第25話 変わりゆく平次の立場。
日本の実質的支配者であり、武家の頂点に君臨する征夷大将軍。
その側近くに控えて信任を受けている男。
それが武士でなく町人であるという事実は、武家政権の体面上――極めて不都合な事実のようだ。
正之が語った内容は、それを赤裸々に告白するようなものだった。
「というのもな、幕閣の老人共がうるさいのだ。上様のお傍にいるものは、せめて旗本でなければ話にならぬとな。おぬしに直参旗本の身分を与える理由は、まさしくそれだ」
そう話す会津中将の顔には、色濃く疲労の色がにじみ出ているのが見て取れる。
それをみて平次は思った。きっと、自分の処遇を巡って相当に幕閣の面々とやり合ったのだろうなと。
お綱もその場に同席していたらしいが、基本的に論戦を行うのが正之だ――ということを想像するのは難くない。
「とはいえ、旗本の身分を名乗るのは今だけでも構わぬ。おぬしが大衆食堂をやはり開きたいというのであれば、その時に旗本の地位を返上すれば良いだけのことだ。膳医としてこれからも上様にお仕えするための便宜的な措置と考えよ」
その言葉を聞いて、平次はほっと胸を撫で下ろす。
どうやら旗本の地位を得ても、後で返上さえすれば問題なさそうだ。
たしかに、貧窮した武士のなかにはその地位を捨てて帰農する者もそれなりにいる。
そのことを考えれば、何も不思議なことではないのかもしれない。
我ながら下手に身構え過ぎていた感もあったな――と少し反省する平次だ。
とはいえ、この件が平次の頭上はるか彼方で――当事者である平次その人へ、何の相談もなしに行われていたことは見逃してはならない事実だろう。
そんなことが平然と行われた背景には、きっと、平次がこの打診を断らないという読みがあったからに違いない。
将軍親臨の下で行われた幕閣の決定に抗うということは、すなわち城を去らねばならないことを意味しているからである。
そして悲しいことに、その読みは寸分の狂いもなく正確に当たっていた。
平次はもう、お綱の傍を離れることができなくなっている。これは否定し難い事実だった。
当然だろう。自分の作った料理を嬉しそうに食べてくれて、懐いてくれて、全面的に信頼してくれる――そんな相手の傍から望んで離れたがる男がいるだろうか。否、いるはずがない。
しかも平次はここ最近、自分が開いた大衆食堂で――不慣れながらも一緒に店を切り盛りするお綱の姿を夢想することが多くなっている。
色々な意味で末期症状であり、救いようがない。
依存されているようでいて、そのくせ依存しているのは平次の側かもしれなかった。
「それに合わせ、いままでおぬしには城と城下の自宅を行ったり来たりしてもらっていたが……あれも止めてもらうことになる」
「えっ?」
思わず間抜けな声を発した平次に、正之は失笑する。しかし構わず続けた。
「言ったであろう、常駐して貰うと。おぬしには上様の行く場所来る場所、そのすべてに付き従って貰うことになる。おぬしは剣の達人だと聞いておるし、いざとなれば上様をお守りする楯にもなろう衣食住ならぬ医食守、その役目を果たすことを儂らは期待しておる」
なんだそれは。平次はあまりにも重い負担について、抗議の声を上げる。
「無礼を承知で申し上げますが、荷が重すぎはしませんか」
「……そうだな」
途端にため息を漏らす正之だった。
「儂もそう思っておる。交換無しでずっと付き従うというのも狂気の沙汰だろう。だがこれもな、すべてはおぬしと上様が共にいることを正当化するための措置よ。それを分かって貰いたいものだな」
「……えっ?」
「気が付かんと思っておるのか、たわけめ」
会津中将は呆れた声を発し、お綱はその麗しい顔をそっと伏せた。
なにやらとてつもなく嫌な予感がする。そしてそんな予感は、得てして当たるものだ。
「ひとりではなく複数の……それも数十人単位の侍女たちからな、おぬしと上様が……ことあるごとに必要以上に身を寄せ合い触れ合っておるという報告が上がってきておる」
「あ……っ」
「人払いをしたからといって油断しておったのだろうが、声と言うものは存外に響くものよ。おぬし上様の睦み合うようなやりとりを知らぬ侍女は、もはや江戸城におらぬと思え」
正之は深々と、これ見よがしな吐息を漏らす。
「おぬしも既に知っておろう。上様は、いずれは弟君に征夷大将軍の位を譲位される御方。そして夫を持つことをご自重されるように『お願い』されている御方でもある。その上様が町人と親密な仲にある……というのは極めて不味いことなのだ」
もはや何も言えない平次だった。
そしてもうひとりの当事者であるお綱も、顔を真っ赤にして押し黙っている。
幕閣の面々から一体なにを言われたのか、少し気になるところだ。
「おなごはおしゃべり好きだ。あることないこと、様々なうわさが流れよう。その時に、上様のお相手が直参旗本と無位無官の町人のどちらが良いか……言うまでもなかろう。おぬしには何が何でも、この話を受けてもらわねば困るのだ」
正之の話でようやく理解することができた。
つまるところこれは、極めて事を急する問題であるわけだ。
現状維持を続ければよろしくない方向に向かうことは、流石の平時でも理解することができる。
(だけど、変な話だな……)
平次はそっと頭を上げた。
正之の話を聞いて、気になることが出てきたのだ。
「保科様、お聞きしますが――ならばどうして、俺をお斬りにならないのですか? 俺のことを『不届き者を斬った』と処断した方が、幕府としても体面も良いと思いますし……」
「この、たわけめ……本気でそれを言っておるのかッ」
正之だけではない、内藤すらため息をついていた。
そして会津中将は――くわっと目を見開き、片膝を立てて一喝する。
「おぬしを斬れば、どうなると思う……!? もはや上様が後を追いかねんわっ! そこまで行ってしまっておるのだ、もはや後戻りなどできるものかッ!!」
おそらく、事前にたっぷりとお綱から事情を聴取したのだろう。
達観と諦観の混ざり合った老人の叱責が、ガンガンと中奥に響き渡った。
そこでようやく、平次は理解する。
彼が疲れた顔をしているのは、決して幕閣の面々とやりあったからではない。
平次とお綱の関係に鑑みた上で、どう対応したものかと頭を悩ませた末の疲労だったのだ。
(あぁ……なんだかもう、色んな意味で逃げ出せなくなってるんだな……)
かつて平次を縛っていた本舩町とのしがらみ。
それと似たような状況が、平次を取り巻いているのが分かった。
とはいえ、決して不快ではない。
縛られている相手が、自分も行為を抱いている絶世の美女たる姫将軍ともなれば――不快になる要素がなかったのだ。
「……で、どうする。この話を受けるか受けないか、即急に決めるが良い」
正之が疲れ切った顔で聞いてくる。
もとより、平次には選択肢など残されていなかった。
一時的になるか恒久的なものになるのか、それは分からない。
しかし少なくともお綱の傍にいる限り――旗本としての立場がなければ、これから色々と面倒臭いことになりそうだ。
旗本になることで武家社会の権力編成に組み込まれてしまうことを理解しつつも、平次は正之とお綱に承諾の意を表明するのだった。




