第13話 将軍様と大政参与と鬼取役と。
平次が調理を続けている間、お綱はずっと傍にいた。
彼女の瞳には、新たなものを知れたことへの喜びが満ちている。
作業をしなければならない手前もあり、互いにやりとりする言葉は必然的に少なくなったが、決して気まずい雰囲気にはならなかった。
それだけではない。
調理という細かい工程をつぶさに観察されたことで、彼女に己の人柄を理解して貰えたような気がしている。
料理の手際や調味料の使い方には、人間の性格がもろに出るからだった。
されど、いつまでもそんな時間が続く訳ではない。
はじまりがあれば終わりもある。御膳所に侍女たちがお綱を迎えにやって来たのだ。
いつの間にか、彼女の入浴する時間が迫っていたらしい。
「平次も来ますか?」
侍女の前で、姫将軍はそんな風に聞いてきた。
彼女と一緒に入浴――というのはとてつもなく魅力的な提案だろう。
しかし、それが冗談であることは最初から分かっている。
食事を作らなければならない平次が、御膳所を離れる訳にはいかないのだから。
「御冗談を」
「ふふっ、ではまた後程」
お綱が去った後、平次は深々とため息をつく。
どうやらあの姫将軍には茶目っ気もあるらしい。
男である平次に対して無警戒過ぎるとも思うのだが、江戸城で純粋培養されたが故の無垢さなのかもしれない。
(いや、俺が人畜無害の相手だと思われているのかもな。桜ヶ池で彼女を幾らでも手籠めにできたのに、そうしなかったから……)
とはいえ、あの時といまは別である。
平次はお綱の美貌を知ってしまった。
病弱であるにもかかわらず、御立派な乳房・双臀をお持ちであることも知ってしまった。
その肢体が湯煙のなかで、艶めかしく濡れていることを想像するだけで――色々と滾ってしまう。
(ああ、だめだだめだ。そんなことよりもまずは料理だ料理)
彼女の裸体を頭に思い浮かべてしまい、平次は慌てて己の雑念を振り払った。
煩悩に耽る前に、まずはやらねばならぬことがある。
お綱の食事の時間いっぱいまで、手を抜くつもりなど毛頭ないのだ。
「膳医様、お時間です」
そして、いよいよその時が来る。お綱の侍女たちが、わらわらと御膳所に入って来た。
彼女たちに膳の運搬を手伝って貰うことになり、熱を逃さないように覆いを掛けたものを『御膳の間』へと運んでいく。
「おお、待ちかねたぞ」
部屋に入るや否や、平次を出迎えたのは正之の声だった。
お綱は上座に座っており、お風呂上がりの楚々(そそ)とした佇まいをしている。
下座には、正之の他にも厳つい顔つきをした武人が座っていた。
角ばった顔、眉毛は海苔のように黒々としており太い。
だが眉毛の下にある目は鷹のように鋭かった。
肌は日に焼けており、剃り上げた月代までもが褐色に染まっている。
「まずは紹介しよう。こちらは上様の鬼取役(膳奉行)である内藤主膳殿だ」
「内藤主膳でござる。平次殿がお噂は、既に上様と保科様よりお聞かせ頂いており申す」
彼はそう言って、礼の姿勢を取った。
おそらくは三河以来の、徳川家譜代の旗本なのだろう。平次は腰を折った。
「本日より上様の医師兼料理人――膳医を拝命いたしました、平次でございます。どうかお見知りおきください」
「うむ」
正之に劣らぬ眼光の鋭さで内藤は頷く。
鬼取役とは、将軍の膳の毒見を最後に努める者のことを指す。
将軍の毒殺を防ぐため、あの仙台藩の初代藩主・伊達政宗公の進言によって設置されたという。
無論、毒見をするだけが鬼取役の職責ではない。
将軍の食に関する責任者でもあり、賄方見廻役や江戸城の警備を担う同心番人への指揮権も有する指揮官でもあった。
