第24話 様々な予兆と気配と。
内藤に案内された若衆歌舞伎は、公演は何の問題もなかった。
公演後こそが問題なので会って、興業そのものは非常に楽しく観劇できたと言ってもいいだろう。
江戸時代に転生してこの方、父親の手伝いで往診に行ったり、剣の稽古をしたりと――日々の暮らしに忙殺され、平次は娯楽らしい娯楽に興じることができずにいた。
それもあってか、内藤のようなコアなファンにはなれないだろうが、また行ってもいいかなと思う程度には楽しむことができたのである。
「――まぁ、若衆歌舞伎は奉行所から公演禁止の沙汰が下っておるのだがな」
「は!?」
「慶安5年(1652年)の頃だったが……何だ、知らぬと申すか」
だがしかし、興業の後……
内藤とふたりで本舩町の北にある瀬戸物町の茶屋に入って感想を伝えた矢先、返された言葉がそれだった。
やはり風紀を乱すものとして、営業禁止処分が下されているらしい。
(要するに俺は、幕府の禁止する場所に、あろうことか譜代旗本に連れていかれたっていうことか……)
現代であれば、おそらく不祥事としてマスコミに大々的に伝えられ、更迭騒ぎになりそうな内容である。
しかしながら、内藤の行いこそが江戸らしさ――というよりも前近代社会の特徴なのだった。
営業禁止の沙汰が7年前に布告されているにもかかわらず、日本橋という江戸の中核地域で若衆歌舞伎が営業を続けているということ。
その背景には江戸の民の、圧倒的な支持があるのだ。
そして行政権力は、民の圧力を前にして――易々と強硬手段をとることはできないのである。
行政権力は、結局のところ支配者の論理だ。歴史的においても、住民たちローカル社会の論理や志向とは異なることが大きかった。
そして近代や現代という社会は、支配者がローカル社会の論理を――戦争や地震などといった大事件を契機にして屈服させて形作られたものである。
一度潰されたものは、二度と在りし日のまま再生されることはない。
もしかすると内藤は、そんな文化のひとつを平次に見せたかったのかもしれなかった。
「それにしても平次、貴様はなかなか美味い汁粉を出す店を知っておるのだな」
ほかほかと湯気が立ち昇る汁粉を食べながら内藤は言った。平次は苦笑する。
「実は以前、この茶屋の二階で逢引した男女が……痴話喧嘩から暴力沙汰を起こしまして」
「ほう」
「いや、凄かったですよ……。なにしろ女の方は水汲みを生業にしていましたから、腕っぷしが強くて。男の金的をこう、ぎゅっと握り潰しましてね」
「……」
ぶるり、と内藤は背を震わせた。武人とはいえ、内容的に仕方がないだろう。
もしかすると、経験があったりするのかもしれない。
「俺は本道医(内科医)なんですが……往診の帰りに偶然、外科医を探していたこの店の娘さんに捕まってしまいまして」
平次はそう言って、店の奥に手を振った。
今年で16歳になる小奇麗な看板娘が、それに気付いて顔を真っ赤に染める。
お盆で顔を隠してぺこりとお辞儀をすると、急いで店の奥へと引っ込んでしまった。
「……なるほど、それでこの店を知ったのか」
「ええ、そういうことです」
汁粉のなかでごろごろと転がっている団子を匙で掬い上げながら、平次は言う。
「ここの団子は四面に焼きが入れてあるんです。だから汁粉のなかに入れてもすぐにふやけないし、どろどろに溶け出さない。団子自体にも弾力がありますから、焼きがあると香ばしさも加わって非常に美味しいんですよ」
「ううむ、たしかに普通の店で出される団子は表裏しか焼いておらんな。側面まで焼くとなると、なかなか珍しいかもしれん」
内藤が美味しそうに汁粉を食べているのを見て、平次は熱々のお茶を飲んだ。
決して濃くはないが、身体がぽかぽかと温まってくる。
(お綱さんは朝夕の2食しか食べないけど、これからは副食の扱いで菓子を作って出すのもいいかもしれないな……)
しばらくそうして茶をしばいていると、遠目に西山の姿をまた見ることができた。
瀬戸物町の通り向こうは駿河町である。彼は裏店に続く細道――現在人的な感覚で言えば裏路地から出てきて、周囲を警戒しながら大通りへと戻っていった。
(まぁ、生真面目なあの人のことだ……商談でもしてきたんだろう。泥棒みたいな真似をするはずがないからなぁ)
そんなことを思いながら、看板娘が『お代は要りませんから』と出してくれた団子を噛み締める。
自分の財布に負担がかからないスイーツほど美味しいものはない。
◆
その後、平次は何事もなく江戸城へと帰還した。
内藤は一旦家に帰ってから支度を整えるというので、城外で別れている。
時刻は申の刻(午後4時)
