第28話 不安なお姫様と御膳所の誓い
平次は新たに『へっつい』の竃に焔を点しながら、お綱に訊いた。
「本当にいいのか、お綱さん」
天女と見紛うばかりの容貌を平次の背中に埋めながら、彼女は無言で頷いている。
いま、ふたりは御膳所のなかにいた。
それまで作っていた料理は冷え切ってしまっていたので、温め直して侍女のお弁当になってしまっている。
平次は新たに火を点した『へっつい』に、水を張った鍋を置いた。
そこには既に昆布が入れてあり、鍋の水がぼこぼこと沸騰しはじめる前に――それは掬い上げられた。美味しい昆布出汁の出来上がりである。
ちなみに、今日の毒見役はいない。
城内でのまさかの殺人事件に動揺したお綱、そして友人が殺されたことに憤怒する平次。
そのふたりの様子を見た内藤が――『既に朝の鬼は討った』と宣言し、西山斬殺事件の調査に向かってしまったからだ。
「……」
平次の着物に、熱い染みが広がっていく。
それが江戸幕府の姫将軍の涙だと分かると、平次は作業の手を止めた。
不安で仕方がないのだろう、すぐそこで――身近なところで人が殺されたのだから。
お綱の信条を想うなら、今すぐにでも彼女を抱きしめるべきだろう。
だがしかし、平次はそうしなかった。
西山を殺されたことに対し、平次自身も強烈な衝撃をうけている。
犯人の肛門に庖丁を突き立ててから、三枚おろしで全身を解体してやりたいとさえ思っていた。
だが平次は料理人なのだ。
その職責を果たし、悲しむ人を料理で励まさなければならないのである。
お綱の嗚咽を聞きながら、平次は作業を再開した。
昆布出汁のなかで米を煮て、ごま油と溜まり醤油で調理した焼きネギを入れ、最後に溶き卵を掛け回す。
「お綱さん、卵雑炊……できました。だから、食べましょう」
平次は務めて優しい声を発しながら、背中に縋りついているお綱に声を掛けた。
『わたくしたちが出会った時に、平次さんが振る舞ってくれた――あの雑炊が、食べたいです』
それが、彼女からの要望だった。
焼きネギ入りの卵雑炊以外、何もいらないと――そう言ったのである。
平次が椀に雑炊を盛りはじめると、お綱はゆっくりとその背中から離れた。
そして今度は、平次の腕を抱きしめる。
柔らかな女体の感覚を直に感じ、流石の平次も動きを止めた。
「ねぇ、平次様……」
「どっ、どうしましたか……お綱さん」
「ありがとうございます、作って下さって。平次さんはわたくしよりも、もっとお辛いはずなのに……」
「それが俺の仕事ですから……感謝なんて」
平次の言葉に、お綱はそっと首を振る。
「仕事だからできて当然、やって当然という考え方は……お言葉ですけれど、わたくし、好きではありませんわ……」
「……」
「人には、心がありますから……。辛い時にも『仕事だから』と御自分の心を偽られたら、いつか壊れてしまいます。何もかもが嫌になって、最後には……」
「お綱さん……」
「だから、言わせてください、ありがとうございますと。わたくしはいつも、平次様に助けて頂いてばかりですから……せめて、貴方がお辛い時は、甘えて下さい」
「君だって、辛いだろうに……。さっきまで泣いていたのは、そっちの方だ」
「ええ、辛いです、とても辛いのです。そして怖くてたまりません……。ですから、ふたりで甘やかし合いましょう? それがきっと、一番の幸せのかたちだと思うのです」
お綱はそう言って、着物の合わせ目をくつろげはじめた。
「お綱さん……」
平次は驚愕する。
天下の征夷大将軍ともあろう女性が、己の鎖骨までも露わにしているのだから。
真っ白ですべすべの、シルクを思わせる艶やかな肌。
お綱は顔を真っ赤に染めながら、己の首筋を反らして強調してみせる。
だが、そこまでだった。それ以上の露出はない。これが彼女の限界点なのだろう。
(現代だと繁華街を歩く女性だったら普通に露出してる部分だけど……江戸時代だと、それすら恥ずかしい部分なんだよな……少なくとも武家の女性は)
一生懸命に自分の『女』をアピールしているお綱を前に、平次は固まっていた。
事実、どうしていいのか分からなかったのだ。女性との経験がなかったせいで。
そんな平次に、姫将軍はそっと問い掛ける。
「平次様……どうして、わたくしを手籠めにされようとしないのですか? わたくしのこと、お嫌いですか?」
「な、何を……いきなり何を言ってるんだ、お綱さん」
「いきなり、ではないと思います。わたくしは、平次様をお慕いしております……。殿方を恋しく思うのは、その……実ははじめてで、私自身……この感情をどのように御したらよいのか分からないのですけれど……」
