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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第32話 怒りの内膳。



 ――万治2年(1659年)4月7日。

 今日も大勢の人々でにぎわう駿河町。

 その町にある亀丸屋が所有する裏店屋敷で、大久保内膳が怒り狂っていた。


「クソッ、クソッ、クソッ、クソッ!」


 肥え太った彼の身体には、正気を失った美女たちがまとわりついている。

 その彼女たちを責め抜いていた内膳は、疲労から畳の上に尻餅をついていた。


 そんな彼の側に、ぬっと近寄ってくる人影がある。

 濃厚な阿片(あへん)の煙のなかから現れたのは、骸骨のような容貌をした容貌をした亀丸屋の店主、金衛門だ。


「これはこれは、随分と荒れておりますなぁ……大久保様」

「荒れずにいられるかっ!」


 内藤は悲鳴のような甲高い声で応答する。

 今日も彼は、女と魔薬を求めてこの店にやってきていた。

 しかしそれも、なかなか骨が折れることになりはじめている。

 というのも――


「奉行所の同心どもが、この界隈(かいわい)を張っておるのだっ! 駿河町だけではない、この内膳の屋敷周辺もよ!」


 ――こんな訳だ。


「それはそれは、心安からぬ思いをされておられるでしょうな」


 金衛門は余裕そうに相槌(あいづち)を打っているが、彼にとっても現状は死活問題だった。


 今の大久保は『出世欲のない有能で実直な官吏』という評価を勝ち得ている。

 しかし薬物中毒者が皆そうであるように、薬が切れればその仮面は容易に剥がれ落ちるだろう。


 それが公衆の面前で露わになった時、これまで積み上げてきたすべてが無駄になる可能性があった。

 大久保の口から『つがる』の提供元が亀丸屋だということが暴露される可能性も、ゼロではないのだ。


「西山を殺せばすべて解決するはずだったではないか! これは一体どういうことなのだ!!」

「……それについては心当たりがございます」


 苦々しげに金衛門は言った。


「公方様の御膳医がこの辺りを嗅ぎ回っていたとのこと。それ以来、奉行所の犬共が徘徊するようになりましたなぁ」

「なっ、何ッ!? それは(まこと)かッ!?」


 大久保は腰にまとわりついてくる女たちを突き飛ばす。

 麻薬の立ちこめる部屋を、四つん這いになって突進。

 金衛門に這い寄った。


「御膳所の予算を削った挙げ句、姫様にすり寄るあの意地汚いウジムシがか……!?」


 薬物の使用によって締まりのない、ぶよぶよになった身体。

 それを芋虫のようにのたくらせ、目を見開いて金切り声を上げる大久保。

 お綱に対して屈折した恋心を抱いていることもあって、平次はまごうことなき仇敵なのだ。


「ふむ、ウジムシですか」


 そのよどんだ瞳を大久保に向けながら、金衛門は言った。


「たしかに、そうかもしれませんな」

「であろうっ、そうであろうっ!」


 甲高い声を上げ、大久保は激しくその身を揺さぶっている。


「どうにかしなければならん、どうにかしなければ……!」

「それはこちらとしても同じでございます、大久保様」


 骸骨老人はゆっくりと腰を下ろし、大久保に視線を合わせながら言った。


「このままでは亀丸屋も商売が上がったりでしてな。このまま御公儀に疑われ続ければ、好ましからぬ事態に発展いたしましょう」

「う、う゛う゛う゛ゥ」

「さすれば、『つがる』もこれ以上は……あれはただでさえも高価な代物ですゆえ」

「クソッ!! あの平次とか言うウジムシめがッ!!」


 肥満した旗本は激高し、四肢をばたつかせて大暴れに暴れる。

 それはさながら、幼児が駄々をこねているかのようだ。


「金衛門っ! 何か策はないのか、策はッ!!」

「そうですなぁ」


 金衛門はその落ちくぼんだ両目を大久保へ向ける。


「このまま何もせずにおりましたら、大久保様も亀丸屋も……破滅しかありませぬ」


 ですから、と骸骨老人は眼孔の奥底をギラつかせた。


「何かべつの、大きな事件を起こして目眩(めくら)ましをすると致しましょうか」

「目眩ましだとッ!?」

「左様でございます、大久保様」


 金衛門は地獄の底から響いてきそうな低い声でささやく。


「たとえば、江戸城内でまた殺人が起きたり……」

「……」

「あるいは公方様が行方不明にでもなったりしたら、どうなりますかなぁ……」

「おぉおぉおぉおぉおぉ……!」


 大久保は全身を使って喜びを露わにする。


「それがよい、それがよいぞっ! 殺せッ!! あの御膳医を血祭りにあげるのだッ!!」


 そして真っ白な身体を震わせながら、金衛門の肩をガシリと掴んだ。


「いま、綱姫様はあのウジムシに(たぶら)かされておられる! あの害虫を取り除くことは、まさしく正義!! 殺すしかあるまいッ!!!」


