閑話 その後滅茶苦茶【――――】した。
徳川家の宗主にして、征夷大将軍という大役に就いているお綱。
この公方様が女性だということを知る町民はさほどいない。
少なくとも平次は知らなかったし、本舩町の住民たちも同様だろう。
権力者たちの都合の良い人形として見做されたお綱は、無為に年月を重ね、ただ忍耐だけを覚えてきた。
しかし、今の彼女はそうではない。
平次に対して自分の願望を語るようになったし、自分で何かをしようという姿勢を出しはじめてもいる。
だが、平次の親友でもあった西山勝太郎が江戸城で殺害された事件を受け、それが悪い方向へ左右しはじめていることもまた確かだった。
というのは他でもない。
お綱は自ら望んで引きこもりはじめ、これまで以上に平次を――密室空間で寵愛しはじめたのだ。
「平次様、わたくしお腹が減ってしまいました」
「じゃあ、食事にしましょう」
ここは大奥。
本来ならば将軍の女たちが侍らされていたはずの、男子禁制の間。
だが、今ここにいるのは平次とお綱だけだ。
侍女たちもいるにはいるが、人払いをされていることもあって部屋のなかに入ってくることはできない。
言うまでもないが、権力者であるのなら人払いを乱発すべきではなかった。
ふたりきりになった時、殺されたり傷付けられたりするリスクが高まるからだ。
征夷大将軍という日本最高位の立場にある人間にとっては、なおさらだろう。
「平次様のお弁当、とても楽しみです」
だがお綱がそのことを気にしている気配はない。
むしろ、平次が手を出してくることを望んでいる気配すらあった。
彼女と男女の仲になって以来、その傾向が日増しに高まっている感すらある。
(きっと、恐怖を俺への依存で紛らわせたいんだろうな……)
それが分かるからこそ、平次は彼女を突き放すことができない。
平次が生きていた現代社会には、依存を悪とする風潮が蔓延していた。
だが平次個人からすれば、他者への依存は別に悪いことだとは思えなかった。
うずくまってしまった人間がまた立ち上がるためには支えとなる杖が必要だし、お綱にはその杖が平次以外に何もないのだから。
だからこそ、彼女を見守りつつ、時に励ましていくような方法が一番良いのだろうなと考えていた。
「はぁ……今日もとても美味しそうです」
お綱の前で広げられたお弁当は、平次が朝食作りの際にまとめて作ったものだ。
これまで徳川家では朝夕の二回しか食事がなかったが、お綱が大奥に引きこもりはじめたのを理由に、一日三食制を実施することにしたのだった。
食べている間は上様も気落ちしないでしょうから――というのが、表向きに平次がお偉方へ伝えた理由である。
幕閣の老人たちも余計な問題を生じさせないため、頷くほかなかったようだ。
しかしこれはもちろん、平次が勝手に行っていることで公的な制度ではない。
されど御膳所には多くの食材があるので、工夫さえすれば一日に三食を作ることくらい訳はなかった。
幕府からの援助は特に必要なかったのである。
「炊き込みご飯のおにぎりに、レンコンの煮物。野菜のお浸しに魚の焼き物。それに長芋のシソ包み揚げですね」
「お弁当だから、冷めること前提の献立です」
わくわくした顔で密着してくるお綱に、平次は胸の高まりを感じた。
それを誤魔化すように、お弁当の説明を続ける。
「ただ、包み揚げは時間の経過と共にしっとりとしてしまうので、衣がふわふわとした口当たりになるよう長芋汁を混ぜ込んであります」
「そうなのですね……」
お綱は平次の肩に自分のそれをぴっとりと付け、頭を預けながら言う。
「ありがとうございます、平次様」
「料理を作る時に食べる人のことを考えるのは普通です」
「だから、嬉しいのです」
お綱は幸せそうなため息をつきながらささやく。
「あなたが料理をしている時、あなたがわたくしと一緒にいて下さる時、あなたのすべてを独占できているような気がしますから……」
「お綱さん……」
もはやお綱の目には俺しか映っていない――平次はそのように確信していた。
そして美しい女性に際限なく求められることに、一種の快感を覚えていることも自覚している。
姫将軍がこちらに依存しているように、平次自身が彼女の愛情に依存してしまうのではないか。
そんな不安を振り払うように、平次は明るい声で言った。
「さあ、食べましょう」
「はい、いただきます」
お綱がまず手に取ったのは炊き込みご飯のおにぎりだった。
武士の社会において、炊き込みご飯は白米や玄米ご飯よりも格下の食べ物である。
しかし味を付けることができて、かつ食材を好きなように混ぜ込める炊き込みご飯は……
お綱のように栄養を付けなければいけない女性にとって、最適な主食だろう。
「あっ……貝の味がいたします」
「ええ、貝類は貧血予防にもなりますからふんだんにいれてあります」
「この小さなものがそうなのですね」
「炊き込む前に細かくしましたから」
「葉物野菜も入っていて、美味しいです……。貝の香りだけでなく、ほどよい塩気と鰹節の香りが口いっぱいにひろがって……すてきですね」
