第30話 金目鯛のあら汁と煮つけ。
その日の夕食は純和風な彩りとなった。
ごはんを主食に、汁はネギとダイコンを入れた金目鯛のあら汁。
メインのおかずには、金目鯛の身の部分を使った煮つけ。
そして添え物にショウガ醤油味のタコの唐揚げがある。
副菜として、茹でた東洋ホウレンソウにとろろ汁をかけ、冬ワサビを摩り下ろしていた。
赤いボディに金色お目々をした金目鯛は、タイという名前は付いているものの、実はキンメダイ目キンメダイ亜目キンメダイ科に属する深海魚だ。
タイと言って一般に連想されるであろう真鯛は、スズキ目スズキ亜目タイ科に属する魚で、実はまるで異なる種類に属している。
そんな金目鯛は、極めて美味で上品な味わいの魚だ。
特に汁物や煮物にするととてつもなく美味しい。ぷりっぷりの身を刺身にしても極上だ。
ただし刺身は、食中毒の危険性を考えて――今回は泣く泣く見送っている。
とはいえ、汁物にする際に金目鯛という食材は、とある欠点を持っていた。
そう、深海魚独特の生臭さがあるのである。
そのためあら汁作りはしばしば家庭料理では敬遠され、煮物一辺倒になっていることが多いらしい。
(でもまぁこれは、知識の有り無しだけの問題だからなぁ……。知ってさえいれば、誰でも美味しい金目鯛のあら汁が作れる訳だし)
目をキラキラと輝かせながらあら汁を見つめているお綱を見ながら、平次はそんなことを思う。
手順としては、こうなる。
まずはしっかりと金目鯛を流水に曝し、血抜きをするところからはじめなければならない。
水道があればあらを入れた容器のなかに水を流しっぱなしにすればいいのだが、江戸時代にはそんな便利な物はない。
この場合、水を張ったタライのなかにあらを入れ、流れるプールの要領で、タライ内部での水の流れを作って血を抜けばいいのだ。
いずれにせよ、水を換えながら――完全ではなくとも、水が透けて見えるようになるまで繰り返せば十分である。
血抜きをした切り身はザルに上げて水を切り、塩をバッと大量に掛けていく。
そうして体感的に1時間ほど放置していると、魚肉に含まれている臭みが沁み出してくることだろう。
それを洗い流せば、臭いについては第1の壁を突破できる。大幅に臭気を減退させることができるのだ。
家庭料理のレベルであればここで作業を止めても十分なのだが、平次は更に抜かりなく臭い落としに励んでいだ。
沸騰させたお湯のなかに、金目鯛のあらをくぐらせるのである。
その後、湯気立つあらを冷水に沈めれば――あらの表面に付いているぬめりが、ぬるっと露わになることだろう。
それを指先でこすり落とすことによって、汁にした時の魚臭さを撃滅させることができるのだ。
(とはいえ、金目鯛に限った話ではなくて、魚全般の調理に言えることだったりするんだけどね)
こうしてぬめりを落としたあらをもう一度、新しいお湯のなかでショウガとネギを加えて茹でていく。
平次はその際に、一瞬だけ春菊をお湯に潜らせていた。
そうすることで味の完成度が大きく変わるからである。
それから日本酒を香りづけに注ぎ、灰汁を取りながら茹で上げていく。
灰汁が少なくなれば臭み消しのネギとショウガを取り出し、好みの具材をいれていけばいい。
平次は具材用のネギとダイコンを投入したが、ワカメなどの海藻類も極めて相性が良いだろう。
味付けはお好みだ。
金目鯛の出汁に春菊の香りもあるので、塩だけ入れて澄まし汁にするのもなかなかである。
今回は味噌を加えているが、必ずしも味噌汁にしなければいけないという決まりはないのだから。
「すごく、味が透き通っています……。お出汁も美味しくて、香りも良くて、お味噌汁なのに不思議な感じですね……」
お綱はそんな感想を漏らしながら、ほぅと一息ついた。
立ち昇る湯気、そのなかに浮かぶ笑顔。見ているだけで心と身体があたたまりそうだ。
生姜の成分も煮出してあるわけで、実際に身体もしっかりと温まるのだけれども。
「こちらの煮魚も、甘みだけではなくて……しっかりとコクがあります。金目鯛の味も良く分かって、やわらかくて、身が口のなかでふわっとほどけるようで……本当に美味しいです……!」
姫将軍は片手で頬を押さえ、恍惚とした表情を浮かべている。
どうやらお気に召したようだ。
平次はそんな彼女に説明をすることにした。
「実は、あら汁作りって結構時間が空くんだ。たとえば、最初にあらに塩を振って臭みを取るんだけど、その間の待ち時間とか……」
「なるほど、そうなんですね……」
「ああ、だからその間に煮つけは済ませておくんだ。そうしたら、時間を有効的に使うことができるし」
ちなみに、味付けは醤油・砂糖・生姜スライス・味醂・日本酒の5種類のみである。
頭を落とした金目鯛の身体を二枚に下ろし、鍋のなかに調味料をすべて注ぎ込んでから金目鯛を入れ――落とし蓋をした上で、弱火でとろとろと煮込んでいくだけだ。
魚類や肉類の煮込みで気になるのは、やはり火加減だろう。
金目鯛については簡単で、煮込んでいると最初は目が真っ白に濁るのだが、煮込みはじめて15分もすると落ち窪んで飴色に変化する。
そうなったらもう火は止めて、余熱調理で十分だ。
熱を過度に通し過ぎると身が硬くなってしまい、ふっくらと仕上がらないから。
魚の煮つけにとって一番難しいポイントなのだが、金目鯛はその絶妙なタイミングを――まさしく『目』が教えてくれるのである。
「そういえば、お魚を水揚げしているところは……平次様の御実家がある本舩町でしたね」
タコの唐揚げを美味しそうに噛み締めて飲み込んだ後、お綱が言った
「となると、水揚げされたばかりのお魚を沢山食べてこられたのでしょうか」
「ええ、そりゃ……魚の町ですからね、本舩町は」
「それは羨ましいですね……」
お綱はそう言って苦笑した。
「いつか、水揚げされたばかりのお魚を生で食べてみたいものです。とても美味しいのでしょうね……。それに、お魚さんがいっぱいいる市場も見てみたいです」
「間違いなく、日本一の魚卸売市場ですよ」
平次は誇らしげに言ったが、歴史は実に残酷だ。
20世紀に発生した関東大震災を理由にして、日本橋住民の猛反対を押し切り、政府によって強制的に築地へと移転させられてしまうからだ。
どれだけの歴史を誇っていたところで、失われるのはあっという間のことなのだった。
「今日も、とても美味しかったです……ありがとうございます。そして御馳走様でした」
「お粗末様です」
「ふふっ……これが粗末な食べ物だったら、どうなりますか。日ノ本が飽食で溢れかえってしまいますよ?」
クスクスと笑うお綱に苦笑を返しながら、平次は食後の春菊茶を注ぐ。
その間に侍女たちが入ってきて、ササッと膳を片付けていってしまった。
実に洗練された動きで、いつも以上に機敏だ。
(きっと、お綱さんが事前に言い含めてたんだろうな……食べたらすぐに膳を下げろと)
そして、そんな平次の予感は外れていなかったらしい。
お綱がそっと、覚悟を決めた目で近付いてきたのだから




