第33話 朝の江戸城とお綱の心中。
冬も既に過去のものとなり、季節はいよいよ春を迎えていた。
江戸城の至るところで雑草が生えはじめ、モンシロチョウが飛び、アリも活動をはじめている。
だが、春とはいえどもまだ四月。
気温が低くなり、冬並みに冷え込む日もあった。
まさに季節の変わり目であり、人が病気にかかりやすくなる頃合いでもある。
江戸城ではこの時期、お綱が体調を崩してしばらく寝たきりになるのが恒例となっていた。
そのため江戸城の上層部も皆、平次がどったんばったん大騒ぎをはじめるものだと思っていたようだ。
しかし、平次が取り乱す気配はない。
お綱に僅かな風邪の兆候があるとすぐに休ませてしまうからだ。
風邪を引いても極短期間で復活するため、寝たきりという状況に陥ることはない。
それはつまるところ、城内の反御膳医派にとっては付け入るスキのない状況なのだった。
「ふぁ……」
そしてすべての鍵を握るお綱は、いま、覚醒の間際にある。
首筋や肩を撫で上げる、朝方の冷気。
掛け布団にしている夜着の隙間から入り込んでくるそれを感じ、姫将軍はゆっくりと瞳を開いた。
「はふ……っ」
女性らしい肢体をもぞもぞとさせながら、すぐ隣で寝ている男に身を寄せていった。
暖を求め、ぴっとりと隙間なく。
「ん……んぅ……っ」
掛け布団の内側には、濃密な男女の香りが籠もっている。
一歩間違えれば悪臭にもなりえるそれにうっとりと表情を崩しながら、お綱はまだ寝息を立てている男の胸に手を添えた。
実に縋り甲斐のある、男らしく引き締まった胸板だ。
「平次様……」
お綱はすりすりと頬をすりつけながら、情人のぬくもりを楽しむ。
昨夜、ケダモノのように求めてきた男とは思えない、穏やかな寝顔を浮かべている平次。
そのギャップが、箱入り娘な乙女心をくすぐってやまない。
「平次様、平次様……わたくしだけの平次様……」
いまだ夢の中にいる男の名前をささやきながら、お綱は至上の喜びに包まれていた。
自分のことを大切にしてくれる彼の、そのすべてを独占できているということ。
その屈折した感情にぞくぞくと身を震わせながら、お綱はすんすんと鼻を鳴らす。
もうそろそろ、彼が起き出さねばならない時刻だろう。
しかしお綱は彼を起こすつもりはなかった。もっともっと一緒にいたかったのだ。
そして大好きな彼の熱を、まだまだ独占したい気持ちで一杯だった。
やさしいぬくもりで包まれているふとん。
だがその外は、つらくて厳しい現実世界だ。
そんな場所に望んで出て行きたいと思うほど、いまのお綱は強くない。
「う……っ」
しかし、神や仏は優しくはなかった。
平次を求めすぎて、身体を密着させすぎたのがよくなかったのだろう。
かすかなうめき声が漏れ、男の身体が身じろぎをはじめる。
途端、お綱は諦観と共に瞳をそっと閉じた。
平次が目を覚まして起き出すのに、さほど時間はかからない。
もうずっと、床を共にしているのだ。彼の寝起きのことは、よく理解していた。
「あぁ、もう朝か……」
平次の声が聞こえ、そしてすぐに彼の視線を感じる。
大きな手が頬を撫でてくる。頬から頤、喉から首筋までを優しく触れてきた。
彼の指は、剣ダコができていてごつごつとしている。
しかし驚くほどなめらかに動き、的確にお綱の弱点を探り当ててくる精密さもあった。
それだけではない。
平次の手は、孤独だったお綱をしっかりと繋ぎ止めてくれるものでもある。
これまで彼に触られて、どんなことをされても、嫌悪感を抱いたことは一度としてなかった。
「……顔色も問題なさそうだ」
そんな安堵の声が聞こえてくる。
お綱にとって、一番記憶に新しい平次の声は――羞恥心を煽り立ててくる昨夜の意地悪なもの。
だがその気配すら、いまや完全になりを潜めている。
「それにしても、きれいだ」
「……っ!?」
不意打ちの賛美の声。
それに思わず、お綱は身を跳ねさせてしまう。
「……」
だが、そのせいで平次はお綱が目を覚ましていたことを悟ったらしい。
互いの間に漂う空気から分かる。
彼がふとんから去ろうとする気配を察し、言い様もないほどの不安を覚えてしまった。
(……どうか、どうか行かないで)
離れていく体温。ふとんのなかで生まれた隙間と、そこに入り込んでくる冷たい空気。
呼び止めたい。今しばらく一緒にいて欲しいと、そう伝えたい。
だがしかし、その感情を表にすることはできなかった。