おにぎりはお綱が食べやすいよう、小さな一口分のサイズにしてある。
平次ひとりであれば大きな塊ひとつでいいのだが、これは配慮というものだ。
夢中になってどんどんおにぎりを平らげていくお綱に「おにぎりばかりだとお腹が膨れてしまいますよ」と声をかける平次。
すると彼女はおにぎりを両手で持って食べている最中、ハッと事態に気づいたらしい。
一度食べるのを止め、文字通り、すべての動作を完全に停止。
かと思うと、10秒後にはまたもくもくとおにぎりを食べはじめる。
「へっ、平次様がいけないのです……」
ジーッと観察している平次に、おにぎりを食べ終わったお綱が恥ずかしそうに言った。
「わたくしを夢中にさせてしまうようなものを作るから……」
「あー、それは申し訳なく思っています」
一応、謝罪。
そう言うと決まって、お綱はこう返してくるのだ。
「せっ、責任は……取って下さいね……? わたくしをこんなにもはしたないおなごにした責任を……」
「……ええ」
どこか気恥ずかしさを覚えながら、平次は小さく首肯する。
もうどの道、この女性から逃げることはできないだろう。
平次が何も言わず幕府から逃げ出しても、ありとあらゆる手を使って身元を特定し、追いかけてきそうな気配がある。
(それどころか、俺が死んだら後追いしてきそうだもんなぁ……)
ふたりでお弁当を食べながら、そんなことを思う。
結婚は人生の棺桶と言われているが、幕府に仕官したことで、平次の人生はもう既に棺桶入りしていたのだ。
「ごちそうさまでした、平次様。とても美味しかったです」
「それはよかった。お粗末様でした」
食事が終わると、お綱はすぐに平次の膝の上に頭を乗せてくる。
そして青年のお腹に顔を押し付けると、ぷるぷると震えはじめた。
これはもう、いつものことだ。
彼女は平次の匂いが好きなようで、しばしばこうして嗅いでくるのである。
『お腹が平次様の愛で一杯になったとき、胸も平次様の匂いで一杯にすると幸せなのです』
かつて理由を聞いた時、お綱は恥ずかしがりながらそう応じてきたものだ。
恥ずかしがるのなら止めればいいのに、彼女はまるで止めようとしなかった。
男女ともに『臭いフェチ』を発症する人間はそれなりに多いが、どうやら姫将軍も類に漏れないらしい。
「なんだか、こうしていると……すべての不安が溶けてなくなっていくような、そんな気がいたします」
満腹感に加え、人肌の温かみを感じたせいなのだろう。
お綱は子供のようにまどろみながら、ぽつりと言った。
「平次様、離さないで下さいね……」
「お綱さん」
「置いて行かないで下さいね……」
きっと、怖いのだ。
江戸城で起きた殺人事件の犯人が捕まっていない現状下、平次が殺されてしまうことが。
あるいは江戸城を怖がった平次が、その役目を放棄して下城することが。
「安心して下さい、お綱さん」
平次は姫将軍の頭を撫でながら言った。
征夷大将軍の頭を撫でるなど不敬の極みであり、見つかれば即打ち首ものだが――人払いしてある以上、その不安もない。
「俺はいなくなりませんから。夢もまだ叶っていませんし」
「……そう、ですか」
「少し眠った方が良いでしょう」
平次はお綱の頬を優しくさすりながら告げる。
「昨晩は随分と盛り上がって、お綱さんはほとんど寝ていなかったでしょうし」
「そっ、それは……!」
さすられている頬に、サッと赤みが差していく。
「平次様が、平次様がわたくしをあんなに……! だから……あのような……あのようなことになってしまって……!」
「そんなお綱さんも素敵でした」
歯が浮くようなセリフを吐きながら、保母が子供を寝かしつけるように、彼女のお腹を優しくポンポンと叩く平次。
すると彼女はむすっと拗ねたような顔をする。
だがそれは表面だけで、雰囲気は完全に甘えたがりなそれだ。
「もう知りません、いじわるな平次様なんて」
「でも、いじわるされるのが好きなんですよね? 昨晩、そう言っていたじゃないですか。いじめてくださいと」
「――~~~ッ!? もっ、もぉっ!」
先ほどのまどろみはどこにやら。
お綱はすぐさま起き上がり、平次の肩をぽかぽかと叩きはじめる。
(こんなこと、出会ったばかりのお綱さんは絶対にしなかっただろうなぁ……)
きっとこれも進歩なのだろう。
平次はお綱のぽかぽか攻撃をいなし、彼女の細い手首を巧みに掴む。
すると姫将軍は頬の紅を顔全体へ拡げ、やがて俯いてしまった。
「かわいい」
「なっ、何を……」
「かわいいなぁ」
「やっ、やめてくださいませ……!」
そう言いながらもまんざらではなさそうな彼女に、ずいと顔を近付ける。
するとお綱は、ぷるぷると震えながら顔を伏せた。
やがてゆっくりと顔を上げて目を伏せ、しばらく静止。
そして平次をそっと見つめてから、瞳を閉じて唇を差し出してくるのだった。
この後何があったのかは言うまでもないだろう。
それはもう滅茶苦茶に――。




