第14話 生真面目な御家人と豪胆な旗本。
平次が江戸城を辞したのは戌の刻(午後8時)のこと。
もちろん、すぐに寝ることはできない。
両親や日本橋界隈の住民たちからの歓待があり――床に就くことができたのは子の刻(午前0時)を回った頃合いだった。
本舩町の住民たちは、見る限り、平次が将軍付きの膳医となったことに好意的な様子である。
やはり、自分たちの住む地域から『公方様の側仕え』が出たことに誇りを覚えているらしい。
江戸時代という身分制社会にあって、その身分の枠を飛び越えることができる希少な職業のひとつが医師という職業だった。
江戸や大阪あるいは京といった大都市で名を上げた名医が登用され、名声ひとつで藩主に仕えることはありえないことではない。
特に平次は、食の面から患者に相対する珍しい医師だった。だからこそ登用されたのだろう、というのが本舩町での評判である。
(それにしても、目が冴えて仕方がない……)
寅の刻(午前4時)ごろ、平次は褥の上で目蓋を開けながら大きく吐息を漏らしていた。
これからの仕事に緊張しているのだろう――素直にそう思える。
期せずして本舩町とのしがらみは切れ、新たな道へと進むことができた自分。
しかしその道には、絶世の美女たる姫将軍がいる。緊張しないはずがなかった。
(でも、その道の先には……前世以来の俺の夢がある。安くて美味いものをみんなに提供できる……大衆食堂の設立が)
正之の言葉を信頼するのであれば、彼はきっと、平次のために大衆食堂創設の手助けをしてくれるだろう。
そしてその実現の日は、そう遠くはないはずだ。
会津中将は膳医の職は、あくまでも臨時の職だと言っている。任期が切れ次第、平次はまた市井に戻ることになるのだから。
(とはいえ、分からないことも多いんだよな……。お綱さんが征夷大将軍を譲位するということ、そして彼女がどうして桜ヶ池で溺れていたのかということ、少なくともこのふたつが謎のままだ)
平次はまた、ため息を漏らす。
こんなことは考えるだけ時間の無駄だ。
今できることは、新しい仕事をきっちりと果たしていくことだろう。
(信頼してもらえるようになれば、その辺りのことも話して貰えるようになるだろうし)
むくりと褥から起き上がりながら、ぐっと背を伸ばす。
二度寝をするにも微妙な時間だった。早めに登城して、新しい職場である御膳所の内部を把握しておくのも悪くない。
そう思って両親に挨拶をしておこうと思ったのだが――止めた。
襖の向こうから、父親の激しい吐息と母親の嬌声が聞こえてきたからだ。
(……聞いてはいけないものを耳にしてしまった)
転生したとはいえ、彼らが両親であることに変わりはない。
そして子供からすれば、我儘なことだが、両親が盛っている姿は見たくないものだ。
もちろん平次もそうであり、黙って家の外に出ることにした。
◆
江戸の町が本格的に活気付きはじめるのは、およそ半刻(1時間)後のことだろう。
だが本舩町は他の地区よりも先んじて、人の入りが多くなる地域だった。
他でもない。お綱が以前言っていたように、ここには魚の卸売市場が置かれているからだ。
「安いよ安いよ! 取れたての魚が安いよーっ!」
「こっちは江戸前、他とは質が段違いだよ! ほらっ、早い者勝ちだよっ!!」
江戸の魚卸売の歴史において、築地に市場が移るのは遠く1935年のことである。
つまるところ、幕府が滅亡してもなお存続し続け、本舩町は300年近くも魚の流通拠点であったと言っても過言ではない。
つい2年前――明暦2年(1656年)までは吉原遊郭が近隣にあったこともあり、本舩町も随分と華やかだったものだ。
あの遊郭は江戸幕府に公認された場所だが、それでも平次はついに行ったことがなかった。
というのも娘を質にして日銭を得るという下衆な親は、やはり存在する。
幼い頃に平次の遊び仲間だった少女のなかにも、吉原の者に――親の借金代わりに連れていかれた者がいたのだ。
(吉原か……)
あの大人の遊び場を思う時、平次はやりきれない気持ちで一杯になる。
されど、あの遊郭は既に浅草寺近隣の日本堤へと移転していた。
それもあって本舩町とその界隈は完全に『魚の町』になっており、人間の数よりも陸揚げされる魚の方が圧倒的に多いという塩梅だ。
そして、庶民たちよりも先に魚介類を買い付けるのは――他でもない幕府である。
質の良い魚は、幕府の賄頭率いる食材調達部門が率先して買い付けるのだった。
とはいえ、それはあくまでも建前に過ぎない。
目下、幕府の賄頭は商人に買い付けを委託していると聞いたことがある。
幕府からあらかじめ金を与えられた商人が買い付けを代行し、役人がそのなかから厳選を行って御膳所へ提供しているのだとか。
(これまでは全く興味がなかったけど、その辺りの仕組みも知っておかないと不味いだろうな……)
そんなことを考えながら町を歩いていると、珍しい客が魚売場の前で座り込んでいるのが目に入った。
顔のかたちは瓜実顔。穏やかそうな瞳をしていながら、目元はキリリと切れ上がっている涼やかな美男だ。
髷は武家風で、身なりも整っている。明らかに町人ではない。
「ふむ、ことしのイワシは例年になく艶が良い……滋養もありそうだな」
