやけに冷え込んでるな……風も強いし、冬みたいだ」


 御膳所へ向かう途中、平次は天を仰ぎながらそう呟いていた。

 こぼれ落ちた言葉は、(もや)となった吐息と共に風邪に流されて消えていく。

 その光景を眺めながら、自分の発した言葉の意味を考えた。


「……当然か」


 冷え込んでいるのは空気だけが原因ではない。

 お綱と互いの体温を交換してもなお――心の中にある氷塊(ひょうかい)が、決して消えることなく居座り続けているからだ。


「まだ、何の進展もないんだもんな……」


 平次の親友であり盟友だった西山。その殺害犯は、依然として分からない。

 江戸城は変わらず警戒状態にあり、膳奉行である内藤主膳も部下を率いパトロールを行っているほどだ。


 にもかかわらず、手がかりはなにもない。

 しかも幕閣の老人たちは、犯人捜しをしないようにとの通達を平次に飛ばしていた。

 犯人を刺激することなく、このまま事件を風化させてしまおうという意図が透けて見える。


 平次とお綱の庇護者でもある保科正之は、その方針に対して批判的だ。

 しかし彼の意向だけで、幕閣の多数派の意見を曲げさせることは簡単ではない。

 時間のみが経過していく――それが現状だった。


「いっそのこと、また犯人が騒ぎでもおこしてくれないかな……」


 そんな不謹慎(ふきんしん)なつぶやきが漏れてしまうのも、事態が閉塞感に満ちているからこそ。

 お綱の不安定な政治的立場を考えれば、独断専行もままならない平次である。

 嘆息と共に、腰にぶら下げている長い刃物の柄を握りしめるだけで我慢しなければならなかった。


 ちなみに江戸城では、刃渡り一尺(30㎝)未満の短刀――殿中差と呼ばれる脇差しか持ち込んではならないという了解がある

 だが平次の下げているそれは、明らかに一尺以上あった。


 いや、それどころではない。

 規定値の2倍近い長さ――具体的には刃渡り1尺9寸5分(約59㎝)もある。


 本来であれば御法度なのだが、『将軍の膳に供する魚の解体に必要である』という理由から認められていた。

 そのため、平次が携帯しているのはあくまでも武器ではなく調理器具である。 

 刀は刀でも、庖丁なのだった。


 もっともこれは、平次が自分で考えたことではない。

 現状を危険視している正之の決めたことに、素直に従っているだけだった。

 あの大政参与は、江戸城で重大事件が起こった際――お綱を守る最後の盾が平次だと考えているようだ。


 平次としても、その気持ちはわからないでもない。

 お綱を守って平次が殺されたとしても、相手を道づれにできなければ、お綱の身に危害が及ぶであろうからだ。


「まぁ、それよりもまずは朝食だ」


 それにしても、風が強い。冷たい空気とのコンボはなかなか強烈だ。

 身をかがめながら御膳所に入り、平次は大きくため息をもらす。

 西山の敵討ちや犯人捜しも大切だ。

 しかし平次のしなければならないことが、お綱の体調管理であることも確かなのだ。


「今日は冷える。ショウガを使って、身体があたたまるものを作ろう」


 平次は淡々と食材を(あらた)めはじめる。

 西山がいた時は、そんな必要などなかった。

 だが彼がいなくなってから、江戸城の食材に対する信頼感は薄れている。

 食材に毒が仕込まれる可能性も捨てきれないからだ。


 これ以上ないほど敏感にならざるを得なかったし、何より品質が下がってきている食材を丹念に調べることは、平次にとって半ば当然のことだった。

 そしてその作業の真っ最中に――


「失礼いたす、御膳医殿はいらっしゃるだろうか」


 ――御膳所の戸を叩いてくる者がいた。


 この時間帯に人が訪ねてきたことは、今まで一度もない。

 料理人は平次ひとりだったし、この御膳所は、半ば平次の私室と化していたからだった。

 腰に帯びた大庖丁を(さや)から僅かに抜き、スムーズに抜刀できるかを確かめてから「どうぞ」と声を掛ける。

 御膳所に入ってきたのは、立派な装いをした男だった。


「いかにも、俺がその御膳医ですが」

「やっ、これは失礼致した」


 男が頭を下げて言う。


「お初お目にかかります、松岡帯刀(たてわき)でございまする。実は保科中将様より、急ぎ江戸城吹上区画まで参るようにと言伝を受けまして……」

「吹上に? 保科様はご自分の邸宅、桜田邸をお持ちのはずですが」


 平次は顔をしかめながら応じた。

 吹き上げ区画。そこは、かつて徳川御三家の屋敷が建ち並んでいた場所。

 しかしそれらの屋敷は、明暦の大火によって全焼。

 木々すらまともに残っていないそこは、いまだに焼け残った材木が取り残されたまま廃墟と化していた。


「申し訳ございませぬ。拙者は軽輩ゆえ、子細は聞かされておりませぬ。ですが何やら相当込み入った話のようで……」

「分かりました」


 平次は頷いた。頷かざるを得なかった。

 正之からの招集となれば、体面上、断るわけにはいかない。


 そして平次には朝食を準備する時間が必要だ。

 正之はその事情を知っているはずである。

 つまりはその時点で、すべてが明白なのだった。少なくとも、平次にとっては。


