PROLOGUE 3/4
そんな江戸時代に転生し、今年で19歳になる。
『安くておいしいレストランを開きたい』という夢からどんどん乖離していく状況を打開する道筋は、何ひとつとして見いだせていなかった。
「まぁ、悩んでも仕方がない。生きているだけでも儲けものだしな……水でも浴びて、さっさと家に帰るか」
いまは8月の中頃。夏の盛りだった。
先程まで道場で稽古をしていたこともあって、平次の身体はむわりと汗臭い。
このまま帰れば、特に母親から顰蹙を買ってしまう――そんなことを思っているうちに、平次は内神田にある桜ヶ池に到着していた。
桜ヶ池は、後に『お玉ヶ池』と呼ばれることになる巨大な天然池である。周囲はおよそ2kmもあった。
だが、19世紀後半になると宅地の確保のために埋め立てられてしまい、地図の上から姿を消すことになる。
その跡地には、かの有名な北辰一刀流の玄武館が建ったりもしたが、それは遠い未来の話だ。
平次はこの天然池で水浴びをして、身体にまとわりついている不快感を綺麗サッパリ落としてから帰宅しようとしていた。
「それにしても……ここら辺は本っ当に何もないよな」
思わずそんな感想が漏れ出る。
まだまだ江戸時代の初期だ。領域全てが市街地化されている訳ではなく、自然も多く残っている。
桜ヶ池周辺もそのひとつだった。岸の周囲は草木も豊かで、水面には蓮の葉がこれでもかと浮かんでいる。江戸の大火は桜ヶ池に害を及ぼすことはなかったのだ。
既にカエルたちがゲコゲコと大合唱をはじめており、夏の虫たちも鳴いていた。とても情緒深い、江戸の原風景と言えるだろう。
(こればかりは、江戸時代に生まれ変わって本当によかったって思えるよな。やっぱりビル街や排気ガスだらけの社会は不健康だからなぁ……)
それに、森のなかである。人目をはばかる必要がなくなるのだ。
平次は手早く着物を脱ぎ捨てて、手ごろな木に引っ掛けた。そして褌も捨て去り、全裸になる。
剣術を修めていることもあり、引き締まった肉体をしていた。肌は良く日に焼けて、水を弾くほど若々しい。誰でも環境さえ整えば、屈強な身体つきになるものである。
その若く壮健な肉体が疾走した。柔らかな若草を踏み締め、大きく跳躍。次の瞬間には、ドボンと大きな水飛沫を上げて桜ヶ池に着水している。
「あー……! たまんねぇ……これがたまんねぇんだよなぁ……!!」
まずは頭頂部まで池に浸かる。すると、髪のなかに籠っていた日中の熱気が水に溶け、消えてなくなるかのような悦楽を感じた。
水面に浮上し、激しく首を振る。そして顔に残っていた水を両手で払ってから、平次は歓喜のため息を漏らした。
汗だくの火照った身体が、水によって冷やされていく爽快感。これが嫌いな人は、あまりいないだろう。
(それに、全裸で池に浮かんでいると……色々なことを忘れられるしな)
平次は全身から力を抜いて、蓮の葉に囲まれながらぷかぷかと浮いていた。
葉の上にはカエルが鎮座し、平次のことを観察している。桜ヶ池のカエルたちは存外に図太い生き物で、人間が危害を加えようとでもしない限り逃げようとしないのだ。
だが、そのカエルたちが一斉に水面へと跳ねた。突如として、ドボンと大きな水音が立ったのである。
(なんだ、俺以外にも来るような奴がいるのか……。まぁ、夏だしな……)
町民の誰かが、寝る前の暑気払いにでもやってきたのだろう。
平次は当初、そう思って気にも留めていなかったのだが――やがて、事態が不穏なことに気が付いた。
(まさか、この感じ……溺れているのか!?)
バチャバチャと、もがくような水音が聞こえてくる。
明らかにおかしかった。絶対におかしかった。助けなければいけない。
すぐさまそう判断した平次は、即座に水音の立っている方向へと蓮の葉を掻き分けて泳いでいく。
すると、やはり、明らかに溺水者とおぼしき影があった。
「おい、大丈夫かっ!?」
だが、返事がない。どうやら意識を失ってしまっているようだ。
まずい、これは非常にまずい。平次は即座に池端へと引き上げようとしたのだが――
「ぐぉ……っ、重……っ!?」
――その、凄まじい重量にびっくりしてしまう。
どうやら着物がすっかり水を吸ってしまっているらしい。
とはいえ、弱音を吐いている暇はなかった。わずか数秒で、人命は助かるか助からないかが決まるのだから。
平次は必死の思いで溺水者の身柄を陸へ引き上げ、その姿を検める。
それは、実に絢爛な着物を纏っている女性だった。間違いなく、大名家か高禄旗本のお姫様だろう。罷り間違っても町人ではない。それだけははっきりと分かった。
「あぁ、くそ……っ、息をしていない……!」
既に時刻は逢魔時。辺り一帯はすっかりと暗くなっていた。
そのため、相手の顔付きをはっきりと確かめることは叶わない。だがしかし、死に瀕している女性を救うことは男の至上命題である。
(背に腹は代えられないか……!)
平次は覚悟を決めた。そしてしゃがみ込む。
それから、顔もよく分からない女性の唇に――己のそれを重ねた。
無論、キスをしている訳ではない。人工呼吸である。
唇を重ねた瞬間に感じたのは、池の水独特の生臭さだ。
だがその臭いでも打ち消し切れない、どこか不思議な香りがした。男の芯を灼き焦がすような、そんな幽香である。
ちなみに、人工呼吸の際には相手の鼻を摘まむ必要があった。吹き込んだ息が漏れ出ないようにするためだ。
当然、平次も身元不詳なお姫様の鼻を塞いでいる訳だが、そうしていると、彼女の鼻筋がしっかりと通っていることに気付かされる。
(所謂、平たい顔族じゃないってことか……)
そんな失礼なことを思いながら、人工呼吸を繰り返すこと数回。
ようやくお姫様の喉奥から水が吐き出されてきた。
意識が戻り、咳込みはじめた彼女の顔を横向きにする。気道へ水が入らないようにするためだ。
それから、平次は憔悴している女性の着物に手を掛けた。
無論、邪な意図がある訳ではない。濡れた衣服を着せたままにしていると、ただでさえも衰弱している溺死者の体力を――著しく低下させてしまうのだ。
現代においても、溺水者を保護した際には衣服を脱がした後、毛布などで包むことが推奨されている。
「あ……うぅ……っ」
お姫様は荒くぜいぜいと肩で息をしながら、呻き声を上げている。肌の艶やかさや体格から判断するに、年齢は18歳程度だろう。平次とさほど変わらないはずだ。
そして、先程の人工呼吸の際――お歯黒をしている女性独特の金属臭さはなかったので、未婚であることも間違いなかった。
(嫁入り前のお姫様の唇を奪って服を脱がしてるとか……冷静に考えれば打ち首ものだよな。いや、まずはこの人を救わなくては。それで殺されるようなことがあれば、その時はその時だ)
決意を固めた平次は、帯や紐を手慣れた動作で順に解いて脱がし、襦袢を割り開く。
そして衣類から両腕を外させると、腰巻や足袋も含めて一切合切を脱がし取り―― 一糸 纏わぬ、生まれたままの姿にさせるのだった。
そう、全裸である。