どうやら真剣に魚を検めているようで、売り子も遠慮して声を掛けないようにしているようだった。
爽やかな武士は微かに頷きながら、店先に並ぶイワシを見ながら溜息を付く。
「されど、公方様の膳にイワシは御法度。なにゆえ、美味い魚を膳に上らせることができぬのか。しきたりに縛られ、その状況に漫然と従うことは……はたして士分の忠なのだろうか」
なにやら切実な思いを抱えていそうな彼に、平次は思わず声を掛けてしまっていた。
「……すみませんが」
「むっ」
現代社会であれば、見も知らぬ相手に声を掛けることは相当な勇気がいることだろう。
平次も現代に生きていた頃であれば、絶対に出来ない所業である。
しかし江戸の町人文化の本髄は過干渉だった。そんな場所で19歳になるまで過ごしていると、相手に対する声掛け程度は自然に慣れてしまう。
慣習とは実に恐ろしいものだ。
「お侍様、どうやらイワシのことで何かお悩みで?」
ジャブ代わりの、すっとぼけた質問を投げかける。
どうやら相手は生真面目な性格をしているらしい。今日初めて会ったばかりの平次に、実直な眼差しを向けてきた。
「どうやら恥ずかしいところを見られてしまったようだ。なに、イワシの悩みというよりは御公儀の――いや、これはただの愚痴になる。聞き逃してくれ」
「御公儀の……」
「詮なきことだ、忘れよ」
そう言いながらため息を漏らした侍に、平次は素知らぬ顔で問う。
「御公儀と言えば……お侍様がお眺めになられていたその魚、イワシをお召し上がりにはならないと聞き及んでおります」
「なんだ、知っているのか。江戸の町人たちは博識なのだな」
それまでしゃがみ込んでいた武士だったが、平次に向き合ってスッと立ち上がった。
かなり、背が高い。6尺(182cm)はあろうかという大男だ。
顔も良く、背も高い。さぞか女性からモテるだろう――と思った平次に、彼は言った。
「とすれば、お前たちももう知っているかもしれんな。公方様にお仕えしていた御膳所の料理人たちが、総て二ノ丸と西ノ丸の御膳所へ異動になったという話は」
「……」
「何をお考えになっているのか、私のような下々の者にはまるで伝わってこない。もっとも、征夷大将軍の即位式以来、ほとんど大名や旗本の方々の前にも出てこないと聞き及んでいる。そのお心を知る者は、やはり幕閣の方々のみなのだろう」
高身長の侍は、深々とため息を漏らす。
「しかし、私は公方様のことが心配でならん。料理人たちの異動話もそうだが、しっかりとお食事を召し上がっているのだろうか……」
どうやら彼は、平次が将軍直属の膳医となったことを知らないらしい。
されどその忠義の心から、顔も知らないお綱のことを本気で案じているようだった。
「公方様はお食事を残されてばかりおられるとも聞いている。となれば我々は――っと、これは余り他言するような話ではなかったな」
武士は苦笑して頬を掻く。
「久々の非番にも関わらず、呼び出しを食らったことで気が荒んでいたらしい、忘れよ」
彼はそう言ってから、手ずから売り子を読んでイワシを4尾購入した。
武士が銭と魚、それも安価な下魚を手ずからやりとりするという極めて異様な姿。だが名も知らぬ彼は、至極当然の態でそれを行っている。
もしかすると、武家のなかでも銭と商品の交換を生業とする――賄頭配下の役人なのかもしれない。
「ところで、お前はこの界隈に住んでいるのか?」
イワシをぶら下げた男は、平次の顔をまじまじと見ながら続けた。
「この本舩町は、実に良い町だ。先の大火によって我々は大きな被害を受けたが、見事に立ち直っている。日本橋も多くの店が軒を連ねるようになったが、やはり食が行きわたらねば復興もままなるまい。そう言った意味で、この町は江戸再興の核でもあるのだ」
「……」
「私は西山 勝太郎と言う。幕府の賄吟味役として、公方様の膳に上梓する食品の品質を検めるお役目を頂いている」
西山と名乗った男は、そう言って笑う。
賄吟味役は御家人が就任する、食品や調度品を取り扱う幕府のエキスパートである。
彼が御膳所に届く食材を精査してくれているのか、と思うと胸が熱くなる平次だった。
「非番となれば、この町に来るだろう。私を見かけた時には、遠慮なく声を掛けよ。また話し相手にでもなってくれると嬉しい……ところで、お前の名は?」
「あ……申し遅れました、平次です」
「平次か、覚えておく。ではまた。先ほども言ったように、急な呼び出しを受けているのだ」
西山はそう言うと、踵を返して日本橋の方向へ消えて行く。
日本橋を北東部へ進めば、その界隈は御家人たちが暮らす武家町になっていることは平次も良く知っていた。
(そうだよな、ああいった表に出ない人たちがいるから……お綱さんは食事ができるんだ)
何気ない食材ひとつをとっても物語がある、人の繋がりがある。
そう思うと、俄然やる気が湧上がってきた。その気分が高揚するままに江戸城の城門をくぐろうとした平次だったが――
「おお、平次殿ではないか! しばし待たれよ!」
――大声で呼び止められ、立ち止まらざるを得なくなるのだった。
はたして、声の持ち主は内藤である。彼は大手を振って平次に声を掛けてきていた。