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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第21話 大久保の野望と金衛門の業。

 駿河町の亀丸屋は、魚を除いた食材を取り扱う卸売商である。

 この商家を率いる金衛門は、近江国甲賀の出身だった。

 元々は豊臣家の忍び働きを家業としていたのだが、徳川家康が大阪の陣で豊臣家を滅亡させてからは江戸に出て、野菜の卸売をはじめた過去を持つ。


 金衛門が幸福だったのは、江戸に出てきたその日に――父親の逝去によって賄頭の地位を継いだばかりの大久保内膳と出会えたことだろう。

 当時まだ25歳の若揉んで、筋肉質で精悍な顔立ちをしていた彼の知遇を得て、亀丸屋を大きくしてきたのである。

 その時の関係が未だに続いているという訳だ。


「それにしても、思わぬところで邪魔が入ったな」

「そうでございますなぁ、大久保様」


 亀丸屋は潤沢な資産を有する商家でもある。

 通りに面している表店(おもてだな)の店舗のみならず、所謂(いわゆる)路地裏であるところの裏店(うらだな)にも屋敷を持っているのだ。


 その裏店屋敷は塀によって厳重に囲まれている。

 ここに入るためには、いま大久保たちが歩いている――裏店と表店を繋ぐ、これまた塀で囲まれた通路を通るしかないのだった。


「興が冷めた、また高めてもらわねばな」


 そして大久保は、亀丸屋の裏店屋敷の敷地内に入るや否や――全裸になる。

 屋敷には大勢の雇われ浪人たちが警備に当たっているのだが、彼らの視線などまるで意に介していないようだ。

 汗濡れのつゆだく。見苦しい七段腹が男たちの前で露わになり、揺れて震える。


「大久保様、雪が降っておりますが……寒くはありませんかな」

「おお、そうか。雪が降っているのか、気付かなかったな」


 大久保はどこか焦点の合わない目で金衛門を見る。

 裏店屋敷の扉を骸骨老人がサッと開けば、大久保はのっしのっしとそのなかへと進んだ。


「気付かなければそれで構いませんな」


 裏店屋敷の扉を開いた瞬間に立ち昇る、むわりと濃厚で甘ったるい煙。

 しかしそれは、金衛門がぴしゃりと戸を閉めたことで直ぐに流出が止んだ。


 屋敷の内部は仕切りのない長屋住居のようなもので、土間と、そこから一段高いところに広がっている畳敷きの座敷しか存在しない。

 その座敷には17人の女たちがいる。いずれも美形揃いだが、ぼーっと虚無的な瞳をしていた。


 だが、座敷に上がった大久保を見るや否や――たちどころに黄色い歓声が上がる。

 見るに堪えない脂肪漢の裸体は、たちまちのうちに女に絡みつかれていった。


「ハハッ、大久保様は女人(にょにん)におもてになります故、嫉妬してしまいますな」

「おお、そうだ。もっと嫉妬するがいいぞ金衛門。なにしろお前の妻子5名も、この内膳の手付きなのだからなっ」

「ええ、えぇ……流石でございますなぁ大久保様」


 女たちに囲まれて、有能と名高い幕府の役人はご満悦だ。

 その姿を視界に収めつつ、金衛門は濁った瞳をぎょろりと(うごめ)かせる。

 大久保の腰に縋りついている女たちのなかには、たしかに彼の妻子がいた。

 しかし、娘4人の母親は同じだが、父親はそれぞれ異なっていた。要するに、彼女たちには金衛門の血がビタ一文も入っていないのである。


 彼女たちを除く残りの12名は、すべて金衛門が誘拐してきた女たちだ。

 人妻から()かず後家、嫁入り前の娘などバリエーションも豊かである。

 そして彼女たちの顔はすべて――完全に正気を失っていた。


「この雌犬共め……それほどまでにこの内膳を欲するのであれば、犬の真似事をしてみよ。一番犬らしくできた者は、たっぷりと可愛がってやろう」


 その言葉を聞いた途端、大久保に媚びへつらいはじめる美女たち。

 彼女たちに埋もれていく脂肪漢を横目で見ながら、金衛門は部屋の隅へと移動した。

 そして香炉(こうろ)のなかで、何やら怪しげなものを(いぶ)しはじめる。部屋に充満した甘ったるい煙が、更に密度を濃くして広がっていった。


「ふん……所詮は内膳(ないぜん)も女共も、この『つがる』があればこのザマよ」


 金衛門は嘲笑(ちょうしょう)するように言いながら、怪しげな何かが入った箱を香炉の脇に置いた。

 それはまさしく、現代社会では使用を禁止されている――人生のみならず、心と身体を破壊し尽くしてしまう魔の薬・阿片(アヘン)である。


 阿片とは、ケシを使って製造される、人類史の残した負の遺産のひとつだ。

 この魔薬の材料となる植物は、戦国時代に南蛮貿易を通じて日本へ到来したとされる。

 そしてケシ栽培が最も早く展開されたのは、意外にも東北の津軽地方だった。


 故に、ここで生産された(おぞ)ましき薬のことを――魔の力に魅入られた者たちは、その原材料の主要生産地の名前から『つがる』と隠語で呼んだのである。

 金衛門が使用しているのは、まさしくこの外道の薬だった。

 言うまでもなく、この部屋にいる者たちは例外なく取り返しのつかないところまで薬物汚染をされてしまっている。

 いくら血がつながっていないとはいえ――この骸骨男は、己の妻子すら魔薬に沈める極悪非道の手合いなのだ。


「さて、大久保様」

「どうした金衛も――んほぉっ!?」


 女たち同様に『つがる』に支配されている旗本は、尻を押さえて飛び上がった。

 七段腹がむさくるしく揺れる。そして振り返るなり、いきなり平手打ちをかますのだった。

 