いまの平次は征夷大将軍の臣下である。
そのため、お綱が目覚めるより格段に早く起きる必要があった。
彼の目覚めが自分より遅れたこと、それを周囲に悟らせてはならないのだ。
(本当に江戸城は、鳥かごのよう……)
寝所の外には、幕閣の老人たちの息がかかった大量の侍女たちが控えている。
彼女たちはお綱の厳命によって寝所のなかに入ってくることはない。
だがそれは、寝所のなかで発生する物音ひとつにも――彼女たちが注意を払うようになることを意味していた。
いままでのしきたりから外れた存在である平次のことを、忌まわしく思っている官僚は少なくない。
そのため、彼のことを真に想うのであれば、下手な真似をするわけにはいかないのだ。
(でも、本来ならこんな感情……持ってはいけなかった)
女系の将軍が出現しないよう、子供を産むことが許されないお綱。
それにもかかわらず、平次との関係が幕閣の老人たちに黙認されていることは――最大限の譲歩なのだろう。
もし現状に甘んじてお綱の生活が堕落することになれば、平次は彼らの手によって秘密裏に排除されてしまうに違いない。
しかも西山勝太郎殺人事件の犯人の足取りすら、まともにつかめていないのだ。
将軍であるお綱の身辺は警備が固められているが、平次に限ってはそうではない。
それが彼の立場なのである。
お綱の軽率な行動で、謀に長じた幕閣の老人たちを敵に回す訳にはいかないのだった。
(だってわたくしは……殿方の望む人形でなければならないのだから)
平次が抜け出したふとん。
そこに寝転がっていると、たちまち空虚感に心が犯されていく。
(大丈夫、わたくしは大丈夫……こんなこと、平気だもの)
自分の心を殺すことは得意だった。やり方は分かっている。
お利口さんで、男たちの要請する理想的な姫将軍になることなど造作もない。
江戸城を出奔して平次と出会うまでは、長らく自分の意思を押しつぶしてきたのだから。
だがその反面で、自分が一体何者であるのか――それが分からなくなってしまっていた。
平次に依存して、その体温にとろけている間は疑念を挟まずに済んだ。
力強く抱きしめられて、抵抗の余地なく蹂躙された時は特に顕著だった。
何しろ抱擁によって、自分が押し固まっていくような気がしていたから。
だがそれと同じくらい、平次に対して奔放に振る舞うことに強い喜びを感じた。
ひとりの女として声を上げ、自分の意思で動くということ。
それに平次が、悦ぶことを知ったからだ。
彼の喜びは自分の喜び。
お綱は素直にそう思っていたし、平次に依存することで、自分という存在が見えてくるような気がしていた。
あるいは、自分が生きているという実感を得ることができたのだ。
だがしかし、ふとしたことで、今のように、不安と言う名の蛇が鎌首をもたげてきてしまう。
そんな自分の心の不安定さを自覚するたびに――
「平次様……」
――彼を求めるささやきが、唇の合間をぬってこぼれ落ちていくのだった。
他者からみれば、きっと重度の対人依存症のように見えるかもしれない。
されどお綱からしてみれば、平次ははじめて己の意思で抱きしめた宝物でもある。
自立と依存は紙一重、まさしくコインの裏表のようなもの。
己の二の足だけで経っていられるほど、普通の人は強くない。
杖のように自分の重みを託すことができる相手がいるからこそ、人は困難に立ち向かうことができるのだから。
「お綱さん、お目覚めですか?」
そして、やがて聞こえてくる平次の小さなささやき。
凍えかけていたお綱の心の中に、それがスッと染み渡ってじわじわと暖めてくる。
(さながら、真冬に飲む唐辛子入りのあたたかい味噌汁のよう)
お綱はそっと瞳を開けて、平次を見て、こくりと頷く。
それが決まりだった。すると平次はいつものように――
「モーゥ、モーゥ」
――そんな合図の声をあげる。
すると侍女たちがわらわらと部屋の中に入ってきて、朝の挨拶。
ふとんの外に出ざるを得なくなったお綱は、彼女たちの手で朝の身支度を調えることになるのだ。
「……」
そしてその時、平次の姿は部屋の中にない。
侍女たちに追いやられてしまうからだ。
(平次様……)
幕府の望む生き人形としての体裁を整えられながら、朝食の支度に向かったのであろう青年を想う。
彼のことを考えている間は、血が通ったひとりの女として生きることができるからだった。




