第12話 御膳所に灯る焔。
用意されていた前掛けをしゅるりと結び、改めて気合を入れ直した平次は3基の『へっつい』に火を点しはじめる。
その機構は家庭用のものと変わらないため、準備に困ることはない。
だがしかし、その焔が揺らめくのを見て――新たな疑問が浮上してくるのを押さえ切ることができなかった。
(江戸城の本丸で、火を熾していいものなのか?)
用意されている調味料のなかにはごま油なども当然ある。
もし失火すれば、江戸幕府の権力中枢である『表』や『中奥』を全焼させかねない。
それに江戸の町衆たちの噂話では『上様は火事を避けるので天麩羅を召し上がらない』という噂もあった。
(まぁ、でも……『へっつい』もあるしごま油もある。要するに、火は使っていいし油もOKってことだもんな)
平次は自己完結し、早速調理をはじめることにする。
まずは、クルマエビだ。おそらくは江戸前の最上級品なのだろう。
現代社会では養殖によって安定的に高品質の海老を生産できるようになっていたが、江戸時代ではやはり漁に頼らざるを得ない事情がある。
(とはいえ、大きさはほぼ均一だ。事前にお役人たちが吟味してるんだろうな)
そんなことを思いながら、平次はクルマエビの皮を剥くところからはじめることにした。
すると、お綱が驚いたような声を上げる。
「あら……? 海老は尾頭付きでそのまま塩焼きにするものではないのですか?」
どうやら江戸城では殻ごと焼いて、それを食膳に上らせるらしい。
将軍が殻ごとバリボリと食べる訳がないので、おそらくは侍女たちが皮むきなどをするのだろう。
いずれにせよお綱の思考には、海老はそのまま焼くものだという意識が強いらしい。
「ええ、塩焼き以外にも様々な調理の仕方がありますから」
「そうなのですね……。わたくしは塩焼きの海老しか食べたことがありませんから、とても楽しみです」
平次は彼女の発言に驚く。そんなことがありえるのだろうかと。
お綱は細くするように言った。
「城では決まった献立のものしか出ませんでした。繰り返し繰り返し、日を跨いで同じ献立のものが供されるのです」
「なるほど……」
お綱のスケジュールもそうだが、江戸城は実に機械的なシステムで動いているらしい。
いや、それも当然か――と平次は思い直す。
学校と一緒だ。大量の人間が動く組織の内部では、どうしても画一的に動かざるを得なくなる。
(もしかするとお綱さんの小食って、そういったストレスに影響されてるんじゃないのか?)
色々と想像は尽きない。
だがひとまずは、料理を作ることに専念しよう。
「では、今宵はお綱さんが楽しめるような料理にしましょうか」
「あら、それは楽しみですね」
ふわりとした気品ある笑みを浮かべた姫将軍。
その横で調理モードに入った平次が黙々と海老の皮を剥いていく。
そしてぷりっぷりの身を露わにさせた後、庖丁をまな板の上で躍らせた。
お綱の話を聞く限り、クルマエビを食材として選んだ正之は――きっと、海老の火の通り具合などを評価しようと考えていたに違いない。
だが平次は、8尾ある海老のうち6尾を細かく切り刻んでしまっていた。残りの2尾はぶつ切りだ。
姫将軍は未知なる料理に目を輝かせていたが、興味を押さえ切れなかったようで遂に声を上げる。
「平次様、海老の頭や殻を鍋に入れて……どうされるおつもりなのですか?」
「ああ、これですか。海老から出汁を取ろうと思いまして」
「出汁を……ですか?」
お綱の表情に疑問符が浮かぶ。
「その、わたくしの貧相な知識ですが……出汁は昆布や鰹節から取るものではないのですか?」
「たしかに、昆布や鰹節から出汁を取るのが一般的です。ですが、出汁自体は様々なものから取ることができるんです」
4人分の味噌汁を作るため、平次はクルマエビの頭と殻を茹でる鍋をジッと観察している。
そして頃合いを見計らって日本酒を注いだ。
海老の芳醇な薫りが漂うお湯のなかで、頭や殻が鮮やかな紅色へと色付いていく。