「そこは舐めるにはまだ早いぞっ! 話の途中であろうが、この雌犬め! 恥を知れ、恥を!」


 パァンッと凄まじい音共に張り飛ばされたのは、今年で30歳になる金衛門の妻に他ならない。

 しかし亀丸屋の主人は、顔色ひとつ変えはしなかった。愛情という感性は、彼とはまるで無縁なのである。

 そして金衛門は幕府の賄頭に近付くと――刷り込むように囁くのだった。


「色々と、困ったことになりましたなぁ」

「あぁ、困った、困ったな」


 女と魔の薬によって正気を失い、金衛門の言うことをただ繰り返すだけの大久保。

 骸骨老人は部屋に転がっている徳利を持つと、その中身を口に含む。

 そして旗本に近寄ると――己の口腔に含んだ酒を、大久保の咥内へと流し込むのだった。


「ええ、そうでございましょう。大変困りましたなぁ……あの西山という賄吟味役、我らの関係に気付いたかもしれませんなぁ」

「そうかもしれぬ、そうかもしれぬ……だが西山は、あれはあれで有能な男なのだ……失うのは惜しい」

「ですが情けをかければ、首を取られるのは我らやもしれませんな」

「そっ、それは困る、困るな……おほほっ」


 女と魔薬にアルコールが加われば、人間の理性など容易に消し飛んでしまう。

 無様な姿をさらす侍に対し、金衛門は執拗に、邪悪な刷り込みを続けていた。


「そうです、困りますなぁ……。西山とやらに我らの関係を気取られれば、大久保様は二度と『つがる』を嗅げぬようになりますし、おなごも抱けぬようになりましょう」

「ああ、困った、それは困ったなっ」


 おうっおうっと肥えたセイウチさながらの声を上げている大久保を、甲賀忍びは澱んだ目でとらえ続けている。


「さて、大久保様の願いは……何でございましたかな?」

「決まっておろうっ! 我らが公方様、家綱公……いやっ、綱姫様を一生涯お守りすることだっ!!」


 大久保は女に押し倒され、喘ぎながら続けた。


「旗本であるこの内膳は……まだ姫であられた頃の、あの麗しき御方に……御目見えさせて頂いたことがあったのだ……っ! それはもう、美しい御方だった……この内膳が惚れてしまうほどにっ!」

「……」

「だからっ、許せなかった……っ!」


 大久保は過呼吸気味に口を開く。


「綱姫様の征夷大将軍御就任の儀の際、この内膳は幕閣の者共の話し合いを聞いてしまったのだ……綱姫様はあくまでも繋ぎでしかなく、いずれは弟君に譲位を強いられ隠居。人目につかぬよう、死んだことにされて江戸城に幽閉されるということをなっ!」

「許せませんなぁ、そのような非道な行い、許すわけにはいきませんなぁ……」

「そうだっ、許せんのだ……! いや、だからこそ……綱姫様が将軍の座を引かれた後――この内膳が、あの御方をお救いするのだっ!!」


 勤勉実直と名高い旗本は、これ以上ないほどに住みきった澱みなき目で――己の忠を叫ぶ。


「そして我が屋敷に姫様をお迎えし、たっぷりと『つがる』をお嗅ぎいただくのだ……っ! そして悩みなく幸せに暮らして頂くのが我が望みィ……ッ! この素晴らしき薬があれば、あのお方の憂いも晴れるであろうッ!!」

「流石でございますぞ、大久保様」


 澱んだ瞳をぎょろりと動かしながら金衛門が賛意を示す。

 女たちや大久保を薬漬けにして正気を失わせ、駒とした大悪党。

 彼は地獄の底から響くような低い声で、大久保に囁き続けていく。


「なれば、この金衛門は大久保様のお手伝いをさせていただきましょう……しからば」

「分かっておるっ、金が欲しいのだろう!? 分かっておるわっ!」


 脂肪漢は肉塊を震わせながら、甲高い声で叫んだ。


「お前は昔から、金にしか興味を持たない男だったからなっ! この内膳は、御公儀より預かった調達費を執行することができる! その金はすべてお前に渡す! 文書など幾らでも偽造できるのだからなッ!!」


 大久保は叫び続ける。


「金衛門ッ! お前はその金を運用し、差額で儲ければ良いッ! さすれば亀丸屋は御公儀公認の卸売商という名声も合わさり、更に利潤を得られようッ!!」

「そうでございます、大久保様。金がなければおなご共を飼うどころか、『つがる』を買い付けることすら叶いませんからなぁ」

「金だ、金だっ、金だッ!!」

「そう、この世は金が最も大切でございますぞ……して、大久保様」


 大久保にのしかかって腰を振っていた血のつながらない娘。

 彼女を蹴り飛ばした金衛門は、四つん這いになって大久保にのしかかり、その顔を間近で覗き込みながら囁く。


「……あの吟味役は、いかがいたしますがな?」

「ああっ、お前の好きなようにせいっ!」


 大久保は喚くように応じた。


「いつものようにお前の伝手(つて)で甲賀忍びを雇い、探らせればよいであろうっ! 西山が怪しげな動きを見せたら殺せっ! 好きにするがよいっ!」

「では、そのようにいたしましょう。この金衛門が、すべて上手く取り図らいましょう」


 では、ごゆっくり――全身が骸骨のように骨張った男は、ニタリと口元をゆがめて嗤う。

 そして金衛門は『つがる』の煙にまみれた部屋から辞していく。

 彼が去った裏店屋敷の屋敷では、肉塊と美女たちの見るに堪えない情景が広がっていった。



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