PROLOGUE 2/4
確実に分かったことがある。
どうやら自分は、江戸時代に転生してしまったようだ。
だが、その事実を公にして触れ回ることはできなかった。間違いなく、誰も信じてくれないだろうから。
それに、周囲の人間から『平次はどうやら頭がおかしくなってしまったらしい』とレッテルを張られるのがオチである。黙っていた方が良いに決まっていた。
「……はぁ」
周囲はうっすらと暗くなりはじめ、カラスの鳴き声が侘しく響いている。
黄昏時。平次の溜息は、誰に聞かれることもなく緋天へと吸い込まれていった。
――万治元年(1658年)8月19日。
それが、現時点での暦である。
平次が元々暮らしていた時代は、平成29年(2017年)だった。
従って、おおよそ360年昔に逆行してしまっていることになる。
大坂夏の陣で豊臣家が真田幸村らと共に滅んでから43年、徳川家康が江戸幕府を開府してから55年が経過している時代でもあった。
平次が暮らしているのは、江戸幕府の御膝元・江戸である。
江戸のイメージと言えば、世界有数の大都市というイメージが即座に浮かぶだろう。
だがしかし、転生した平次の生きているこの時代は、一時的とはいえ人口が減退した時期でもあった。
そう、明暦3年(1657年)1月18日から20日にかけて江戸を燃やし尽くした――日本史上最大にして最悪の大火災による影響だ。
『明暦の大火』と呼ばれるこの火災は、江戸の旧市街地の過半を焼き払い、そして10万人にも及ぶ死者を生んでしまっていた。
負傷者を数えれば、被害はその倍に跳ね上がるだろう。ちなみに、この時の江戸には最大で40万人が暮らしていたので、4人に1人は焼け死に、2-3人は負傷したという計算になる。
要するに、平次の立っている江戸は――まさしく復興の真っ最中なのだ。
事実、火事から1年と半年ほどを経て、江戸は賑わいを取り戻しつつある。
悲しみも多いが、しかしいつまでも後ろを向いては生きていられない。そんな強烈な生のパワーが、江戸の至るところで発露していた。
だが、人々を悩ませていることがある。すなわち、治安の悪化に他ならない。
もとより、江戸の治安はお世辞にも良いとは言えないところがあった。
大坂の陣で豊臣家が滅んで以来、食い詰め浪人やその子弟が大量に江戸へ流れ込んだことにより、至るところで問題が生じているのだ。
江戸の不協和音を語る最たる例が、幕府の首脳部――つまるところ幕閣の面々に対する浪人たちの攻撃だった。
いまから7年前。すなわち慶安4年(1651年)には、『慶安の変』と呼ばれるクーデター未遂が発覚している。
その翌年には、『承応の変』と呼ばれる幕閣の暗殺未遂も発覚していた。
要するに、江戸幕府は、開府以来最大の危機を迎えていたと言っても過言ではないのである。
従って、自衛のために、平次が幼いころから剣術をみっちりと教え込まれたのは至極当然のことだった。
剣を持ったのは江戸時代に転生してからのことだが、流石に幼少期から叩き込まれれば習熟も早い。平次は既に、江戸の諏訪 鶴翼流道場から免許皆伝を得るに至っている。
「それにしても、人を生かす医師が人を殺すための術に長けることになるなんて……笑えるな」
そう嘯く平次は、自分の相反する能力に嗤っていた。
諏訪鶴翼流は『霞構え』を基本とし、いかに相手を確実に殺せるかを突き詰めた――戦国時代の尻尾を引きずる流派である。
命を救う医師とは、真逆の方面に特化した技能だと言ってもいい。
そんな平次の実家にして住まいは、転生前の縁なのか――日本橋の本舩町にある。
明暦の大火の際には、逃げ遅れたり負傷したりした町人や武士の救急センターとしての役割も果たした物件だった。
火消たちが『あの診療所が焼失すれば全て終わりだ』と守ってくれたので、幸いにして火災被害は受けていない。
平次の父親は町民だが、元々は武士だった。
しかし主家が改易されたことで士分に嫌気が差し、医師として生計を立てるようになったのである。
職能としては内科医だったが。外科医としての知識も有していたため、明暦の大火の際には大活躍することになったのだった。
ちなみに平次はそんな父親から免状を貰っていることもあり、すぐさま独立して医師になることもできる。
とはいえ独立しておらず、かつ実家暮らしなので、肩書は医師見習いということになっていた。
つまるところ、医師として開業可能な身分なのだが――正式には未だ医師ではない、という捻じれた状況に置かれているのだ。
何故、平次は独立していないのか。それには大きく3つの思惑が絡んでいた。
第1に、家業の意識がある。
江戸の稼業は父から子へと継がれるのが普通だ。従って、平次は転生して江戸に生を受けたその瞬間から、家業として医師になることが既定路線となっていた。
第2に、近隣住民の要望である。
平次の父親はかねてから腕が良く、『日本橋の名医』として尊敬を集めていた。その名医の許で修業を積んでいるのが平次だった。
彼らは当然、名医の息子に期待する。そして期待するだけでなく、父親の跡を継ぐことを願っていた。
というのも基本的に、医師は独立となれば師匠とは別の地域で開業するのがルールなのだ。師と弟子で患者というパイを喰い合わぬようにである。
従って近隣住民は、平次が独立開業せず、家業として父親の診療所を継ぐようにと同調圧力を日ごろから掛けているのだった。
そして、第3の思惑として、平次個人の願いがある。
平次がなりたいのは、剣豪でも医師でもない。料理人だった。前世では叶わなかった夢を、この江戸で叶えたいという想いが強くあった。
結果としてそれが不可能であったとしても、望み続けることは許されている。内面の自由は、少なくとも家庭内では保障されていた。
つまり平次は、来るべき日が来なければ、自ら父の跡を継ぐことはない――という選択をしたのである。
「庖丁ではなく刀を握り、魚ではなく人を捌き、その手で患者に治療を施す……。ははっ、どう足掻いても料理人にはなれそうにないな」
平次は自嘲し、しがらみによって自由がままならない己の身の上を嗤う。
たしかに江戸は人情の町だった。しかしそれは、住民たちが助け合わなければ生き残れないからこその結束力だったのだ。
別にそのこと自体は嫌いではない。
だがその反面、人目を常に気にしなければならないことになる。
そして、共同体の枠内から外れれば排斥されることになり、その界隈ではもう生きられなくなってしまう――それが江戸のリアルだったのだ。