いつものように調理をはじめた平次だったが、やがて1時間ほど経った頃、御膳所の戸を叩く者がいたので応対することにした。
「平次か、聞きたいことがある」
「どうしたんだ、こんな頃合いに」
さっきまで城下町にいたけど、用事は済んだのか?――と聞きかけて、平次は言葉をそのままそっくり飲み込んだ。
親しき仲にも礼儀あり、とも言う。詮索のし過ぎは良くないだろう。
何よりも、西山が相当に焦っているように見えたのだ。
「鬼取役の内藤様は登城されているか?」
俺は首を傾げてみせる。
自宅に一度帰ったので、今はどうなのかは良く分からない――そう応じると、西山はその端正な顔をしかめた。
ずっと走り続けてきたからなのだろうか。この寒さにもかかわらず、大汗をかいているのが気にかかった。
「では、保科様は?」
「いると思うが……今日は上様や幕閣の方々と協議があるとかで……」
「クソッ! なるほど、分かったッ!」
途端、身を翻す西山。平次は慌てて声を掛けた。
「そんなに急ぎの用件なのか? 俺から何か伝えておこうか?」
「……お前は、巻き込むわけにはいかん」
御免。そう言うと、西山は一礼して走り去って行ってしまう。
一体何だったのだろうか。首を傾げながらも平次は調理に戻り、3人分の食事を準備した。
そうしていると、いつものように侍女たちが食事の時刻を伝えにきて――膳の運搬を手伝ってくれる。
(今日はタイのつみれ汁に、ブリとダイコンとネギの煮物。それに片栗粉と卵を衣にしてごま油で揚げたカキフライを作ってみたから……喜んでくれるといいんだけど)
そんなことを思いながら、お綱の待つ部屋へ向かう。
だがそこでは驚きが待っていた。姫将軍と正之が清掃をした上で、平次を待ち構えていたのだ。
城外で別れた内藤も、しっかりと身なりを整えていた。
彼が家に戻ったのは正装するためだったのだろう。
お綱はいま、髪の毛を髷で結うのではなく――垂髪にしていた。
そして平額・釵子・櫛と礼装用の髪飾りを付けている。
服装は俗に言う十二単であり、華やかだがとても重そうだ。
着物の柄も紅白を基調としたものに、金の葵紋が刺繍された黒の懸を重ねている。
非常に派手で、非日常な装い。
されどお綱がそれを着ている思うと、違和感はすぐに消え去ってしまう。
元々からして天女のような女性である。豪華な服を着たところで、それに打ち負けないだけの美しさを誇っているのだから。
膳を置くや否や、ササッと去って行ってしまう侍女たち。
そして取り残された平次はひとり、動揺していた。上座に座っている美しいお綱を前にして、どう動いていいのか分からなかったのだ。
「これ、そのように挙動不審な態度を取るものではないぞ」
見かねたのか、正之が苦笑する。
彼はまさしく、高校の教科書に乗っている大名のような装いをしていた。
(いや、保科様は会津23万石の太守だし、それは当然なんだけど)
内心でセルフ突っ込みを入れていた、そんな時――
「そう所在なくされると、威厳に関わるぞ。これよりは堂々としてもらわねば困るのでな」
――正之はゆっくりと、そう告げる。
それを聞いた途端、平次は自分がいつの間にか後戻りすることのできない場所に立たされていることを悟った。
将軍お抱えの膳医。
その職能は、高禄旗本に準じる身分を有した御典医と、御家人が務める御膳所料理人の立場を兼ねるものだ。
これを半年の間、問題なく勤め上げ、お綱が風邪を引いても短期間で復調させられるという成果も出したこと。
要するにそれは、ふたり以上で成すべきことを――たったひとりで問題なくこなしてしまったことを意味している。
そしてこれを幕閣の者たちに認識された時点で、称賛の対象となった時点で、もはや平次には逃げ場など残されていなかった。
幕府の安定性を図ろうとする彼らが、平次を抱え込もうとすることは当然のことだからである。
「例外のことになるが、これからおぬしは――直参旗本として、新たに家を興してもらうことになる。それに伴い、『膳医』から『御膳医』へと役職を改め、上様の側近くに常駐して貰うことになるだろう」
だから困るのだ、これからは常に堂々として貰わねばな――正之はそう言って平次を見つめる。
「で、ですが……それは……」
平次は思わず言い淀んでしまう。
逃げ場がないとはいえ、自分がその状況を受け入れることができるのだろうか――というのが正直な思いだ。
そもそもからして、平次の願いは料理人として大衆食堂を開くことである。
だがしかし、武士である旗本になると、それも困難になるのではないか――そんな不安が平次のなかに渦巻きはじめていた。




