第27話 蓮池濠と平次の誓い。
江戸城本丸の側にあるお濠のひとつ、蓮池濠。
そこから引き上がった死体は水を含んでぶっくりと膨れてしまってたが、明らかに賄吟味役の西山勝太郎である。
既に現場には老中管轄下の治安維持部隊である組頭から同心までもがやってきており、大騒ぎになっていた。
内藤も現場におり、肢体のすぐ隣にいた。平次は慌てて彼の許へ駆け寄っていく。
「賄吟味役の西山殿だな」
内藤はそう言って、筵に寝かされている仏を拝んでいた。
「平次か……先ほどまで仏を引き上げた者たちと話しておったのだが、これは溺死ではない。明白な殺人だ」
「殺人……」
たしかに侍女も『人殺し』だと言っていた。
平次は改めて、魂の抜けた西山の肉体を見る。
結ってある髷は歪んでいたが、辛うじてかたちを保っていた。
その死に顔は実に悔しそうで、強い悔恨を湛えている。
そして衣服は大きく裂けており、肉の下にある骨までもが露わになっていた。
どうやら刃物でばっさりと斬られ、蓮池濠に突き落とされたのだろう。
「……そうか、貴様の友人であったな」
「……」
平次は何も言わず、ギュッと拳を握りしめる。
未だ、実感が湧いてこなかった。西山が死んだという感覚は皆無だ。
きっとこれは何かの冗談なのではないか、ドッキリか何かなのではないかという思いが強い。
いずれ本物の西山が出てきて、ドッキリの種明かしをしてくれるかもしれない――そこまで考えたところで、止めた。
西山は死んだ、もういないのだ。
それを自覚した途端、平次は腹の奥から胸にかけてを、ギュッと握りつぶされたような感じがする。
目頭がジンと熱くなり、口からは慟哭が漏れた。
内藤が背中を叩いてくれているのが分かる。そうしているうちに、一気に現場が静かになったのを感じた。
顔を上げれば、正之をはじめとした幕僚たちが揃い踏みでやって来たのが見える。
おそらく事態を知らされ、示し合わせの後にきたのだろう。
「む……」
平次が泣き崩れているのを見つけた正之が眉を顰める。
そして幕僚たちを置いてその許へ一直線に駆け寄ると、死体をしばらく凝視した。
水で膨れているため、瞬時に誰か分からなかったのだろう。
しかし平次が泣いていることから、その関係者だとあたりをつけた会津中将は――「もしやあの賄吟味役か」と呟くのだった。
「……大久保は、大久保内膳はどこか」
「いまこちらに向かっております」
「急がせよ」
正之が的確に現場を押さえ、幕閣たちと共に矢継ぎ早に指示を下していく。
江戸城での斬殺事件だ、漏れ出れば幕府の威信にも関わるだろう。ただちに緘口令が敷かれ、通達された。
「最初にこの仏を発見した者は誰か」
「拙者でございます。登城して何ともなしにお濠を見逃したら、仏様が」
「うむ……惨殺されたようだが、濠の近くに血の跡は残っておるか?」
「いえ、誰もまだ発見しておりません。いまぐるっと見回らせておりますが……」
「そうか……」
第一発見者である侍が正之に状況を説明しているが、平次には何となく分かった。
犯人はこいつではない、別にいるのだ――と。
「保科様、大久保内膳でございます」
「よく来た、待っておったぞ」
「は……っ。して、この騒ぎは一体どのような……」
のっしのっしと脂肪を揺すりながら近づいてくる大久保だったが――やがてドスドスと小走りになると、筵の上に寝かされた肢体を見て驚愕の声を上げた。
「こ……これは勝太郎っ! 勝太郎では……!?」
「うむ……そうだ、お主の部下であったな……」
「そ、そんな……かっ、勝太郎……何故……あぁ、勝太郎……!」
激しい動揺を露わに、ドスンと両膝を突いてへたり込んでしまう大久保。
それを痛ましげに見ながら正之は問う。
「昨日、仏と会った者は……誰かおらぬか」
「……俺です」
平次が声を上げ、正之が視線を向けてくる。
大久保や内藤、そして周囲の誰もかもが若い御膳医を見つめていた。
「上様の夕餉を準備している時に……。西山は、内藤様と保科様を探していました」
「儂らをか……?」
「はい、昨晩はそれをお伝えできず……」
「まぁ、おぬしはそれどころではなかったであろうしな」
正之はそう言って、唸る。
「いずれにせよ、明確な殺意を持った者の犯行であることは間違いない。儂と内藤殿を指定したあたり、上様の膳に関わることであろうか……大久保殿よ、お前は何か聞いておるか?」
「いいえ、この内膳は何も聞いてはおりません」
「さようか……うぅむ…」
「ですが、分かっていることがあり申す」
内藤は躊躇なく水死体に手を伸ばす。
そして悔恨に歪む西山の瞳を閉じさせ、一礼した後に言った。
「西山を殺した相手は、しくじったのでしょうな。城のなかで人を殺せば大騒動になり申す。本来であれば、是が非でも死体を回収して隠さねばならなかったはず。それを見越した西山は、自ら濠に落ちたのやもしれん」
「いや、最初から勝太郎の死体を衆目に曝そうとしていた可能性も考えられますぞ」
大久保が悲しみの色に顔をゆがめながら、甲高い声を漏らす。
「可能性はふたつ。ひとつめは勝太郎の仲間を意識している場合。つまり、何かを企んでいた勝太郎に仲間がいれば……これ以上の企てを止めさせようとしていたのやもしれませぬ。ふたつめは、江戸城で敢えて醜聞を起こさせ……その権威を失墜させようとしていた場合ですな」
「いや、それは……ないはずです」
平次は目尻を手の甲で拭う。
そして怒りと憎しみで目を充血させながら言った。
「西山は、保科様や内藤様を探している理由を俺が訪ねた時――言いませんでした。迷惑をかけることを嫌がったんです」
「……」
「この人は、そう言う人だ。仲間を巻き込むぐらいなら自分一人でやる。だから、大久保様が仰ったひとつめの理由は消えてなくなります」
「む……」
「それに、ふたつめの理由も――線としては薄いと考えられ申す」
思考しながら、内藤はゆっくりと口を開ける。
「こんなことを申せば、各々方の怒りを買うやもしれぬ。だが、敢えて申せば――何故、西山が殺されなかったのかを考えねばならぬ」
「……」
「この者は賄吟味役、目立たぬ地味な役柄だ。殺すのであれば、保科様をはじめとした天下に名だたる者を狙わねば……ちと話題性に欠けましょうぞ」
それに、と内藤は続けた。
「西山殿は何かを知っていた。故に殺された。暗殺者が西山殿を殺した理由に、幕府の名を穢そうなどと言う発想はありますまい。おそらくは私情でござろう。城内で辻斬りがあったという可能性は低いはず」
「いずれにせよ、だ」
正之は眼光を光らせながら言葉を紡ぐ。
「此度のことは、決して口外せぬこと。そして気付いたことがあり次第、即座に幕閣の者へ知らせること……以上じゃ」
西山が何も持っていないことを確認した後、西山の死体を担架に乗せて運んでいく同心たち。
その姿を見ながら、平次はギリッと奥歯を噛み締める。
「絶対に、絶対に許すものか……! 絶対に敵はとってやる……!」
平次の双眼は、復讐心と敵愾心に染まり切っていた。




