第22話 風邪気味のお姫様。
「けほっ、けほっ……」
亀丸屋の裏店屋敷で醜悪な騒動が巻き起こっていた、まさしくその時。
江戸城で将軍が寝起きや政務に使用する『御座之間』ではなく、大奥の『御小座之間』。
すなわち男子禁制のその部屋で、お綱は病に倒れて臥せっていた。
姫将軍の透き通るような肌は、発熱して紅潮している。
彼女は純白の着物を纏い、敷布団の上で寝かされていた。
身体の上には、分厚く上質な着物が掛布団として掛けられている。
ちなみに、江戸時代には敷布団がようやく大々的に登場したのだが、現代的な掛布団はまだなかった。
夜着という厚手の着物を被って寝るのが普通だったのだ。
「けほっ、けほっ……平次様、へいじさまっ……」
風邪を引いてうなされ、寂しくなったのだろう。
お綱はうわごとのように、己の膳医の名前を呼んでいた。
そのタイミングで平次が部屋のなかに、お盆を持って入ってくる。
背後に続く侍女は、幾重にも布で保護した水差しを携えていた。
「どうしましたか、お綱さん」
侍女が自発的に室内から去り、ふたりきりになると――平次はうなされているお綱の顔をそっと覗き込んだ。
こういった状況は、もう珍しくない。
ともに私語した半年の月日の間で、ふたりだけになることは、もはや恒常化しつつあった。
それだけでなく、色々と変わったこともある。
そのひとつが、平次の言葉使いだった。
ふたりきりの時限定で、お綱に対し、必ずしも敬語を使わなくなっていたのである。
「たすけて、たすけて……あぁ、へいじさまぁ……っ」
うなされている姫将軍の枕元に座り、額に浮かんでいる汗を濡れ布で拭っていく。
すると、ひんやりとした感覚で覚醒をうながされたのか――彼女はゆっくりと瞳を開いた。
そして顔を僅かにそらして平次の姿を認めると、安心したような顔を見せる。
「あ……平次様、平次様……っ」
「大丈夫か、随分とうなされていたみたいだが……」
平次が優しい声で尋ねると、お綱はそっと夜着の下から真っ白な手を差し出した。
白魚のようなその手を握り締めると、平次は擦り込むように告げる。
「安心してくれ、俺はここにいる。お綱さんの病気は、俺が絶対に良くしてあげるから」
「ほんとう、ですか……?」
「ああ、本当だ。お綱さんの協力があれば……だけど」
平次はゆっくりと、掛布団替わりの夜着を剥ぐ。
それから彼女のふとももの上に四脚の食台を置いた。料理の入った器をそこに移してから、平次はお綱の身体を支え起こす。
汗の甘酸っぱい香りが姫将軍の襟元から漂い、思わず胸が高鳴ってしまう。
「あぁ……平次様、わたくし……寒くて」
自らを抱きかかえている青年の胸に、そっと上体を預けながら――甘えた声を漏らす。
彼女は数え年換算で19歳になる。
現代のように誕生日を起点にして年齢を換算すれば、まだ18歳ということになるだろう。
(なんとなく、18歳と19歳って……こう、差があるような気がするんだよな。上手く言えないけど)
そんなことを考えながら、平次は咳込むお綱の肩や背中を優しく撫でた。
彼女もそれを当然のすきんしだと思っているのか、特に咎め立てする気配はない。
「大丈夫、ちゃんと食事をとれば改善するし……風邪の治りも早くなるから」
「ごはん……」
「だけど、食べられるか? 辛くないか?」
「少し、なら……」
お綱は儚げに微笑む。それを見た平次は、彼女を抱く力を強めた。
「あぁ……平次様、少し……痛いです」
「あっ、ごめん……悪かった」
「いえ、構いません……」
くてっと全身から力を抜いて、お綱は平次に身を任せてくる。
数え年で11歳の時、大人たちの政治的な事情によって征夷大将軍に祭り上げられたお姫様だ。