「ですが、侍女たちが話しているのを聞いたのです……。両想いのふたりは……その、『儀式』をするべきなのだと。江戸でも恋い慕い合う男女は、皆が……しているのでしょう? そうすることで、お互いに幸せになれるのだと……」
「別に、そんなことをしなくても幸せにはなれるさ……」
平次が絞り出すように言うと、お綱はぶんぶんと首を振る。
「それは、違います……わたくしも、もう子供ではありません……それぐらい、分かります」
「お綱さん」
「怖くて……仕方がないのです」
お綱は平次ににじり寄りながら、吐息を震わせて言った。
「ひとりぼっちになって、池に落ちて、死にそうになって、平次様に助けられてから……いつも貴方のことを心のなかで考えているわたくしがいて……これが恋だと気付いた時には、嬉しくて、切なくて……それなのに」
「……」
「平次様、わたくしたち……殺されてしまうかもしれないのですよね……? 江戸城で人が殺されるだなんて、そんなこと……考えたこともなかったのに……っ」
彼女の震える吐息には、緊張のみならず恐怖が混ざり込んでいる。
江戸城で刀を抜けば、その時点で死罪は確定。
切腹の上で領地は召し上げられ、一族郎党は離散する――それが御法度だ。
この強力な抑止力があったためか、江戸城での刀傷事件は限りなく少ない。
少なくとも今に至るまで、寛永4年(1627年)と寛永5年(1628年)の事例2件しか発生していなかった。
要するに、城内での殺人事件は、お綱が生まれる前に起こった過去の話でしかないのだ。
刀が抜かれることなど、ありえない事態なのである。
されど、いま、正体不明の犯人によって御家人が殺されてしまっている。
いつどこで、誰が襲われるか分からない……。
そんな恐怖に、お綱は囚われているのだろう。彼女の目は文字通り必死だった。
「いや、嫌なのです……生まれてから一度も、恋い慕う殿方に愛して頂かぬまま死ぬのは……絶対に嫌なのです。夫を迎えることが許されぬこの身です、老いて孤独に死ぬことはまだ我慢ができます。ですが、ですが……! 他の者の手にかかって死ぬのだけは嫌なのですっ!」
それならせめて、恋い慕う貴方に抱かれてから死にたい――病弱な姫将軍は、そんな熱烈な告白を迸らせる。
きっと恐怖をきっかけにしてタガが外れ、心の中身が飛び出してきたのだろう。
その告白を受けて、復讐心がすっかり居ついていた平次の心は――驚くほど静かで、穏やかな者へと変わっていった。
「分かった、抱こう……お綱さんのことを。本当だったら俺から頭を下げるべきだよな……それぐらい君は美しい」
「平次様……っ」
「だけど……」
平次はお綱をそっと抱き寄せる。
胸のなかに華奢な肢体を感じながら、そっと囁いていく。
「それは少なくとも、今じゃない。君は少し混乱しているんだ、だから――」
「ちっ、違……っ! 違いますっ、この想いはそのようなものでは……!」
「――だから、それを証明してほしい」
「証明……?」
「そう、証明です」
自分の心臓がこれ以上ないほどに高鳴っているのが分かった。
お綱を押し留めるために咄嗟にとった言動とはいえ、自分が実に大胆不敵で大それたことをしていることは分かる。
だが、もう身体の自由が利かない。自分の身体が自分のものでなくなってしまったかのようだ。
平次は己が割と直情型の人間だと思っている。
この世界に転移する切っ掛けとなった事故も、すべてはそんな性格のせいだった。
とはいえ、これはまずい。非常にまずい。相手は絶対に手を出してはいけない相手なのだ。
それなのに、手が動くのが止まらない。お綱の両頬に己の両手が添えられる。
ふわっとしてふにっとして柔らかな、すべすべの触感が掌にあった。
瑞々しく艶やかな唇はわずかに開き、熱く甘酸っぱい吐息を漏らしている。
潤んだ瞳が平次の双眼を貫き、その思考を焼き焦げさせていく。
「おっ、お綱さん」
自分の凄まじいほどに脈打っている心臓の鼓動がばれていないようにと願いながら、平次はなんとか言葉を絞り出す。
「今宵、ふたりきりになるまで……待って欲しいんだ。その時までにお綱さんが俺のことを想ってくれているようなら、きっと君の心は本物だと思うから」
「ふたりきりに……なる、まで?」
何やら更に泥沼に足を突っ込んでしまった気がしないでもないが、ここで言葉を止める訳にもいかない。
平次はお綱の肩を掴んでグッと引き離しながら告げる。
「あ、いや……その。それに、実は確認したいことがあって……。初日から御膳医としての職務を放棄するようで悪いですが、こればかりはどうしても……」
「……わかりました。どうか、お気をつけて」
お綱はそう言って、儚げで美しい笑みを浮かべるのだった。
「では、今宵……お待ちしておりますから。たとえ死んでも、ずっと平次様のことを……」




