第16話 新たな出会いと再会と。
江戸幕府のドロドロとした闇の部分。
その一部に触れてしまった平次は、否応なくお綱への関心を掻き立てられていた。
美しい姫将軍のために出来る限りのことをしてあげよう――そんな意欲を滾らせながら、平次ははじめての朝食作りのために登城する。
(とはいえ、寝起きのお綱様がどれだけ食事を摂れるのかは未知数なんだよなぁ……)
そんなことを思いながら平次は御膳所に入り、調理を開始した。
(今回は意図的に量を少なくしておこう。それでいて栄養をしっかり摂れるようにしておかないと……うん、決めた)
作りはじめたのは、リゾットオムライス。
江戸時代で言うところの南蛮料理だ。
まずはタイを蒸し、その間に山芋の皮をむいて身を千切りにする。
そして青菜も細切れにして、蒸し上がったタイの身を解していった。
それらの具材を、ふっくらと炊き上げたご飯に混ぜ、ごま油で軽く炒める。
それから頃合いを見計らい、昆布出汁に塩を加えて味を調えていけばいい。
こうしてできあがったリゾットの上に、鉄板を使ってしっかりと火を通した卵を被せれば完成だ。
現代的なふわとろ風にしたかったのだが、江戸時代ともなればサルモネラ菌の存在を考慮しなくてはならないため、泣く泣く見送っている。
お綱を食中毒で殺してしまうようなことがあれば、色んな意味で目も当てられない事態になってしまうだろうから。
無論、リゾットオムライスだけという訳にはいかない。
並行して作っていた麩の味噌汁に、デザートとして和リンゴのペーストを準備した。
和リンゴとは、現代では希少価値が高くなってしまった果物のことだ。
平次の元いた世界で流通している西洋リンゴとは異なり、平安時代から日本で育てられてきた中国由来の小振りな果物である。
酸味が強く、朝の目覚ましには丁度良かった。
(そういえば、今日から保科様は相伴しないんだよな……)
日本史上に燦然と名を残す会津中将・保科正之。
彼は江戸幕府の大政参与として幕政に関わるだけでなく、会津藩の藩主としての務めを果たさなければならない。
良くも悪くも、平次に関わってばかりいられる男ではないのだ。
(つまり、内藤様のも含めて……用意するのは3膳でいいってことか)
そして朝食の時間がくる。
御膳所にやってきた侍女たちに手伝って貰いながら、『御膳の間』へと料理を運んでいく。
お綱は朝に弱いのか、若干ぼーっとしている様子だった。
しかし平次を見た途端に、ぱっちりと目が覚めたらしい。慌てて居住まいを正し、平次の挨拶に応じた。
「まさか朝から南蛮料理が出てくるとは……」
内藤は苦笑していたが、姫将軍には特に異存はないようだ。
献立の説明の後、彼女は興味津々と言った態で膳を確認する。
それから内藤のかたちばかりの毒見を経て、ものすごいスピードで黙々とリゾット風オムライスを平らげてしまった。
どうやらもう、卵への嫌悪感もなくなっているらしい。
お綱は味噌汁をすすりながら、「もうないのですか」と言いたげな顔をしていた。
(この調子だったら、別にそこまで遠慮をしないでも良さそうだ)
リンゴペーストを食べている姫将軍を見ながら、平次はそう確信する。
食後にお綱の脈を取り異常なしと診断し、彼女とのとりとめのない会話がはじまるだろうなと思ったその矢先――本丸の『表』に参列せよとの正之の命が、侍女を通じてもたらされたのだった。
不満の色をありありと表情に浮かべたお綱と別れ、平次は指定された部屋へと向かう。
「よく来た、平次よ」
上座に座った正之がねぎらいの言葉を投げ掛け、平次はそれに対して慇懃に礼をした。
平次にとって、彼は良くも悪くも総ての命運を握っている男と言っても過言ではない。常に機嫌を取っておくことは悪手ではないだろう。
「朝早くから呼び立ててすまんな。おそらく、上様もあまり良い思いをされなかっただろう。だが、おぬしに紹介しておかなければならない者がおるのだ」
そう言われて頭を上げてみれば、部屋のなかにはもう一人の男が控えている。
頭を下げて入室したので、他に人がいることにここまで気付かなかったのだ。
「以前、紹介しようと言ったが――ここに控えておるのが、江戸城の賄頭。すなわちおぬしに食材を提供する責任者である大久保内膳殿だ」
「内膳でございます」
甲高い声を発した男は、よく肥えた中年男性だった。でっぷりとした二重顎が特徴的で、額には脂汗が浮いている。
頭は当然のように、中剃 茶瓶髷に整えていた。
その彼が、実に丁寧な言葉使いで、平次を労わり尊重するような言葉を続けてくる。
「膳医殿のお噂は既に聞いております。上様の御為に働こうとするお覚悟、誠に見事であると思います。これからどうぞ、お見知りおきを」
「平次でございます。これから御厄介になりますが、どうぞよろしくお願い致します」
「それが私のお役目ですから、膳医殿がそのように仰る必要などありません」
ですが、と大久保は正之に言った。
「会津中将様、実はここ最近、お恥ずかしいことに……私の首が回らなくなるほどに、書類仕事が立て込んでしまっているのです。あの大火の後、江戸城も様々な出費が増えましたので……」
「ふむ……」
「ですので、大変に心苦しいのですが……膳医殿には私の連絡役をつけ、その者を介してご要望をお聞きしたいと思っています」
正之は腕を組んで大久保を正視し、次いで平次に目を配る。その後、頷きながら言った。
「よかろう。我が江戸城の官吏のなかでも、勤勉実直の評判高い内膳殿だ。おぬしがそのように言うとなれば、今のわしが想像している以上に忙しいのであろう。となれば、無理は言えぬ」
「ありがたき幸せ。さすれば、既に連絡役を控えさせておりますので――早速ご紹介させて頂きたく存じます」
大久保は正之だけを見て、口を動かしている。そう、平次の方を一切向かないのだ。
それが何だか気になるが、致し方のないことかもしれないと思い直す。
大勢の人の前で喋ったりする時でも、どうしても説得したい相手に注意が行ってしまうことは良くあることだからだ。
「流石は内膳殿だな、仕事が早い……。平次、おぬしはどうだ? 何か異論はあるか?」
「あ、いえ……特には」
平次がそう応じたのを、細い目でちらりと確認すると――大久保は手を叩きながら言った。
「それでは……勝太郎、入ってくるが良い!」
「はっ」
大久保に呼応して部屋に入って来たのは、背の丈6尺はあろうかという大男。
しかし、その姿にはどこか見覚えがあった。
彼は平次がそうしたように、面を伏せたまま部屋に入り、すぐに平伏する。
「賄吟味役の御役を頂いております、西山勝太郎にございます。先ほど大久保様より、上様お付きの膳医殿との橋渡しを務めるようにとのお話を受け、参上仕りました」
「うむ、面をあげよ。して、こちらにおるのが膳医殿だ」
「はっ……! ……は?」
顔をゆっくりと上げた西山が、正之から平時へと視線を移し――途端、ぽかんとした表情を浮かべた。
何とも微妙な魔ができてしまい、平次も致し方なく「先ほどはどうも」と頭を下げることにする。
西山の顔は、信じ難い何かを目撃したかのような表情になっていた。
「なんじゃ、知り合いであったか……おぬしらは」
世の中は狭いものよ、と正之は苦笑するのだった。




