第10話 新御膳所と禁じられた食材。
お綱に本丸の御膳所まで案内されると、やはり正之が待ち受けていた。
彼は直々に、広々とした新御膳所――もとい調理場を案内してくれる。
大量の料理人たちが使用することを前提に作られた施設ということもあり、台所としては非常に奥行きが感じられた。
ずらりと並ぶ木製の調理台。
庖丁や擂鉢といった調理器具も完璧に整っている。
竃である『へっつい』は10基も用意されていたが、これは大勢の料理人が大量の食事を生産するためのものだ。
その総てを使う機会は、おそらくないだろう。
「おぬしにはここで働いてもらうことになる」
真新しい御膳所に響く正之の声が、どこか非現実的なもののように聞こえていた。
現代社会から江戸時代に転生し、料理人になることはほぼ諦めかけていた平次である。
棚ぼた的な展開ではあるが、しかし自分が料理人としての第一歩を踏み出そうとしていることは間違いないのだ。
「膳医としての職務は一般の官吏とは異なり、上様のご予定と密接に絡み合いながら行われることになろう。故に、上様の日常生活と併せて理解しておくとよい」
御膳所の中ほどで、正之が平次を顧みて言った。
「上様は卯の刻(午前6時)に御起床され、辰の刻(午前8時)に朝食を召し上がる。つまりおぬしは卯の刻前には登城し、厨房で辰の刻までに膳を作り終えねばならん。そして朝食が済んだのち、上様の御血色を確認するのだ」
随分と規則的というか、機械的なルーティンなのだなと平次は思う。
日常生活ですら総てが時間通りに行われなければいけないというのは、なかなか辛い気がしてならない。
とはいえ、だからといってそんな感想を漏らすことはできなかった。平次はひとまず従順に首肯する。
「分かりました、そのように致します」
「うむ、物わかりの良い若者は好ましいの」
会津中将は満足そうに言った。
「で、な……。朝食の後、上様は夕餉のある酉の刻(午後6時)前のご入浴までは、特に予定は入っておらん。それまでは何をしていても構わんぞ」
それはつまるところ、朝食が終わると夕食までお綱は何もしていないということになる。
平次は思わず問い掛けていた。
「保科様、質問をお許しくださいますでしょうか」
「なんじゃ、何か分からぬことでもあったか?」
「はい。上様についてですが……御政務はなさらないのでしょうか」
その瞬間、正之の雰囲気が激変する。
どうやら聞いてはいけない内容だったらしい。平次は慌てて質問を取り下げた。
「で、では……辰と酉の二回、上様のお食事を手配いたします」
「……それでよい」
江戸幕府の重鎮の顔には、『余計な詮索はするでないぞ』という強烈なメッセージが浮かんでいた。
どうやらお綱と幕府の関係は、そう簡単なものではないらしい。
(お綱さんが江戸城を抜け出した理由も、なんだか闇が深そうだな……)
平次はそんなことを考えながら、正之に問い掛ける。
「保科様。実は他のことでお聞きしたいことが……」
「どうした。まだ、何かあるのか?」
「はい、お聞きしておかなければならないことです。上様の好物やお嫌いな物、食べられない物があればお伺いしたいのですが……」
「なるほどのう。それはたしかに、おぬしが知っておくべき事柄に違いない」
大政参与は頷きながら応じた。
「まず、上様が召し上がることのできない食材というものがある。野菜であればネギやニラにラッキョウ、魚であればマグロにイワシ、そしてサンマも御法度であるな。貝類であればカキにアサリはお出しすることはできん。肉類はツルやカモ、ウサギを除いて厳禁である」
「……」
思わず、平次はあんぐりと口を開いてしまう。
そして理解した。お綱がネギを知らなかったのは、きっとそのような決まりごとが原因だったのだ。
「なっ、何故ですか……? 何故そのような決まりが……」
「理由は言うまでもない、『格』の問題に他ならん。徳川将軍が口に運ぶことができる食材は、その口に相応しい『格』の物に限るべきだからだ。故に、将軍に相応しからぬ品は総て膳の上から排除されることになる」
「……恐れながら」
「申せ」
重々しいオーラを放つ偉人の目を、平次はしっかりと見据えながら断じた。
「そのような下らぬしきたりは、なくしてしまった方が良いと思われます」
「なっ、なにッ!?」
今日出会ったばかりの無位無官の若造が、天下の名宰相に――徳川幕府のしきたりを『下らない』と言ったばかりか、撤廃しろとまで踏み込んできたのだ。
正之が驚愕したのも仕方のない反応だろう。
「お叱りは承知の上です。ですが、それを踏まえて顕現させて頂きたく……」
「……うむむ」
だがしかし、正之は短慮を起こすような人間ではなかった。
彼はすぐさま平次に対し、「申してみよ」と問い掛ける。
背後では、お綱がその様相をジッと見つめていた。
