第31話 徳川将軍家ノ男性事情。
「平次様……本当にありがとうございます」
「お綱さん、何を改まって……」
「いえ、色々と……わたくしは変わることができましたから」
徳川家の姫将軍は平次の隣に座り、青年の手を取りながら言った。
「自分でも、信じられない変化なのです。ほとんど食事を取れなかったわたくしが、いまや一汁三菜をしっかりと取れるようになっているのですから」
「それは……」
平次は言って良いものか悪いものか、逡巡しながら応じる。
「実は、もしかすると……精神的な問題だったのかもしれない。俺はそう思ってる」
「精神的……?」
「そう。お綱さんの心が色んな事で参っていて、それで食事ができなかったんじゃないかな。あるいは……」
「あるいは?」
「……料理人たちが、単に料理下手だっただけとか」
お綱はそれを聞いて笑った。
笑ったうえで、どこか寂しげな表情を浮かべる。
「ですが、どうでしょうか。わたくしにはもう、平次様の作って頂いた料理以外に魅力を感じなくなってしまいましたから……かつて出されていた膳の味を思い浮かべることは、もう難しいです」
それに、と彼女は続けた。
「でも、彼らは、わたくしを喜ばせるために料理を出している訳ではありませんでした。それを知っていたから、わたくし食べることを心のどこかで拒否していたのかもしれませんね」
「お綱さんを喜ばせるためではなかった……?」
「それが、彼らの仕事ですから。彼らは決まりごとに従い、決まりごとに則った定型的な料理を出して、そうして日々の『業務』をこなしていただけなんです」
「……心のこもっていない料理だった、ってことか」
「ええ。わたくしはもしかすると……給金を与える『対価』として提供された料理という構図が、耐えられなかったのかもしれません」
御膳所の料理人たちは御家人であり、立派な武士である。
彼らは自分たちが庖丁で身を立てていることへのプライドだけでなく、それに相反した劣等感を背中合わせに抱いている者も多かった。
要するに、武士であれば刀を持って男らしくあるべきなのに、厨房に籠って女房の真似事をしていることが耐えられない――と言う訳だ。
そして実際に、料理人たちをそのように揶揄する旗本や町人も相当数存在していると聞いている。
「わたくしは、彼らが仕事に熱心でなかった……と言っているのではありません。彼らが実に良く働いて下さっていたと思っています。ですが、結局のところ、今まで大切にされてきたのは料理を食べる『わたくし』ではなく料理を作る『しきたり』だったのです」
「……」
「たとえば、料理人ともなればネギを知っているはずでしょう。なのにわたくしは、平次様と出会うまでその存在そのものを知りませんでした……身体に良いお野菜にも関わらずですよ……? わたくしの健康よりも、彼らは幕府のしきたりの方が大切だったのですっ!」
そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。
当事者でなかった平次に、この件を断じることはできそうになかった。
だが、食の細かったお綱に対し――味付けや献立を大々的に革新することはむずかしくても、変えようとする努力はできたはずだ。
そういったことが一切なかったと、他ならぬ彼女自身が思っているのである。
不満がたまってしまうのも、もはや仕方がないことだろう。
「ですが、平次様はそうではありませんでした……」
瞳を潤ませながら、お綱は平次を見つめる。
「わたくしのために、美味しくて栄養のあるものを作って下さいます。その想いを強く感じることができるからこそ、わたくしも出されたものは食べ切ろうと努力することができて……」
「お綱さん……」
真摯な声で訴える絶世の美姫に、心が感応していくのが分かった。
その潤んだ瞳に己の姿が映り、吸い込まれそうになってしまう。
「聞いて、ください……平次様」
お綱は平次の手をしっかりと握り締める。
そして明瞭な声で、はっきりと告げてくるのだった。
「わたくしのために……一生、お料理を作っては下さいませんでしょうか」
聞き間違えの余地もなく、明らかに、プロポーズの言葉。
おそらくは、性分なのだろう。
お綱は真正面から、搦め手を使うことなく、平次の心を掴もうとしていた。
「わたくしはいずれ隠居させられます。世間的には病死ということになるでしょう。ですからきっと、その後は何をしてもいいはずなのです……!」
それは彼女自身が、己に言い聞かせようとしているようにも思える。
これまでずっと束縛されてきた自分が自由になれるのだと、信じ込もうとしているのかもしれない。
江戸城の奥深くに幽閉される可能性を、考えないようにしているのだろう。
いや、そうでもしなければ――お綱の心は、きっと、耐え切れないに違いなかった。
「わたくしはグズでのろまな女です……足手まといになると思います、ですが、幸いにして学はあります。読み書きもできます、算術もできます。ですから、ですから……平次様の夢を叶えるお手伝いを……わたくしにもさせては頂けませんでしょうか……」
お綱は飼い主に捨てられかけている子犬のような必死だ。
傍目から見れば、きっと、別れ話を信じたくない妻や彼女のようにさえ映るかもしれない。
征夷大将軍と言う立場を考えれば、おおよそ取ってはならない態度に違いなかった。
「俺の、夢……? 夢って、大衆食堂を開くって……そのこと?」
「はっ、はい! そうです、火の番でも食材の管理でも、帳簿付けでも何でもいたします! それこそ、犬馬の労を……! ですから、お願い致します……」
わたくしと、一緒にいて……ください……。
感極まりはじめたお綱は、尻すぼみの声で懇願してくる。
そこにいるのはもはや征夷大将軍でも武家の頭領でもない、単なるひとりの少女でしかなかった。
「わたくしは……っ、もう……もうっ、平次様のお傍を離れたくないのです……っ、どうか、どうか……っ」
彼女に握られている手は痛みすら感じるレベルで握り締められている。
それだけ必死なのだ。自分の理解者を絶対に失うまいとする、人間の意地なのだろう。
そこまでの想いをぶつけられて、男心が揺さぶられないはずがなかったのだ。
「お綱さん、そこまで俺のことを……」
平次がそう呟くと、お綱はそっと男の手を離し、目尻に浮かぶ涙を払う。
その上で、彼女は覚悟の決まった女の顔を見せながら言った。
「平次様、覚えていらっしゃいますか……? 貴方が今日、御膳所で仰ったことを……」
「あ……」
「わたくしの想いは、本物でございました。いまも、平次様を想う心で満たされています……ですから」
お綱はそう言って、平次に飛びついた。
仰向けに倒れた御膳医に四つん這いで覆い被さりながら、姫将軍はねっとりと熱い吐息を零しながら囁くのだった。
「唇と、それ以上のものを奪って下さいませ……。そしてずっと、わたしくしの傍で、共に――あっ」
お綱の唇がそれ以上の言葉を塞ぐ前に、彼女の顔に男の影が重なった。
長い長い接触の後、すっかりと腰砕けになってしまった肢体を横に転がすと、平次はひとりの女となった姫将軍にのしかかっていく。
そしてお綱は、歓喜の涙と共に身体を開いた。
しばらくの時間が経った後、部屋の装飾として生けてあった花瓶から、ぽとりと椿の花が落ちる。
やがてふたりが場所を移した時、畳の上には黒ずんだ紅色の残滓が残されていた。




