第11話 徳川将軍への初膳。
中世以来、日本には「庖丁道」と呼ばれる作法の体系がある。
肉にせよ魚にせよ野菜にせよ、その全てに切り方や庖丁捌き――更には配膳などに、『きまり』が存在していたのだ。
そしてそれを知っていないと、教養がないとして嘲笑の対象となってしまうのだった。
平次は歴史に詳しくない。
高校の時にも、カタカナが覚えられないからという理由だけで――世界史を捨て、日本史を選択した男である。
当然だが、江戸城の厨房において、どのような流儀で料理が作られていたのかについては知識がなかった。あるはずがない。
対してお綱や正之は、有職故実――過去から連綿と受け継がれてきている流儀や作法――に通じていてもおかしくない相手である。
(そんな相手に、現代的な庖丁使いは許されるのか……?)
平次はここにきて悩んだ。悩んだのだが――
『平次様がお持ちの御立派な庖丁捌き……またわたくしに見せては下さいませんでしょうか』
――そんな嬉しいことを言ってくれた、天下の大将軍の御前である。
もはや深く考えても仕方がないだろう。平次はそのように判断した。
(どうせ保科様も、由緒正しき作法なんて求めていないだろうし。なにしろ俺は、この世界では町医者の息子なんだ。江戸城における庖丁道の作法なんて求められているはずがない)
無い袖は振れぬ。
己の持っている技術だけで、真正面から勝負する他にないのだ。
(ならもう、現代的な庖丁の入れ方で勝負するしかないよな)
平次は覚悟を決めた。
ひとまずは、己のベストをつくさなければ。
そんなことを思いながら調理器具に手を伸ばそうとして――あることに気付き、慌ててその目をお綱へと向ける。
「では早速……と言いたいところなのですが」
「はい、なにか?」
男の視線を受け、きょとんと首を傾げてみせるお綱。
美しさと可愛らしさが絶妙に混ざり合った仕草に、思わず胸を高鳴らせてしまう。
だが、いつまでも見とれてはいられない。
料理を提供する都合、絶対に知っておかなければならないことがあった。
「その、お綱さんは……普段、どれだけの量を召し上がるのでしょうか」
「普段、ですか……」
右手の人差し指を唇に押し当て、僅かに思考した後――お綱は口を開く。
「そうですね、ご飯はおおよそ2口ほど。汁は飲みますけれど、おかずは5口も食べれば満足してしまいます」
「……は?」
平次の口から漏れ出た疑念の声。
それを聞いたお綱は「ほんとうですよ」と応じる。
「わたくしはいつも、その程度しか食べることができなかったのです。先ほど爺から断食の話がでましたけれども、断食を止めた後も――実は、そんなに食べることができなくて……」
「ですが、以前お出しした卵雑炊の量は……」
しっかりと一人前はあったはずだ。
そんなことを思う平次に、お綱は頷いた。
「はい、仰る通りです。ですから、平次様にお作り頂いたあの雑炊こそが……わたくしが最も量を頂いた料理だったのです」
「それは……真で?」
「わたくしは、嘘偽りを絶対に口から漏らさぬようにと教えられ、18歳になったのですけれど」
にわかには信じがたい話だが、平次の問い返しが不満だったのだろう。
お綱はぷくーっと頬を膨らませて抗議をしてくる。
ヒマワリの種を溜め込んで頬を膨らませたハムスターのような顔だ。
こんな将軍様の姿を、どれほどの幕臣が見たことがあるのだろうか。
「ですから、本当のことしか申しませんっ。いままで朝夕の食事はずっと一汁二菜でしたし、それ以上は食べることはできませんでした。普段の食事すら……残してしまっていたのですから」
「そう……ですか」
事前に聞けてよかった――と平次は心底そう思う。
気合を入れてたくさん料理を作れば、きっとお綱を困らせてしまっただろうから。
一汁二菜も残すレベルの相手に、五菜も十菜も出す訳にはいかないのだ。
「でっ、ですけれど……!」
だが、彼女は平次の着物の袖を握り、ぶんぶんと首を左右に振った。
「わ、わたくしは……平次様のお作りになった料理を、お腹がいっぱいになるまで食べたいと思っております。貴方のお作り下さったものでしたら、絶対に食べ切ることができると思うのです……!」
「ふむ……」
平次はお願いされた手前、少しだけ考える振りをする。
だが、結論ははじめから決まっているようなものだった。
(どちらにせよ、作り過ぎてはいけないな。量を食べられるようになったら、その時にゆっくりと増やしていけば良いだけの話だ。栄養を取るうえで大切なのは、量より質だし)
ただ、気になるのは4膳準備しろといった正之の言葉だ。
つまり、もうひとり誰かが相伴するということを意味している。
お綱の膳は少なめにしておく一方で、残りの膳は一定量を担保しておく必要がありそうだ。
だがあくまでも、そういったことはついでである。
麗しの姫将軍のために料理を作る、という基本を忘れてはいけなかった。
あくまでも力点はそこにある。
「分かりました、お綱さん。ここは貴女様のためだけに、腕を振るわせて頂きます」
「はいっ!」
ぱぁっと桜が咲き誇ったかのような、美しく尊い清楚な笑顔。
それを無条件に寄せてくれる理由は、彼女の命を救ったが故なのか……。
いずれにせよ平次は、気恥ずかしさからお綱から顔を反らした。
そして己の高鳴る鼓動を誤魔化すように、準備されている食材に目を配っていく。
正之が残した食材は、それなりの量があった。
籠のなかには野菜類、桶のなかには魚介類が入っている。
野菜類は長芋・オクラ・ナス・カボチャ・唐辛子。
魚介類はクルマエビ・タイ・アワビ・キスが、それぞれ用意されていた。
平次はこれらすべてを使い、調理を行っていなければいけないのだ。
味噌や醤油、塩といった調味料は各種揃っている。
調味料なしで料理を作るという芸当は、調理に関する制約が強い江戸時代では難しい。
(さて、それじゃあ何を作るとしようか……)
この時代に即したものにするべきか、あるいは現代風のものにするべきか……。
だが、平次のそんな迷える思考はすぐに結審されることになる。
好奇心旺盛で、そして期待感に満ちたお綱の顔が見えたからだった。
(きっと、調理前の食材をみるのも初めてなんだろうな……)
桶のなかに収められている魚介類を見て、感嘆の声を漏らす姫将軍の姿に苦笑しながらそんな思いを抱く。
ならば、彼女が新鮮さを感じながら――同時に喜んでくれるような料理を作ろう。
平次はそう決心していた。
(でも、あくまでも常識の範囲内の料理にしよう。いきなり変なものを出す訳にもいかないしな……)
覚悟を決めた以上、流石に初日からリストラされたくはない。
それにお綱のような美女から蔑まれたりするようなことがあれば、もう色んな意味で立ち直ることはできなさそうだ。
方向性は決まった、後は作るだけである。
平次は気合を入れ、グッと握りこぶしに力を入れた。