「はい。気付いたのですが、実は……いま保科様が仰った禁制の品々こそ、上様のお身体を健康にする滋養ある食材に他ならないのです」
「む……っ?」
正之の目の色が変わる。そして期待の焔がその眼孔奥深くに宿った。
どうやら彼がお綱の身体を案じている心は本物のようだ。
「たとえばネギは、上様を風邪から守る大切な野菜でございます。カキは栄養が豊富ですし、上様の貧血を和らげるカギとなるやもしれません。もし保科様が本当に上様のお身体を案じられているならば、そのようなしきたりはなくさねばなりませぬ」
「む、むむ……」
想定外の要望なのだろう。平次の言葉を受けて、正之は思案顔になった。
そんな彼に、お綱がそっと声を掛ける。会津中将は振り返り、首を垂れた。
「爺、平次の言う通りになさい。幕閣の者がうるさくとも、わたくしの一代限りの特例と言えば問題ないでしょう。所詮、女子であるわたくしのことですから」
「……承知致しました」
江戸幕府の大政参与とはいえ、流石に将軍の意向には従わざるを得ないのだろう。
だがそれ以上に、平次には気になることがあった。
というのも、お綱は征夷大将軍という武家の頂点に君臨している存在にもかかわらず、妙に立場が弱いように思えるのだ。
「上様の意向でもある。平次よ、おぬしの献言は容れることにしよう。他の者も、上様のお望みだと聞けば――表面上は黙っておく他あるまい」
「……」
何やら含みのある言葉である。
つまり、潜在的には不満を抱く者が出るだろう、ということだ。
それは当然だろう、と平次も思う。
組織にいる以上、いままでのやり方が変えられてしまうことに不快感を覚える者は少なくないだろうから。
「これからは必要な食材をしたため、各種調達を管轄している賄頭に渡すが良い。さすればおぬしの望むものが手配されるであろう。賄頭には、明日にでも引き合わせることに致そうか」
「ありがたき幸せ……」
頭を下げた平次に、正之は深く頷きながら言う。
「だが、責任は重大ぞ。おぬしの献言を受けて食材の禁を取り払う以上、必ずや上様のお身体を壮健にせねばならぬ。それをよく自覚した上で励むのだ、分かったな?」
「はっ」
「では、これよりおぬしの料理の腕を見せてもらうことにしよう」
会津中将は調理台の上を示した。そこには様々な駕籠や桶が置いてある。
「そのなかには儂が選んだ食材が入っておる。総てを使い、今宵の膳を用意せよ。おぬしの分も含め、4膳作るのだ。儂はこれより政務に戻る。夕餉の時に何が出来上がっているのか、楽しみにしておるぞ」
彼はそう言って、お綱に深々と腰を折った。
「では、上様……また後程」
「はい」
足早に、しかし威厳を纏いながら去っていく大政参与。
老人が御膳所から出て言った途端、お綱はほっと一息ついた。
(色々とあるみたいだけど、それでもやっぱり……お綱さんの影響力は大きいんだな)
安堵の表情を浮かべている姫将軍を見ながら思う。
どんな事情が幕府内にあるかはしらない。だが彼女は征夷大将軍なのだ。
その口から発せられた言葉には、とてつもない重みがある。
東屋でお綱がなかなか発言しなかったのも、その影響力に鑑みてのことにちがいない。
(それにしても征夷大将軍か……物凄く、生き辛そうだ)
思わず盛大に溜息を漏らす平次。
その姿を見てお綱は苦笑した。
「やはり、爺は怖いですか?」
「いえ、怖いというよりも……圧倒されます」
平次はそう応答する他にない。
するとお綱は御膳所の戸締りがされていることを確認した後、手を握り締めてきた。
その容貌には、どこか必死さがにじんでいる。
「あの、差し出がましいようですが……爺はとても良い方なのです。平次様、どうか嫌わないであげて下さいね」
「いえ、嫌うも何も……会ったばかりですし」
「そうですか……。でも、安心致しました。会津の爺やを平次様が忌むようなことがあると――わたくしはとても悲しいですから」
「お綱さん……」
何となくだが、理解した。お綱にとって正之は、数少ない『仲間』なのだろう。故に、いがみ合うようなことだけはしてもらいたくないのだ。
平次は先程までの会話で、彼女が幕府という檻のなかに閉じ込められていることを理解している。
それを思えば尚更だった。
「ね、平次様。先ほど爺も言っておりましたが……わたくし、寝て起きて食べて入浴する以外に、基本的になにもすることがありませんの」
ですから、と姫将軍は上目遣いに囁く。
「もう、申の刻(午後4時)も近いことですから――ね?」
「ね? とは……」
天女のような女性から発せられる小さな声。
それに対し過敏に反応し、己の顔が真っ赤になっていることを平次は自覚している。
お綱は頤に左手の人差し指を当てながら目を細め、そっと潤い豊かな唇を開くのだった。
「平次様がお持ちの御立派なアレ、またわたくしに見せては下さいませんでしょうか」