「まぁっ、平次様! 海老がまるで紅葉のように!」
童女のような歓声を上げる第四代征夷大将軍。
その声を浴びながら、鍋のなかで色付き躍る海老殻たち。お綱の関心は完全にそちらへと移行していた。
(でも気持ちは分からないでもないなぁ)
平次は苦笑しながら、次の作業へ移ることにする。
海老殻から出汁を取るには30分ほど煮込まなくてはならない。その間に調理を進めておかなくてはいけないだろう。
次いで平次が手に取ったのは長芋だった。
ビタミンが豊富で亜鉛などの成分を含んでいるので、貧血気味なお綱の体質改善にも役立つだろう。
しかしぬるぬるとしているので、庖丁を扱う際には細心の注意を払う必要がある。
だが、ムチンと呼ばれるこのぬめりが大切な成分なのだ。
たんぱく質の消化を助けるだけでなく胃の粘膜を保護し、疲労回復にも効果があるのである。
健康マニアでもあった徳川家康公が、精力増強のために好んで食べていたと言われるほどだった。
(ムチンは70度以上の熱で、成分としては壊れる。だから、これを摂取するにはとろろ飯が一番いいんだろう)
だが、とろろ飯はあの会津中将も予想しているに決まっている。
ならば、裏切ってやろう――平次の心の奥底にある反骨精神が鎌首をもたげていた。
あの強面が、出された料理を前に驚愕に変わる様を見るのが楽しみで仕方がない。
平次はしゅりしゅりと長芋を摩り下ろし、二つの椀に分けた。
一つ目の椀には、先程のクルマエビの細切りとぶつ切りを投入する。そして味噌を混ぜ、水溶き片栗粉も入れていく。
二つ目の椀にはオクラを輪切りにして、これまた混ぜた。
オクラはこれまた栄養素の塊であり、お綱には積極的に食べてもらいたい食材である。
「平次様、とろろ飯になさるのですか?」
海老出汁から関心を解いたお綱が訊いてきた。
ほぼレシピが固定化されているという江戸幕府である。
その枠内で生きる者からすれば、長芋汁は御飯に掛けるものだという発想しか浮かばないのだろう。
「いえ、違います。お綱さん、跳ねますから少し離れていてください」
「えっ? 跳ねるとは……って、あぁっ!」
お綱の口から驚きの声が上がった。
そう、平次が鍋にごま油を引き、そのなかにクルマエビの身が入った長芋汁を注ぎ込んだからだ。
ジュウゥウゥッと小気味よい音が御膳所に響く。
「そんな、焼くだなんて……!」
「まぁ、見ていてください」
水溶き片栗粉が入っていることもある。
海老入り長芋汁は火が通ると、みるみるうちに固まっていった。
平次は頃合いを見計らい、大きく鍋を揺り動かした。
途端、固まった長芋汁がふわっと宙を舞う。
そして焼かれていない面を下にして、再度鍋のなかへと収まった。
「これは、一体……」
「長芋を生地にした、クルマエビの混ぜ焼きになります」
すりおろした長芋は、火を通すとふんわりもちもちとした独特の歯触りが楽しめる。
その生地に細切れとぶつ切り2種類の海老が混在し、噛むと楽しい料理になっているはずだった。
「そんな……こんなの、絶対に美味しいに決まっているではありませんか……」
「ええ、きっと気に入って頂けると思いますよ」
平次はそう言いながら、味噌汁用に海老の頭で出汁を取っていた鍋を上げる。
中身をしっかり濾して殻を完全に取り除いた。
そして、大匙一杯――抽出された出汁を掬い上げる。
火を通していない方の長芋汁にそれを掛けると、塩を軽く振って溶いていった。
「あぁ……海老の、海老のふんわりとした香りが……っ」
「醤油を混ぜるだけというのも、少し勿体ない気がしますからね」
「これを、御飯に掛けて……?」
「それでも構いませんが、できれば先程の長芋とクルマエビの混ぜ焼きに掛けて召し上がって頂ければと」
「ふわぁあぁ……っ」
両手を頬に当て、うっとりとした貌で悩ましげな声を漏らす姫将軍。
そんなお綱を見ながら、平次は心底、料理を作ることへの喜びを感じていた。
(やっぱり、作るからには喜んでもらうのが一番だよな……)