(どちらにせよ、これまでお綱様に出されてきたものと同じものを食べてきた相手だ。江戸城は上意下達、権威の世界。彼を納得させられなければ、俺の仕事は非常にやり辛くなるだろう)
だが、それは翻って、彼を納得させさえすれば――江戸城の食に関わる官僚たちを全て、体面的に押し黙らせることが可能だということを意味する。
「では、さっそく膳を拝見させて頂く」
内藤は芯の通った声で言った。
「まずは拙者が毒見をさせて頂き申す。上様をお救い下さった貴殿がことを信用していないのではない。決まりである。御気分を害されたのならば、謹んでお詫び申し上げる」
「い、いえ……別にそのようなことは……」
平次はうろたえる。
旗本は幕府の直臣であり、領地を有していた。
したがって江戸の民草からは『お殿様』と呼ばれる存在である。
そのような相手から『お詫び申し上げる』などと下手に出られると、平次はどう対応していいのか分からないのだ。
「では、失礼致す」
内藤は平次の戸惑いなど気にする素振りも見せず、膳の覆いを外した。
正之とお綱の目線も、そちらに注がれているのが見える。
「む……っ、なるほど、一汁二菜。たしかに一汁二菜である。いや、だがしかし……それにしてもこれは……」
天下の鬼取役は戸惑いの声を漏らしていた。
それを見て、平次は内藤たちに聞こえるよう、献立の説明へと移る。
「まず、汁ですが……これは海老出汁に赤味噌を溶いたもので、ナスが入っています。そして菜の一品目は、長芋とクルマエビの混ぜ焼き。二品目が、タイ・キス・ナス・カボチャの南蛮漬けに、茹でアワビの切り身を添えたものになります」
「むむ、これは珍妙な……」
内藤はそんな声を漏らしているが、しかしどこか喜色染みている。
もしかすると、これまでにない料理との遭遇に心躍っているのかもしれない。
「たしかに珍妙かもしれません。少なくとも公方様の膳に上ることはなかった献立でしょう。ですが、お綱様のこれからのお身体を考えれば適切なものであると思っています」
「なるほど。ならば拙者は、見た目や格式などについては何も言わないでおくことが良いのだろう。判断すべきは、上様が食することができるか否かに限られる」
お綱と正之に頭を下げてから、鬼取役が箸を取った。
「して平次殿、毒見に移る前に質問をお許し願いたい。この混ぜ焼きの横にある小瓶は?」
「はい、そのなかには長芋汁にオクラと海老出汁を加えたものが入っています」
「ほう、精が付きそうだ」
内藤の瞳が好奇心で揺れた。
「その小瓶は混ぜ焼きに掛けていただければと思います。ですが、まずは何も掛けずに」
「なるほど……では」
厳つい顔付きの武士が、箸の先端を――未だほかほかと温かい混ぜ焼きの先端に付ける。
途端、サクッと小気味好い音共に表面に箸が通った。
片栗粉が含まれていたことにより、表面がカリカリに焼き上がっていたのだ。
そして内藤が箸へ力を入れれば、ふんわりとしていながらも弾力ある生地が、香ばしい海老と味噌の薫りと共に迎え入れる。
それを一口含めば、彼は目をまん丸にして驚いた。
「むむ、これは……」
ゆっくりと楽しむように咀嚼し、呑み込むと――譜代の旗本は感嘆の吐息を漏らす。
「拙者は狭見にて、長芋汁を焼くという調理法を知らぬ。しかし、ふわりと優しく焼き上がった生地は実に見事」
「……」
「それだけでなく、海老の細かな切り身が絶妙な歯触りを与えてくれ申す。のみならず、海老のぶつ切りが噛む楽しさを忘れさせぬ上、ほのかに感じる味噌の塩気と薫りが何とも言えぬ……!」
「……ほほぅ」
内藤の言葉に、正之が期待の色を見せた。