彼女にはこれまで甘えるべき相手がいなかった。あるいは甘やかすような相手がいなかった。
その甘やかしのポジションに、現在、平次が上手く填まり込んでしまった――という訳である。
自暴自棄になって城を抜け出し、結果として死にかけたお綱。
その命を救った後、平次は彼女のためだけに料理の腕を振るい、そして病気になれば今のように看護をしてきた。
箱入り娘なお綱が平次に心を許し、甘えるようになったのは――ある意味で当然のことだったのかもしれない。
男のすることなすことが、これまで抑圧されてばかりだった少女の心の琴線に触れては掻き乱し、結果として麻薬じみた多幸感で胸をいっぱいにさせてしまうのである。
「わたしは、貴方様になら……傷付けられても、わたくしは……」
そんな呟きをもらし、途端に顔を伏せてしまうお綱様。
その顔は真っ赤に染まっていた。きっと風邪以外の理由もあるのだろう。
彼女の細い指先が、平次の胸元をぎゅっと握り締めていること。それが彼女の心を暗示しているのかもしれない。
そして平次の側も、現状を甘受している時点で――明白に気持ちを露わにしていた。
だがしかし、それは、絶対に口に出してはならない感情である。
出した瞬間に、お互いの関係は取り返しのつかないところにまで進んでしまう――そんな予感があったからだ。
「お綱さん、まずは食事の前に……このお茶を飲んでみて欲しいんだ」
侍女が運んでくれた水差し。そこに入っていたのは温かいお茶だった。
しかし、ただのお茶ではない。出された湯呑にそっと注がれた液体を眺めているうちに、お綱は静かに吐息を漏らしていた。
「とても……良い香りが致しますね。わたくし、鼻がうまく利きませんけれど……それでも分かります。いったい、何をお使いになっているのですか?」
「春菊さ。お湯に葉をくぐらせて、香りを移してあるんだ」
「春菊……ですか」
お綱はそう言って、平次の胸をそっと撫でる。
「あれは、とても苦みが強かった記憶がありますけれども」
「たしかに、春菊は苦い野菜かもしれない。だけど、それは過熱し過ぎれば――の話なんだ。湯にくぐらせるのは五秒ほどでいい。それだけで十分に、春菊の匂いと滋養を湯に移すことができるんだ」
姫将軍を抱いたまま、彼女の口元へそっと湯呑を近付けていく。
「席を和らげて、胃腸の働きを良くしてくれるはずだから……ゆっくりと飲んで欲しい」
「はい……」
熱すぎもせず、ぬるすぎもせず。まさしく適温な春菊茶を、お綱はこくりこくりと飲んでいく。
そして湯呑の中身を干した時、ほっと幸せそうなため息を零した。
「とても、優しい味がいたしました。鼻がつまっていても分かるほどに香りが強くて、ですがお下品ではなく……心がほっと落ち着きます」
「もし嫌でなければ、もっと飲んだ方が良い。風邪を引いた時は、とにかく水分をこまめに取った方がいいからね」
「でっ、ですが……」
お綱は恥ずかしそうに囁く。
「飲み過ぎると……そ、その……お厠に行きたくなってしまいますし……」
「行けばいいじゃないか」
平次がそう言うと、姫将軍は俯いて身を縮こませながら言った。
「でも、いまは人払いをしていますから……お厠に連れて行って下さる方は、平次様しか……」
「あぁ、なるほど」
彼女の言いたいことを、すぐに理解する。
お綱を診療所に担ぎ込んだ時、母親も言っていた通り――この姫将軍は自分で用を足すことができず、誰かに手伝ってもらわなければならないのだ。
平次は苦笑しながら言った。
「別に構わないけどな、俺は」
「で、ですけれど……平次様は殿方で……! わたくしは嫁入りすらしていなくって、あの、その……夫でもない方に拭いて頂くのは……っ!」