 大久保は完全に私怨(しえん)に支配され、口角泡を飛ばして言い募っている。

 もっとも、金衛門からすればそれはどうでもいいことだった。

 亀丸屋の存続と財源の維持だけが、その主たる関心なのだから。 


「そしてあのウジムシを駆除した後……! 綱姫様をお救いするのだッ!!」

「ふむ……」

「あぁ、そして……そして……」


 大久保はぶるりと身を震わした。


未通女(おぼこ)の綱姫様を……この内膳が手取り足取り腰取り――うふぅッ!」


 きっと、想像しただけでこみ上げるものがあったのだろう。

 大久保は骸骨老人にしがみついたまま、硬直した。


 部屋にこもる阿片の甘ったるい匂い。

 そのなかに、海産物的な生臭さが混ざり込む。


 だがしかし、体液をぶちまけられた金衛門はまるで動じていない。

 問題にすらしていなかったのだ。


(もし将軍の身柄を得ることができれば、大久保などもはや用済みよ。将軍とて所詮は人間、『つがる』を嗅がせて酒に浸して快楽責めにすれば――心を壊して我が操り人形と化するであろう)


 金衛門は元々、チョウセンアサガオを使った幻覚剤(ドラッグ)を専門とする忍びだ。

 しかしチョウセンアサガオ製の魔薬は、使用者に吐き気やめまいを引き起こして廃人へたたき込む劇薬である。

 やがて『つがる』の売買ルートを確保すると、ゆるやかに人間をコントロールしやすい阿片へと移行。

 江戸の人々を籠絡するために悪用していた。


 たとえば亀丸屋が軌道に乗る前は、裕福な商家の未亡人を魔薬で籠絡して財産を奪ったりもしている。

 それ以外にも、大身旗本の年増妻を標的にすることもあった。

 体面を重視する武家の女たちは、事を表面化して荒立てる真似を絶対にしなかったからだ。


 そうして金衛門は江戸の女たちを使い潰しつつ、貧困にあえぐ旧豊臣方の忍者たちを経済的に支配していく。

 だが、それはあくまでも手駒を増やす目的以外の何ものでもない。

 彼らを言葉巧みに操りながら、己の私兵として、かつての同胞を再編成したのだ。


(所詮、世の中はカネよ。カネがなければ何もできぬ。カネさえあれば、何でもできるのだ)


 そして金衛門はさらなる富を得るために、江戸の中心たる日本橋界隈への進出をもくろむ。

 だがそこは豪商たちの住まう地区。

 一代で成り上がった金衛門が入り込める余地はない。


 ゆえに金衛門は強硬手段へと移る。

 徳川家に対する聖戦として甲賀忍者たちを煽動、町に火を放ったのだ。


 これが後に『明暦の大火』と呼ばれる惨劇であり、金衛門は火事の混乱のさなかで的確に豪商たちを殺害する。

 権利者が見当たらず混乱するなかで、どさくさまぎれに土地を収奪したのだった。

 訴訟を起こされそうな相手は、事前に暗殺させる徹底ぶりも見せている。

 良心の呵責(かしゃく)など、まるでないのだ。


(そのカネを得るために、将軍という駒は使えるのう。『つがる』に狂わせ、大久保に誘拐の罪をなすりつけた上で……この金衛門が救出した態を装って城へ送り返すだけでよい)


 さすれば薬を求める将軍が、湯水のようにカネを落としてくることだろう。

 悪くない、実に悪くないと金衛門は(わら)った。

 後はどうやって実行に移し、成功させるかにかかっている。


(いずれにせよ、御膳医にはご退場頂かねばな。将軍の周りでうろちょろされていては、誘拐するにも手間がかかる)


 金衛門は大久保に体液をぶちまけられた着物を脱ぐ。

 そしてそれを彼のぶよぶよの肩に掛けながら言った。


「大久保様、少々思案してみましたが……やはり御膳医殿には死んで頂く必要がありますなぁ」

「おお、そうであろう! そうであろう!!」


 大久保は肩に掛けられた着物を手に取り、それで汗だくの顔を拭う。

 更に汚くなった訳だが、薬で頭がおかしくなって自分の状態に気付いていないらしい。

 そのまま満面の笑みで、亀丸屋の店主を力強く抱きしめるのだった。


「やはりこの内膳にはお前が必要だ……! 頼りにしておるぞ!」

「では、差配はすべてお任せを」

「うむ、あぁ……それにしてもこの内膳が、綱姫様のはじめての男になれると思うと――実に股座がいきり立つ!!」

「とはいえ、大久保様のはじめての男は……この金衛門でございましたがなぁ」

「やめよやめよ! 恥ずかしいではないかっ! おなご共が見ておるぞ!!」


 たちまち大久保は恥じらい、両手で顔を隠す。

 そしてぶよぶよとした身体を身もだえさせはじめた。

 そんな脂肪漢に、骸骨老人は告げる。


「では、すぐにあの者を殺すように指示を出しておきましょう」

「う、うむ……! そうだな、気にくわない奴は殺すのが一番楽でいい方法だ!」


 そんなやりとりをしている男ふたりに対し、正気を失っている女たちが群がっていく。

 その光景は、もはやソドムも同然だった。



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