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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第19話 お綱の独白と、これから。


「平次様、お隣に失礼してもよろしいでしょうか」


 お綱のそんな発言に、平次はどのように対応するべきか悩む。

 頷けばそれで済む話なのかもしれない。だが、征夷大将軍が下座に下りることは許されるのだろうか。

 そんなことを思う平次にくすりと笑うと、彼女は返事を待たずにちょこんと横に腰を下ろしてくる。

 お風呂上がりの良い匂いが漂い、女性経験のない平次の心を掻き乱した。


「平次様、これからお話しすることは……本当は伝えてはいけないことなのです。ですけれど、わたくしの命を救って下さった貴方には、お伝えしておかなければならないと思ったのです」


 内緒にできると約束して下さいますか? そう問いかけてきたお綱に、平次は今度こそ頷いた。


「……お綱さんの為ならば」


 内藤から話を聞いた手前もある。

 お綱本人から何か情報を得ることができれば、平次はいまの幕府の内情を把握できるような気がしていた。


「……」

「……」

「……ごっ、ごめんなさい」


 しかし、お綱がすぐに話しはじめることはない。口を開いては閉じる――を繰り返していた。

 何から話せばいいのか、分からなくなってしまったのだろう。

 迷子になった子犬のような目をしている。


 そんな彼女を見ていると、平次は自分の心が落ち着きはじめたのを感じていた。

 狼狽(ろうばい)して取り乱している人の横にいると、(かえ)って冷静になってしまうあの感覚だ。


「大丈夫です、ゆっくりで構いません。お綱さんが話したいことを、話したいだけ仰って頂ければ……」

「平次様……」


 お綱は平次と膝が接するまで距離を詰め、そっと手を握り締めてきた。

 彼女の体温が伝播(でんぱ)し、身体の隅々まで染みこんでくるような錯覚を覚える。

 長い睫毛(まつげ)によって影が差したブラウンの瞳。それを見ていると、彼女以外の総てがどうでもよくなってしまう。


「あの、重い女だと……思わないで下さいね」

「何を今さら。俺がお綱さんのことを悪く思うはずがないでしょう」


 平次がそう告げると、お綱は目元にじわりと涙をにじませる。

 そして手の甲で目元をぐしぐしと(ぬぐ)ってから、己の身の上についてぽつりぽつりと話しはじめるのだった。





 自分という存在が、江戸幕府にとって――あるいは男たちにとって、都合の良い生き人形でしかないこと。

 女系の将軍を作ってはならないが故に――夫を迎え、子を残すことが許されないこと。

 自分の意思とはまるで関係のないところで――やがて、弟に譲位することが既に決まっていること。

 女であるが故に、男社会に意見をすることが許されず――将軍が己の意思を周囲に伝える側近たる『側用人(そばようにん)』を抱えることも許されないこと。

 そして、何もさせてもらえないが故に―― 一日一日を無為に過ごしていること。


 そういった数々の事情を、お綱は絞り出すように話してくれた。


「わたくしは、もう、耐え切れなかったのです。口を開くこと自体を控えなければならず、ただ漫然(まんぜん)と月日を重ねるだけの生活に。あるいは、幕臣たちが望む姿を演じ続けなければならない自分自身に対して」

「……」

「不思議なことだと思いませんか? わたくしはわたくしなのに、幕臣たちは皆、征夷大将軍という肩書しか見て下さらないのです」


 孤独でした、とお綱は続ける。


「わたくしのことをひとりの人間として見て下さる方は、本当に限られていました。ですがその者たちは、いざとなれば……わたくしよりも幕府の存続を選ぶでしょう。所詮(しょせん)、わたくしはそれだけの人間なのです」

「だから、城を抜け出したんですか。自暴自棄になって」


 姫将軍はこくりと頷いた。


「自分でも、愚かなことをしたと思っています。ですが、そうでもしなければ……もう、正気を保つことができそうになかったのです。どうせ、わたくしがいなくても問題なく機能する幕府です。ならば、別に一日ぐらいは……と」


 お綱は平次の手を握り直しながら顔を伏せた。


「生まれて初めての経験でした。城の外に出てただひとり、馬に乗って江戸を駆けたのは……。開放感に心を躍らせたのはたしかです。ですが、そこで気付かされました。わたくしは所詮(しょせん)、世のなかに大勢いる人間のひとりでしかないのだと。そして、ひとりでは何もできない人間なのだと」


