第23話 内藤と冬の日本橋のにて。
平次の丁寧な看護の甲斐もあってか、20日に体調を崩したお綱は23日には復調を果たしていた。
風邪は基本的にウイルス感染である。
そして現代社会においては、この病気を直接治すことができる薬は存在しないと平次は聞いたことがあった。
そう言った意味では、平次の膳医としての職務は適切かつ的確なのだろう。
病気を治すには、結局、栄養あるものを食べさせて休養を取らせる――それしか方法はないのである。
ちなみに、発病3日目にして早くも復調したお綱のことを聞いて、一番驚いたのは江戸幕府の幕僚たちだったらしい。
というのも、彼女は一度病気を患うと、最低でも2週間は寝込むのが普通だったという。
そのため短期間で姫将軍を復調させた平次の有用性を、ようやく幕閣の面々も認めはじめたらしい――正之はそのように教えてくれた。
だがその事実は、平次が幕府の上層部に期待されていなかったことを意味している。
要するに、彼らからすれば『期待していなかったが存外に当たりだった新人』という訳だ。
予想し得たことだが、江戸城の医食の組織改編と平次の登用は――城を抜け出して死にかけたお綱に対する、ガス抜き的な対応でしかなかったのだった。
平次に対してまともに気を払ってくれていたのは、きっと、幕閣内には正之以外に誰もいなかったに違いない。
「保科様は大政参与、あくまでも先の将軍家光公の御遺言によって、上様をお支えして下さっているだけに過ぎませぬ。その立場の特殊性故に、幕閣の主流派とは考え方や物の見方が異なるのであろう……拙者はそう考えており申す」
江戸城の外で吹き荒れる寒波。
2月と言うこともあって寒く、平次に語り掛ける内藤の吐息は白い靄となっていた。
現在の時刻は巳の刻(午前10時ごろ)。
いつもであればお綱の話し相手になっている平次だったが、今日は幕閣の者たちと話をするということで夕餉の支度までお役御免の自由の身となっていた。
(なんの実権もなく、象徴的な存在でしかない彼女が政をしようって言うんだから、何か大切な内容なんだろうな……)
それにしても、である。
回復したばかりのお綱をすぐに引っ張り出すあたり、幕閣の者たちは本当に容赦がない。
平次はそんな不平をこぼし、内藤は応じた。
「幕閣に列する者たちは、たしかに上様が任命された者たちであり申す。そしてその罷免も上様の御一存ひとつで可能――とはいえ、それが簡単に行えるのであれば苦労はない」
「つまり、できないと」
「左様」
大久保はそう言って、真っ白な靄を盛大に吐き出した。
「現在の幕閣には、幕府の権能を最大限に高めることを至上命題とする、極めて有能な者たちが揃っており申す。そして彼らはいずれも無類の忠臣であることも間違いない。いつか貴様にも申したように、上様ではなく幕府の忠臣であるという意味においてだが」
故に、幕府の頂点にあるお綱は彼らを罷免できないと言う訳だ。
彼らを排すれば、ただちに日本は乱世に逆戻りしかねないからである。
つまるところ事態は極めて複雑なのだ。
何の権限も持たない平次だったが、しかし行政官僚が主権者を蔑ろにする構図は――割とどこでも起こっていそうだなとも思っている。
「とはいえ、そのような話をしていても詮なきこと。我らは我らの務めを忠実に果たし、上様をお支えするしかない」
「まぁ、そうかもしれませんが……」
「うむ、それに平次殿にとっては久々の休暇であろう? このように気の詰まる話を続けたところで仕方あるまい」
内藤はそう言って、平次を先導して歩く。
どうやら今日は、全ての費用を彼持ちで遊びに連れ回してくれるらしい。
お綱の食事を作るために最低でも申の刻(午後4時)には戻らなければならないが、それを差し引いても有り難いことだった。
「日本橋といえば、これまでは東に進んだところにある吉原遊郭の近場であったが……先の大火によって移転しており申す。となれば、若衆歌舞伎であるが……」
「内藤様……俺は、その……衆道には興味は……」
ちなみに若衆歌舞伎とは、読んで文字の如く、若い男たちが行う歌舞伎のことである。
江戸初期、日本橋の界隈では若衆歌舞伎の芝居小屋が点在していた。
そして、その小屋の傍には必ず茶屋がある。
何故かと言えば、若衆歌舞伎の役者である少年たちは――役者であると同時に男娼だからだ。
茶屋の2階は現代のラブホテルのような場所になっており、パトロンたちが興業を終えた少年たちを連れて行くのだった。
このパトロンたちは、基本的に男である。
この時代、美少年や男の娘に熱を上げていたのは、女性よりも男性だった。
そして若衆歌舞伎の少年を寝取った寝取られたという痴話喧嘩が頻発し、武士が刀傷沙汰に及ぶこともザラだったのである。
「もしや……その、内藤様は男色を……?」
「うむ、武士であり申すからな」
平次の問い掛けに、堂々と返答する内藤。
そういえば内藤夫人は随分と幼い外見をしていたな――と思い出し、もしやこの鬼取役はロリコンにしてショタコンという業の深い男なのではないか、と平次は震えた。
とはいえ、それを口に出すことは憚られる。なにしろ、江戸時代は男色がふつうに行われていたからだ。
たとえば女性と交わることを禁じられている僧侶たちは、十中八九、美少年を囲い込んで愛人にしている。
同性に対する恋愛感情を露わにし、公言したり態度に示したりすることは、日本人にとって普通のことだったのだった。
現代のような、恋愛は男女のみというスタンダードモデルが日本で出来上がったのは――あくまでも明治維新後の、急激な西洋化の影響でしかない。
従って、江戸時代の初期に生きている内藤が、小さくてかわいい男の娘に熱を上げていても、時代的に何らおかしくはないのだろう。おそらく、きっと、たぶん。
(まぁ、俺も近所の年上連中とか僧侶とかに誘われたことは何度もあるしな……やらなかったけど)
そんなことを思っているうちに、日本橋に到着。
江戸の中心がここである以上、遊びの中心もまた同様だった。
大火によって一度は全てが焼失してしまったとはいえ、この地域は凄まじい地域で復興をとげていたのである。
どこに連れていかれるのか少々不安になりはじめていた平次だったが、人ごみのなかに見知った顔を見つけて思わず気を緩めてしまう。
「西山! おーい、西山っ!」
それはまさしく、年上の友人にして賄方吟味役の西山勝太郎。
背が高く顔立ちも良い彼は、往来のなかでも良く目立つ。
しかし彼は平次には気付かず、北に向かってすたすたと歩いて行ってしまった。
どうやら駿河町あたりにでも行くつもりらしい。
「平次殿、見てみるがいい!」
「え……? はぁ……」
西山の後姿を追っていた平次だったが、不意に大久保に声を掛けられて視線を外す。
彼は、本来であれば厳つい顔付きをしている旗本だ。
しかし今の彼は、歌舞伎小屋の前で客引きをしている美少年を指さして――だらしなく頬を崩している。
「あれが、拙者がここ最近で最も推しており申す、『翔鶴座』の役者でな……『お松』と言うのだが、これがなかなか良い声で鳴きおるのだ」
「良い声……鳴く?」
何やら危険な香りを感じ、平次は思考を停止する。
そして『翔鶴座』なる修道歌舞伎小屋へずるずると引きずられながら、もう一度、大通りを見渡した。
西山の姿は、もう、どこにも見ることができない。




