第20話 勝太郎の疑念と大久保内膳。
――万治2年(1659年)2月20日、江戸。
町医者の息子である平次が膳医として登用されてから、およそ半年が経過していた。
江戸幕府に関わる様々な物品の調達を担う賄頭・大久保内膳。
その部下として食材のチェックを担う賄吟味役の西山勝太郎は、その仕事柄もあって平次のことを考えることが多い。
部署を越えた友情を培ってきたこともあり、いまや公私共に親しく結ばれているからだ。
西山にとってみれば、平次は大切な盟友である。
賄吟味役は目立たず地味な仕事だが、にも拘わらず繊細な心配りを欲求された。
そのことを理解し、かつ西山の仕事にかける熱意を理解してくれているのだから大切に思わないはずがない。
しかも平次は、西山と議論ができるだけの食材に対する深い知識を持っている。
彼が語る内容はまさしく目から鱗と言っても過言ではなく、話せば話すほど新たな知見を得ることができるのだった。
故に西山は、平次に敬意を払っている。
自分を成長させてくれる友ほど、得難く貴重な存在はいないだろうと。
そう思えば思うほど、西山は日々の職務へ真摯に打ち込むことになる。平次に対して何かしらのかたちで助けになれればと。
恩を受けたら恩返し。それが西山の行動指針でもある。
ちなみについ先ほども、平次の依頼を受けて――急遽、市場で食材を調達して納品してきたばかりだ。
本来ならば賄頭を通すのが筋なのだが、急に入用になってしまったらしい。
おそらく、公方様がお風邪を召されたのであろう。西山はそう推測している。
というのも旗本ではなく御家人であり、将軍に拝謁することができないからだ。
しかし西山は食材を通じ、徳川将軍の健康に直接寄与している。人一倍責任感は強かった。
だからこそ、激怒する。江戸の食品市場を見た上で、激怒した。
現状が決して――否、絶対にゆるされるものではないことを、完全に理解したからである。
「……許せぬ! 許せぬ許せぬッ!!」
酉の刻(午後6時)。
雪の降りしきる夕暮れのなか――西山は肩を怒らせ、日本橋を渡っていた。
誰もが御家人の怒りを買わぬよう、大人しく道を開けていく。
何故、西山が激怒しているのか。
その理由は簡単だ。将軍が食べている食材よりも、下手をすれば庶民が食べているものの方が――品質が高いのである。
予兆はあった。
平次が膳医として採用されてから、西山の許に回されてくる食材のクオリティが低下しはじめていたのだ。
西山は幾度となく、その事実を上司である大久保に進言してきた。
されど事態は一向に改善される気配がない。
大久保はこう説明していた――『いま市場には低品質のものしか流れてきていないのだろう』と。
西山は品質を改めるプロであり、食材を調達するプロではない。
そのため大久保の言をそのまま信用していた。
今までとは違い、平次と緊密なやりとりをしはじめてから、市場のチェックができなくなっていたからだ。
しかし今日、江戸の市場を網羅的に歩き回ったことで――大久保の発言には誤りが含まれていることを知ってしまった。
もはや一刻の遅れも許されない。今すぐに解決しなければ、歯止めがかからなくなりそうな予感が西山にはあった。
その足は日本橋を越え、大通りを北に進んで駿河町へと向かっている。
この町は、後に巨大な呉服屋である『越後屋』が出店し、現代に続く大型百貨店の礎を築いたことで有名だ。
されど、万治2年(1659年)の段階では越後屋はできていない。
「店前現金掛け値なし」の新商法や公告ビラの配布によって、爆発的な人気を巻き起こした三井 高利が駿河町へ進出するのは――天和3年(1683年)を待たなければならないだろう。
とはいえ、いずれにせよ、駿河町は卸売商たちの町だった。
日本橋は江戸における物流の中心である。
商いの基本が物流である以上、巨大な資本力を有する商人たちがこの町で出店しようとするのは当然の展開だろう。
そして西山が踏み込んだのは、駿河町でも屈指の規模を持つ大型店舗だ。
表に掲げられている看板には『亀丸屋』とある。
「賄頭旗下、賄吟味役の西山勝太郎である! 主人はいるかッ!!」
亀丸屋は食料品を取り扱う卸売商だ。