 眩暈(めまい)を覚えて馬から転がり落ち、立ち寄った森のなかで逃げられてしまった時は心底そう思いました――と姫将軍は自嘲するように言う。


「馬にも見放されて、気付けばわたしは……黄昏の森でひとりぼっちでした。右も左も分からない土地で孤独になることが、あそこまで恐ろしいことだとは思いませんでした。ですがその時、誰かが池に飛び込む音が聞こえたのです、そして声も」

「ああ、なるほど……」


 たしかに平次は、あの時、大声でひとりごとを言っていた記憶がある。

 まさか聞かれているとは思わず、今さらながら恥ずかしい気分になった。


「それで、助けを求めて歩きはじめたところで……足を滑らせて池に落ちたと」

「お恥ずかしながら」


 お綱はそっと顔を上げ、伏し目がちに平次を見つめた。


「愚かなわたしの行為でしたが、結果としては幸運な方向に転がることになりました。素性も明かしていないわたくしを助けて下さった、貴方と出会えたのですから」


 裸にされてしまった時は、大変に失礼な話ですが――傷物にされてしまうかと思いましたけれど。

 お綱はそう言って、くすりと笑う。

 途端、平次の脳裏にお綱の裸体がフラッシュバックした。

 そうだ、そうなのだ。いま、あの真っ白で美しく均整の取れた裸体が――着物という布を挟んで目の前にあるのだ。心臓がどくんと高鳴ってしまう。


「平次様は見も知らぬわたしのことを、真摯に考えて下さいました。服を着せて、診察をうけさせ、そして――あのあたたかい雑炊を振る舞って下さったのです。わたくしははじめて、将軍としてではなく、ひとりの人間として親切にしっていただきました」

「……」

「そうです。あの時、あの瞬間……わたくしは身体だけではなく、心も救われたのです」

 

 だから、もう一度――お逢いしたかった。

 お綱はそう言って、平次の右手を強く強く握り締める。

 まるで、大切なものを絶対に手放すまいとする童女のように。


「平次様は、わたくしと同じでした。肩書ばかりに注目がいき、個の想いが殺されてしまっている――そして、周囲の望む通りの生を歩まなければならないという境遇が」

「だから、俺を呼び出したんですか? 保科様を巻き込んで、断食までして」

「ごめんなさい……」


 お綱は(すが)るような目で平次を見る。

 それはまるで、大切なものを絶対に失うまいとする童女のような挙動だった。

 

「ですが、わたしは馬鹿で愚かですから……幕閣の者たちから譲歩を引き出しながら、平次様を本舩町のしがらみから引き剥がす方法を、それ以外に思い浮かばなかったのです」

「自分をそのように卑下しないで下さい、お綱さん」

「あ……っ」


 目元に涙をじわりと(たた)え、必死の面持ちをみせる姫将軍に――平次は左腕を伸ばし、その肢体を抱き寄せていた。

 まるで理性的でない行動だ。武家社会の頂点に君臨する姫将軍を、町人風情が抱き寄せているのだから、どんな罪に問われても文句は言えない。

 されど平次からすれば、これ以上――彼女に自分を傷付けるようなことを言って欲しくなかったのだ。

 

「お綱さんが俺のことを召喚してくれなかったら、きっと俺は医師として、心にもやもやを抱えながら生活し続けることになったと思います。ですが(ここ)では……たしかに俺はお綱さんの医師になりましたが、これまで以上に料理へ力を注ぐことができます」


 町医者に付き物の往診に行く必要がなくなるし、と平次は心のなかで補足する。


「だから、膳医として抱えて下さったことに感謝しています。それに、貴女は非常に美しい女性(かた)です。そんなお綱さんの傍にいることが許されることを、心から嬉しく思っています」


 それは本心でもある。平次も男だ、魅力的な女性と接することができて嫌なはずがない。

 そしてお綱はどうやらまんざらでもなかったようで、平次の胸のなかで硬直し、赤面しながら目をぐるぐると回していた。

 どんどん上昇していく姫将軍の体温を感じながら――この女性の傍に、許される限りいよう。そんな感情が、自然に湧き上がってきている。


 大衆食堂を開きたいという夢は、決して揺るぐことはない。

 だがその時に、お綱が側にいてくれれば――と妄想してしまう。

 それが大それた思考であると知りながら、平次はついつい自分の傍らで店を切り盛りする彼女の姿を思い浮かべてしまうのだった。



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