第26話 意図せぬ転換点。
そうして平次は、徳川幕府の直参旗本へ一気になり上がることになった。
やっていたことといえば、お綱に食事を作って世話を焼いて話し相手になっていただけな気もするのだが――意図せぬ事態とはまさしくこのことなのだろう。
人生何が起こるか分からないものである。
お綱と正之に直参旗本の立場を受けることを伝えた後、平次は『徳川家綱』の名前で発行された証文を受領することになった。
絶対になくすようなことがあってはならない、大切な書類だ。
ちなみに旗本としての知行は、伊豆の300石である。
そこに料理人の禄である米50俵に10両、そして御膳医としての役料が1万石も付加された。
役料のため正確には異なるのだが、一般的に1万石とは、領主が大名と呼ばれるか否かのボーダーラインでもある。
とはいえ、膳医の頃には御典医としての莫大な日給があったことを考えると、長期的には割安に押さえ込まれた感は否めない。
幕府としても上手く人件費を削減したと思っているのだろう。
されどお綱に仕えた半年だけで――既に大衆食堂を開業するための十分な資産を得ている。
それを思えば、今さら役料が減少したところで別に何とも思わない平次だった。
(それにしても、なんだか生活がお綱さん一色になってきてる感がすごいな……)
そう、風呂や厠といった特殊な状況を除き、平次は常に――姫将軍の傍らに控えていなければならなくなってしまっている。
唯一離れる機会があるとすれば、それは食事の支度の時だろうか。
とはいえ、御膳所にまでお綱がひっついてくることもあるので、必ずひとりになれる訳ではない。
このように字面にしてみるとプライバシーも何もないような状態だが、よく考えてみればこの半年間もずっと同じようなことが繰り返されてきていたのだ。
ずっと一緒に居なければならないというのも、これまで平然と行ってきたことが文字化されただけだったりする側面がある。
その点を理解していることもあって、御膳医という将軍べったりな役職も『まぁいいかな』と思っている平次だった。
ただ、これまでと違うのは――夜間もお綱と共に過ごすことになったということだろう。
それは色々な意味で、大きな変化に他ならなかった。
平次は料理人として、お綱に滋養を付けてもらうために強壮効果のある食材をしばしば利用する。
そして同じものを口にすることもあって、平次自身も精力が高められていた。
ひとりの時間があれば上手く発散ができるのだが、しかしこれからはそんな機会も少なくなるだろう。
暴発のリスクは常に隣り合わせになっているのだ。
ちなみに、美人は三日で慣れて飽きると巷では言われている。
だがそれは嘘だ、絶対にありえない。平次はそう確信していた。
男女問わず美人の傍にいると、それだけで嬉しいし、明るくなれる気がする。
慣れて飽きる程度であれば、所詮その相手は美人ではなかった――という証左に他ならないのだ。
事実、平次はここまでお綱と一緒に過ごしてきて、彼女に対して飽きを抱いたことはなかった。
それに、彼女はことあるごとにお礼を言ってくれる。
傍にいてくれて嬉しいだとか、美味しいご飯を作ってくれてありがとうだとか、おおよそそのようなかたちで。
そんな相手を悪く思わないはずがない。
美人とは外見だけでなく、心も含めた者のことを言うのだ。
(これからどうなるんだろうな……)
敢えて言うまでもなく、ふたりの関係は肉体関係の介在しない実にピュアなものだ。
とはいえ、平次も健全な男である。絶世の美女であるお綱に対し、欲情することも間々あった。
そしてお綱も、ふとした瞬間に女の顔をのぞかせることが増えてきている。
御膳医となり、確実に変化するであろうこれからの関係に――平次が緊張とほのかな期待感を抱くのは当然のことだろう。
かくして御膳医としてのはじめての夜が――何事もなく過ぎる。
平次はお綱の傍にいなければならないということで、中奥ではなく大奥で――彼女と枕を並べていた。
大奥は本来であれば、将軍の正室や側室をはじめとした女たちの空間である。
しかしお綱は女性であることもあり、正室も側室も存在しない。
それもあって堂々と、利用者のいない大奥を使えるのだ。
(でも本当だったら、公家から配偶者を迎えて朝廷との関係を深めなきゃいけないはずなのに……その辺りはどうなってるんだろう)
とはいえ、考えても無駄なことだろう。
事情はさておき、お綱には夫も『妻』もいない。それが事実なのだ。
やがて、平次の手を握り締めながら、穏やかな顔で安眠していたお綱がぱっちりと目覚める。
彼女の目覚めを伝えると、侍女たちがわらわらと入ってきて――女性特有の、時間のかかる身支度をはじめることになった。
男とはやはり、色々な意味で事情が違うのだ。
そして平次は、侍女たちと入れ違いになるかたちで御膳所へと向かうことになる。
言うまでもなく、料理を作るためだ。
(それにしても……このことを、西山になんて伝えればいいんだろう)
なんということだろうか。巡り合わせの良いことに、今日は彼が平次の許に――御膳所で必要になる食材を聞きに来てくれる日だった。
ここまであった話をすれば、もしかすると呆れられてしまうかもしれない。
あるいは夢でも見ているのではないかと、御伽噺の類と現実の区別がつかなくなったのかと一蹴されるかもしれない。
だが彼は、きっと、平次のことを祝ってくれるに違いなかった。
西山勝太郎という男は、そういう男なのだ。
「それに昨日、何故か内藤様のことを探してたしな。理由は聞けないにせよ、会えたかどうかは聞いておいた方がいいだろうな……」
そんなことを思いながら、料理の下準備をはじめていく。
しかし西山は、いつもの時刻になっても現れなかった。
食材は既に、事前に手配して貰ったものがあるので調理をする分には困らない。
それにしても、あの生真面目な西山が遅刻をすることなど、これまでにないことだった。
(まさか、急病か……?)
あんなに寒い中で大汗をかいていたのだ、風邪を引いている可能性もある。
不安に思った平次はすぐに侍女を呼び、西山の状況を確認するようにお願いをすることにした。
調理を続け、料理が完成する。西山はこない。
扉が開いた。平次が顔を向ける。そこには侍女がいた、顔を真っ青にした侍女が。
「ひっ、人殺しっ! 御膳医様っ、人殺しでございますうっ!!」
「なにっ!?」
平次は『へっつい』の焔を止めて御膳所のカギを閉め、心の奥底に嫌な予感を渦巻かせながら。――侍女に導かれるまま走り出すのだった。