店内にはそれなりに人気があったのだが、幕府の役人が踏み込んできたことで騒動を予見したのだろう。誰もが店外へと出てしまった。
「これはこれはお武家様、このようなところへわざわざお越しいただき……さて、いかがいたしましたでしょうか」
店の奥から現れた亀丸屋の主人は、まさしく異形の容貌をしている。
ひょろひょろとした、骸骨が着物を纏って歩いているような老人だった。
今年で55歳になるというこの男は、白髪を小銀杏に結い上げている。
皺だらけの顔面。その落ち窪んだ眼孔の奥深くには――邪悪に澱む瞳があった。
「亀丸屋の主人・金衛門にございます。大久保様の御関係であるとのこと、承っております。さて、本日はいったいどのような御用件で――」
「とぼけるなッ、決まっておろうッ!!」
西山は大きく目を見開き、その涼やかな容貌を怒りに染めて骸骨老人を怒鳴りつける。
「その方、大久保様の御指示によって江戸城へ収める食材を集める任を負っているな……!」
「たしかに、左様でございます」
「その食材の質がな、明らかに以前よりも格段に落ちてきているのだ……! これはいったいどうしたことかッ!! 公方様にお出しする食物なのだぞ!?」
「お怒りはごもっともでございます、お武家様」
濁った瞳で西山を正視しながら、金衛門はゆっくりと粘ついた口を開く。
「しかしながら食材は、生き物にございます。そして行きもであります故、良い時期と悪い時期があるのは必定……。どうやらここ最近、全般的に食物の質が落ちてまいりましたようで――」
「嘘を申すなッ!!」
西山は大喝した。
「私はな、今日……庶民たちが集う市場を、しかとこの目で検めてきたのだ……! さすればどうか! お前たち亀丸屋が集めて城へ収めてくるものよりも、遙かに質が高いではないかッ!!」
「……」
「武士が町民共の市場で直接売り買いを行いはせぬと思っているやもしれんが、この私の目は……決して欺けんぞッ!!」
義憤に燃える御家人が骸骨老人に詰め寄ろうとした、まさしくその時――
「……勝太郎、お前は一体なにをしているのだ」
――西山を呼び捨てにする、甲高い声が店の奥から響くのだった。
「お、おっ……大久保様ッ!?」
聞き間違うはずもなければ、見間違うはずもない。
なんということだろう。西山の上司であり、有能にして勤勉実直の誉れ高き大久保内膳が――店の奥からのそりと姿を現したのだ。
西山からすれば、もはや予想外の展開というほかにない。
「なっ、何を……一体何をなさっておられるのですか、ここでッ!」
「商談に決まっておろう。ここは江戸城に食材を斡旋する卸売商・亀丸屋だぞ。無論、上様へ献じる食材について話しておったのよ」
大久保は金衛門とは真逆の脂肪漢だ。
幕閣に控える男たちの覚えもめでたい実務派官僚が、のっしのっしと金衛門に近寄って――その骨張った肩に、ぶくぶくと肥え太った手を置いた。
「勝太郎、お前の忠義はこの内膳がよく知っておる。お前が訴えたことも、よく分かっておる。いま先ほどまで、この金衛門へ強く言い含めておったところよ」
「……」
「だが、お前も知っているだろう? 御公儀の食材購入費が減じられたことは。亀丸屋はそういった逆境のなかで鋭意努力をしておるのだ、それは理解してやらねばならん」
どうやら大久保は、資金の欠乏を理由にして亀丸屋の肩を持つつもりらしい。
馴染みの取引相手ということも影響しているのだろう。
だが、と西山は思う。
徳川将軍家綱公に供される膳はかつての1日20膳から1日6膳まで激減している。
作る量が大きく減るのだから、予算が減るのは当然のことだろう。
江戸城に回される食材の品質を落とされる理由にはならないはずだ。
「……左様でございますか」
しかし西山は首を垂れた。
体系化された身分制社会においては、もはやそうせざるを得ないのである。
「おお、そうだとも。だからお前も、今日は大人しく帰るがいい。この内膳がすべて上手く取り図ろう」
「……」
西山はグッと歯を食い縛り、一礼した後――雪の降りしきる店外へと去って行った。
その後姿を見送ってから、のっしのっしと我が物顔で店の奥へと戻る大久保。
そして金衛門も、脂肪漢の背後に続く。
駿河町にある御公儀指定の食料卸売商店・亀丸屋は、早目の店仕舞いに取り掛かっていた。