「急用となれば、すぐに参るしかありません」

「かたじけない。ああ、御膳医殿のお腰のものは……」

「保科様が常に携帯しろと仰ったものです、問題はないでしょう」

「……なるほど」


 帯刀は一礼して御膳所の外に出る。

 それを確認してから、胡椒(こしょう)と唐辛子の入った袋を懐に入れた。

 そして外に出て戸締まりを確認。帯刀と共に吹上に向かうこととなる。

 かの区画へ行くには、それなりの距離を歩く必要があった。


「それにしても、御膳医様のお働きはめざましいものがあるようでございますな。色々な御方からお話を頂戴しております」


 本丸の西桔梗門を出て、三日月濠と蓮池濠の狭間にある橋を渡っている最中、帯刀は言った。

 平次はそれに対して自嘲気味に応じる。


「よい話ばかりではないでしょう? 俺のことをよく思わない者は、それなりに多いはずですから」

「よく思わない者が多い……?」

「町医者の息子が公方様に取り入り、食事と医療の一切を独占しているのです。お役目を解かれた医師や退けられた料理人、そして新参者をよく思わない御武家様も多い」


 帯刀は苦笑した。

 それを見て、平次は自分の意見が的を射ていることを確信する。


 自分が皆から歓迎されていると思ったことはない。

 江戸幕府はお綱で四代目を数え、既に伝統的な権威体制が確立されている組織である。


 そして伝統的な組織とは、組織的硬直性と腐敗を必然的に伴うものだ。

 構成員は鬱屈(うっくつ)した感情をため込むが、それを改革の機運とする者は少ない。

 むしろ体制刷新に動くのではなく、目先の(あら)を探して攻撃することでストレス発散にしようとしがちだった。


 そういった人々にとって、平次は格好のやり玉である。


 立場柄もあり、表だって非難されることはない。

 しかし、裏で陰口をたたかれていることは知っていた。

 結局のところ、いつの時代でも人間がしていることは一緒なのだ。


「とはいえ、随分と余裕がおありなのですな、御膳医殿は」

「もちろん。よく理解できましたから」

「理解、ですか?」

「ええ、分かり合えない相手に歩み寄ろうとしたところで徒労だということを」


 既に西桔梗門は渡りきり、吹上まで徒歩で向かうだけとなっている。

 平次は帯刀の四歩後ろを歩きながら言った。


「俺は、皆に笑顔になってもらうことを望んでいる。しかし俺のすることを嘲笑(あざわら)い、邪魔しようとする奴もいる」

「……」

「そいつらに対して、一体どうすればいいと思いますか? ただ笑って殴られるだけでいいとでも?」


 帯刀は前を向いて、溢すように言う。


「さぁ……拙者にはわかりかねますな」

「でしょうね」


 平次は頷いた。それ以上、言う必要はなかった。

 ふたりはそのまま、吹上区画に入る。


 そこはいまだ、徳川御三家の屋敷の残骸や焼け跡が残されていた。

 大政参与である正之が、江戸城の整備よりも城下の復興を優先したためだ。

 日本庭園を将来的には造営したいとの話だが、それがいつになるのか定かではない。

 

「ただひとつ、はっきりしていることもある。皆の笑顔を見続けるためには、俺が生きる続けなければならないということだ」

「……」

「あるいは」


 平次は立ち止まって指を舐める。

 自分が風上か風下のどちらにいるのかを確認し、帯刀に言った。


「殺さなければ殺される状況であれば、殺さねばなるまい――ということも」

「……貴殿はお医者様だとお伺いしておりますが?」

「俺が死ねば、喪われる命の方が多い。損失は最小限に抑えるのが基本でしょう?」

「なるほど」


 して、いつから気付いておられましたかな?

 帯刀も立ち止まり、振り返ることなく訊いてきた。

 大きく息を吐き出しながら、平次は応じる。


「保科様は俺の仕事の内実をよくご存じだ。時間の押し迫った朝方に、重要な案件を持ってくるはずがない」


 それに、と付け加えた。


「事態が切迫しているとするなら、あの方はご自分の足で来るはずだ。こんな回りくどいことはしないだろう」


 黙り込む帯刀。

 平次は廃屋だらけの周囲に目を配りながら訊く。


「一体、どこのどいつの差し金だ……西山を殺したのは、お前か!?」

「さて、どうでしょうか……!」


 帯刀が振り返り際に何か黒い物体を投擲(とうてき)したのと、平次が身をかがめて廃屋のなかに飛び込んだのは同時だった。

 その際、遠くから帯刀の仲間らしき人影が迫り寄ってくるのが見えた。


「畜生、あいつひとりじゃないのかよ……!」


 黙秘は何よりも雄弁だ。

 西山を殺したのは間違いなくこいつらだろうと平次は確信している。


 ともすれば、彼らは殺しに長けたプロフェッショナルだろう。

 正攻法で戦ったところでどうしようもないということは明白だ。


「ひとりさえ生かしていればいい。この状況、殺さずに生き残る事なんてできるはずがない……!」


 そう呟きながら、平次は懐に手を忍ばせる。

 調理場には化学兵器に準じるようなものがたくさんあるのだ。



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