「大丈夫、患者の下の世話をするのは慣れてるから」
「え……っ」
姫将軍の顔から羞恥の色が消え、口を栗のようなかたちに開いてぷるぷると震えはじめる。
どうやら自分という存在を、不特定多数のなかに配置されたことにショックを受けてしまったらしい。
そんな彼女に平次は優しく語り掛ける。
「お綱さんには、早く風邪を治してもらいたいんだ。君が辛そうにしている姿は、あまり見たくないから」
「平次様……」
途端、また嬉しそうな顔をするお綱だった。
実に現金な性格をしている。
「実は先ほど、俺の友人が手配して、身体に優しいものを調達してきてくれたんだ。この春菊茶の春菊も、食台の上にある料理の材料も、すべて彼が納品してくれたものになる。君ひとりの身体じゃないんだ、早く治さないとな」
「さっき……ですか? 今は雪が降っておりますけれど、まさか……そのなかを?」
平次が頷けば、じわりとブラウンの瞳に大粒の涙をにじませるお綱。
悪天候のなかでも自分のために働いてくれる人がいる。その事実を改めて実感し、感激しているのだろう。
「そうですね……早く、健康を取り戻さないと……。わたくしだけの問題では、ありませんものね……」
姫将軍は目元の涙を指先で掬い、微笑んだ。そんな彼女に、平次は首肯してみせる。
それから、食器の上にかぶせていた蓋をとる。
もわっと美味しそうな湯気と共に現れた粥を見て、お綱は幸せそうな吐息を漏らした。
椀のなかに盛られているのは、ネギとダイコンの葉、そしてヤリイカの細切れが入った卵粥。
粥の真ん中には甘辛いタレと絡めたウナギの蒲焼を細かく刻んだものが盛られており――食欲を誘う、香ばしい芳香を放っていた。
ネギはかつて彼女に振る舞ったように、風を引いた際には最適な食材である。
そして旬を過ぎていたあの頃とは違い、今まさしく旬を迎えている。採用しない手はなかった。
ちなみにこの時期に旬を迎えるダイコンは、しばしば無視されがちな葉っぱの部分が大事な部分になる。
というのも、ここには風邪を引いた際に取らなければならないビタミンC、そしてカリウムなどが豊富に含まれているのである。
イカには人体の胎内環境を正常な状態に修正するタウリンが豊富に含まれており、いまのお綱には積極的に採ってもらいたい魚介類と言っても良い。
細切れにしたのは、彼女が食べやすいようにするためである。
そしてウナギは言わずもがな、スタミナを付ける際には最適だろう。
脂が強いため量は押さえておく必要があるが、その甘辛いタレと併せて食欲を増してくれるに違いない。
「お綱さん、熱いから気を付けて――」
「あーん」
――食べるんだぞ、と告げようとしたところで言葉に詰まる。
というのも、我が姫将軍は自分で食べるつもりがまるでなかったのだ。
お綱は今、その清楚な唇を開き、ぬらぬらとぬめる舌と口腔を曝け出している。
その姿はまさしく、母親の給仕を待つ雛鳥を思わせた。
「……仕方ない」
平次は匙で卵粥を掬う。
米粒ひとつまで蕩けるように煮込んだ、重湯に近い粥である。
味付けは、海老と昆布の併せ出汁に塩を加えたもので、そこに唐辛子を隠し味程度に刻んでいた。
「ほら、お綱さん」
平次は救った粥の上に、ちょこんとウナギの細切れを乗せている。
ほかほかと湯気を立ち昇らせている、黄金の粥とウナギの甘辛焼き。それにふーふーと息を吹きかけて冷ます。
「はい、あーん」
「ん……っ、ふ……」
姫将軍は差し出された匙をぱくりと唇で挟み込み、卵粥を口腔内へと収める。そして――
「あぁ……おいしい……」
――うっとりと、その美貌を崩すのだった。