その様子から判断するに、彼は食の番人として会津中将から高い信頼を受けているようだ。
お綱に至っては、明らかにそわそわしはじめている。
そんなふたりの貴人の視線を浴びながら、鬼取役は小鉢を取り、中身を混ぜ焼きに掛けた。
「それにしても、不思議であり申す。元は同じ長芋汁であるにもかかわらず、火を通すだけでここまで食感が変わってくるとは……面白い」
たしかに、内藤の言うことも『ねらい』のひとつだった。
すなわち、同じ食材の異なる食感を楽しんでもらうという点においてである。
だが、本当の狙いは栄養面での補完に他ならない。
混ぜ焼きにすることにより、ムチンは失われてしまう。
そのため長芋汁をソースとして用いることで、喪失した分のムチンを補完する仕組みなのだ。
「して、この南蛮漬けなるものは?」
「長崎から伝わってきた料理になります。戦国の末期には既に知られていたと聞き及んでおりますが……」
「ふむ……長崎に縁者がおらぬ故か、拙者は知らぬ」
「なるほど、ではご説明させていただきます」
平次は内藤に調理法を大雑把に話すことにする。
こういった場所では、事細かに説明しても仕方がないからだ。
「まずは魚も野菜も総て、片栗粉を溶いた衣と共にごま油でカラッと揚げます。そして出来上がったものを、醤油と酢と味醂そして砂糖と酒を併せたタレに漬け込みました。味は濃い目になっていますので、アワビの素焼きは是非とも箸休めに」
「なるほど……これはまた楽しみだ」
すっかりと食の楽しみを覚えているらしい。
内藤はタイの南蛮漬けを箸で挟み、大きく口を開けて――あむりと美味そうに頬張った。
「あぁ、甘酸っぱいタレがタイの切り身を包む衣とよく馴染んでおる。なんと、こちらのカボチャもほっくりとしていて実に旨い。ナスはじゅわっと汁気も豊かで……美味、美味である!」
天下の鬼取役は、もうすっかり毒見のことなど忘れてしまった様子で、平次の作った料理に舌鼓を打っている。
海老出汁の味噌汁をすすり、白米を掻き込み、手の甲でグッと口元を拭う内藤。あっという間の完食だった。
「これは、毒にござる」
内藤は深い感動を目に湛えながら告げる。
「毒、毒、毒、それも猛毒もいいところですぞ。このような毒を食らえば、これまでの味気のない食事には……二度と戻れますまい」
「そこまで言うか……。毒を食らわば皿まで、とはよく言うが……」
「保科様、このようなことを申すは立場もあり気が引けますが――拙者に武士としての誇りがなければ、容器に付着しているタレすらべろべろと舐めしゃぶっておることでしょう」
会津中将は「それほどのものか」と目前の膳を見つめた。
そんな折、お綱が痺れを切らす。彼女は唇を尖らせながら言った。
「爺、爺! わたくしは、いつまで待たされればよろしいのでしょうか!」
「ああ、これは失礼いたしました……。主膳、何も問題はなかったのだな」
「はっ、上様がこの若者をお抱えになると仰った意味、ようやく腑に落ちてございまする」
内藤は空になった膳を除けてから、平次に腰を折る。
「どうか、これからも上様の御為に……その腕、存分に振るって頂きたい」
お綱が食事をはじめたのは、それからだった。
嬉々として箸を付けはじめた姫将軍を前に、相伴に預かるという態を取って正之と平次も箸を取る。
やはり、と言えば変な話だが――お綱は「美味しい」としばしば口に出しながら、用意した料理を総て平らげてくれた。
「うむ……」
おそらく、普段であれば絶対に残していた量なのだろう。
まだ食事を続けられそうな気配を見せるお綱を前にして、正之と内藤は互いに顔を見合わせ――これまでの上様の小食振りは何だったのかと、深く嘆息するのだった。